子供が入院した話①
それは突然に・・・
子育てと仕事の両立は大変だ。
その中で断トツに大変なのは、
子供の急な病気だ。
熱を出したりも大変なのだけど、
うちの子は上の子が2回、
下の子が1回、入院している。
子供が入院すると、当然、夜も含めて
24時間、つきっきりになる。
そして、それは突然訪れ、いつ
終わるか分からない。
長女の入院
上の子が初めて入院したのは、まだ
1歳になっていなかったと思う。
その日は高熱を出した長女を母に
預け、牛舎で搾乳をしていた。
そこへ母がぐったりしている
娘を連れてきたのだ。
娘は意識が無かった。
「救急車は?」
聞くと、
「え?救急車?」
母はパニックになっていて、
救急車を呼ぶという発想すら無かった。
時刻は午後7時頃だったと思う。
外は真っ暗だ。
私は熱を出してから、意識を失うまで
の経過を知らないので、母に救急車を
呼んでもらい、娘の様子を説明して
もらった。
救急車が到着したら、当然、付き添う
事になるが、牛舎で作業をしていた
私は服や髪にワラや牛の匂いが付き、
病院に行けるような衛生状態では
なかった。
救急車が来るまで、10分くらい
だったが、その間にシャワーを
浴びて到着した救急車に乗り込んだ。
田舎町では地元の病院に小児科が
無い場合が多く、私達の街の病院は
小児科の先生が週に2回、来るだけだった。
苫小牧市なら、1時間もかからずに
小児科のある病院にたどり着ける。
救急隊員が緊急当番の病院へ連絡し、
症状を伝えてくれた。
たらいまわし
ところがなんと、その救急当番の
病院の返答は
0歳、高熱、意識が無い。
という娘の状態を聞いて、
「受け入れ拒否」だった。
まさかそんな事がと思ったが、
病院側が
「地元の病院で応急処置を行わない
と受け入れる事は出来ない。」
と返答したらしい。
ここで初めて、娘が死んでしまうの
ではないかと、とても恐怖を感じた
のを覚えている。
救急車はすでに1車線しかない
高速道路上を走っていたが、車を
停め、救急隊員の一人が車から降りて、
赤い誘導棒を振り、後続車に停まる
よう指示を出した。
もう一人の隊員が道路の真ん中にある
ポールを何本か、引き抜いた。
そうして、高速道路上をUターンして、
地元の病院へ向かった。
ところがまさかの地元の病院も
「受け入れ拒否」
だった。
地元の病院側の話では、小児科の先生が
いないので、診察できないとの事だった。
そこで、再び救急車は苫小牧市へ向かった。
幸い、緊急当番ではないが受け入れてくれる
病院が見つかった。
病院に到着すると、娘は意識が戻っていた。
娘は回復したが、経過観察という事で、
そのまま入院となった。
娘の状態が落ち着くと、一気に現実が
押し寄せる。
なにせ、着の身着のまま救急車に乗ってきた
ので、髪は濡れたまま、財布すら持っていな
かった。
まだ乳幼児。またいつ症状が悪化するか
分からない。その恐怖でわずかな時間
ベットを離れることも難しかった。
私の着替えや食事なども、必要になってくる。
当時はスマホではなかったが、携帯は持って
きた。
母に連絡して、私の着替え等を持ってきて
もらった。
食事や足りないものは娘が眠っているわずかな
間に病院の売店に買いに行った。
売店に行っているわずかな間でさえ、娘が目を
覚まして、私が居なかったら不安がるのでは
ないかと気が気ではなかった。
娘は経過観察のために入院はしていたが、
意識が戻ってからは熱も下がり、元気そうなの
が救いだった。
入院生活と仕事の両立
ただ、チーズ工房の仕事がやはり問題だった。
入院が計画的なものであれば、準備ができるの
だけど、ここからしばらくチーズの発送が
できない事を取引先に伝えなくてはいけない。
退院の日がいつになるか分からないので、
発送予定日も伝えられない。
発注がメールの場合は携帯からメールを確認
して、返信する事ができたが、FAXで注文や
用件を伝えてくる場合もあり、工房に行かな
ければ、FAXを確認できないのはとても不便
だった。
また全ての取引先の電話番号が携帯に入って
いれば、良かったが、普段からFAX中心で連絡
を取る取引先の番号が分からないなど、緊急事態
に備えた準備を日ごろからしておくべきだった。
せめてほんの少しの間、工房に戻れたら、と
思ったが、工房に戻るには往復2時間近くかかる
だろう。
ただでさえ目の離せない乳幼児。
母は突然、意識を失った孫を2時間も見る事は
できないといい、旦那も普段、娘の面倒を見て
いなかった。
ぐずり出した時の最終手段のおっぱいもないし、
付き添いを交代するのは無理だと言われた。
退院
そして1週間後、娘は無事に退院した。
やっと解放された安堵感はあったものの、
今回、娘が意識を失った原因は熱性けいれん
かもしれないとの事だった。
一度、熱性けいれんを起こすと、繰り返す
ことがあり、今後も高熱の際は同じ症状
が出る可能性があるとの事だった。
この病気は遺伝する場合が多く、入院の際の
問診で親族に熱性けいれんを発症した人が
いないかを聞かれた。
私の親族でそういう話は聞いた事が無く、
当然、旦那にも聞いてみたが、
「聞いたことが無い」
との事だった。
後日、お姑さんに今回の話をしたのだが、
その時に初めて、旦那が幼い頃、熱性けいれん
を繰り返し、病院通いで大変だったとの話を
聞いた。
旦那はその頃のことを覚えていなかったよう
だった。
娘がもう少し大きくなったら、今回の入院の
話をして、娘の子供が高熱を出した際は
十分に気を付けるよう話しておかなければ、
と思った。
工房に帰り、発注書の確認、発送予定日の
連絡等をして、ようやく安堵した。
いつか働くお母さんをサポートする人になりたい
現代では多くの女性が出産後すぐに当然の
ように職場に復帰をしている。
そんな女性たちを周囲も預ける先があれば、
産後数か月での職場復帰は当たり前のような
風潮がある。
私は自営業だから、勤めている人から見たら
仕事のスケジュールをコントロールしやすい
のかもしれない。
でも、きっと多くの母親が表向きはキラキラ
と仕事をしているように見えて、すごく苦労
しているのだと思う。
子育て世代の女性は
「母親なのだから、強くて当たり前。」
といった世間のイメージで弱音を吐けない
事もある。
だからこそ、自分に少し余裕のある時は
今度は周囲のお母さんのサポートに回れる
ような人になりたいと思う。