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言語の偉大さを再認した、スポーツの祭典 2020東京オリンピック

海外旅行に行くと、観光名所の騒がしいところであろうと、混雑した電車の中であろうと、日本語が聞こえてくるとついつい反応してしまう。

「あ、日本人だ」と仲間を発見した気分になって安心する。

この気持ちは世界共通なのだな、と感じたのは東京2020のオリンピック。私は、ボランティアとして参加していた。有明アリーナでバレーボール選手のアテンドというお役目のもと、連日各国の選手たちを間近で見ていた。

選手たちを観察をしていると、そこに当然のように彼らの通訳さんがいる。試合の緊張感でキリリとアスリートの顔をしていた選手が、その通訳さんと話すときにいとも簡単に緩んでいく。毎日目の前で繰り広げられた光景だった。言葉もわからない、生活様式も違う日本という国で、選手たちの唯一の心の拠り所と言えるような様子が強く印象に残った。

スポーツ選手のメンタルトレーナーとして、ドイツで仕事をする友人が話していた。「母国語レベルでドイツ語ができないと仕事にならない。英語よりドイツ語。ドイツ人が英語が話せる人がほとんどだけど、母国語で話せないことだってストレスに成りえるから」と。

人が母国語に対して抱く思い入れは、おそらく自分が自覚している以上なのではなかろうかと思う。私自身、海外での生活も経験し、英語をはじめドイツ語もインドネシア語もそこそこ勉強したが、ずーっと外国語ばかり聴いているとどうしても疲れてしまう。

意味のわからない外国語の音の波の中を漂っていると、母国語が灯台のように心の拠り所になるのだ。

「スポーツは言語を超える」と聞いたことがある。
私は、そのスポーツのオリンピックという大舞台で、逆に、言語の持つ役割の偉大さに改めて気づかされた。

この気づきは今、日本語教師の仕事に生きている。ネパール語で話す学生同士の会話を、耳に聞こえたまま音を再現する。ほら、これだけで学生は驚きと喜びで、顔をくしゃっとさせて私に笑いかけてくれる。

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