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地元の都市伝説を追う②の3 鈴鹿の「鹿」

「鈴鹿」についてもう少しだけ深掘りします。余談ですが、↑の写真は、座間の鈴鹿神社の境内にある、とある像の裏側なのですが、杯状穴と思われる穴が沢山あります。磐座や古代の祭祀場によく見られるものです。

 さて、鈴鹿と名のつく他の神社について、google先生に聞くと、座間以外に京都府と山梨県でヒットします。


京都の鈴鹿神社

鈴鹿神社
京都府舞鶴市田中町453
☆祭神 天火明命、金山毘古命、経津主命

こちらの神社の御由緒書をみると、興味深いものが。

当社は、丹後國内神名帳によると芝束社(天火明命)と稱されて来ましたが、後に鈴鹿明神(金山毘古命)、箭取明神(経津主命)の御神体を移し、三社を合祀し産土神と呼びお祀りして来ました(寛保三年)。ところが明治維新の頃、鈴鹿神社と改められました。

鈴鹿神社 御由緒

明治維新時の改変によって天火明命を祀る芝束(しずか)社を鈴鹿(すずか)神社に改名

 こちらの鈴鹿明神は祭神が金山毘古命であることから、通説によれば製鉄に関わる山の神ですが、金山毘古はイザナミの吐瀉物から生まれたとされていて、意図的に貶められている雰囲気もある神にわざわざ挿げ替えられている。
 神奈川県川崎市にある、同じ金山毘古を祀る金山神社に「金魔羅」が奉納されているのは、金山とカナマラの響きが似ていて遊女が性病の厄除けを祈願したのが始まりだとされていますが、縄文時代から男女の性器を象った信仰はあったとされていますし、更に江戸時代は「魔羅」といえば【天狗】のことだったというのが面白い繋がりだと思います。
猿田彦は、天狗や山伏と似た装束でよく描かれていますが、光り輝いて鼻も長かったとされているので「金魔羅」ってもしかして猿田彦にも通じるのかも?
 更に長髄彦や猿田彦の治めた原初の大和と座間の関連を調べる内、以下のような説を見つけました。

猿田毘古神を祖と斎く海人関係に伊勢の宇治土公がある。『倭姫命世紀』に「猿田彦神裔宇治土公祖 大田命」と見え、「斎部氏家牒」にも「阿礼者宇治土公庶流、天鈿女命之末葉也」と見えている。この宇治土公の所属に磯部という部民があった。(略)この磯部という部民は、伊勢湾一帯に漁業的勢力を占めていた海人部であった。その海人族宇治土公が朝廷に服従して、その祖猿田毘古神の祭祀が、宮廷祭祀的家柄であるアメノウズメの子孫猿女君によって祭られることになった由来譚に他ならないと思われる。(略)この神の溺れる状を記す条が、武田祐吉先生によって説かれたように、猿田毘古命を「軽んじた口吻を見せているのは猿田毘古の命が、宇受売の命の支配下にあった神であることを思わしめる」、(略)猿女君は猿田毘古を祖とする宇治土公ら伊勢の海人部を支配下に置いていた事実を、説話化することによって伝承していたのである。

三谷栄一『古事記成立の研究』(有精堂、1980年)、218~220頁

 猿田彦は、陰部を連想させる貝に手を挟まれて海で溺死したと伝わりますが、巫女の始祖ともされる天鈿女=猿女の方が実は権力が上だった事を暗示しているとすれば、斎王がトップだった古代の信仰として頷ける話しだと思います。
 上記の磯部氏(度会氏)佐太御子大神(=猿田彦)を祀る佐太神社と伊勢神宮外宮の祭司一族であるとする説もあり、『座間むかしむかし第三集』では

石=イシは、「イソ」とか「イサ」とか発音されることが多い。とすれば「イシマ」も「イサマ」も同じ意味で、「イシマ=石間=イサマ=伊参」と考えられ、座間の「伊参」も、「イサマ」と読まれたと推定される。

座間市教育委員会 昭和55年3月31日発行 39頁

とあり、磯部は部民ですから、民の名前は(いそ)であり、イソの間=石=伊参(イサマ)という繋がりを指摘しています。
 イソ=石(磐座、製鉄、石工、大工)=磯(岬、漁業)であり、鈴鹿より以前に座間(イサマ)=イソマに住んでいた有鹿(あるが)の蛇神を祀る有鹿神社の奥宮はかつての磯部村(いそべむら)にあり、明治以前は座間村の一部でした。
 有鹿神社奥宮が位置する場所には、縄文時代の古墳(勝坂遺跡)があり、更には有鹿神社の中宮は、かつて有鹿を追い出すのに鈴鹿と協力した諏訪の蛇神を祀る諏訪神社(神奈川県座間市入谷西3丁目41−27)の位置にあったとされ、鈴鹿明神社の前社は諏訪神社であったともされるので、磯部から鈴鹿にかけての土地(さらには現在の有鹿神社本社がある海老名市の古墳群までかも?)は、縄文時代から蛇神を祀る重要な土地であった可能性は高いと思います。
古代海洋民族の技術と龍蛇信仰がイソ(猿田彦)で繋がっていると判ります。

鹿の役割

大人の学校chのタロウさんによれば、鹿=志賀(しか)であり、佐賀県にある志賀神社に祀られた志賀大神や大阪の住吉大神、また、志賀島にある志賀海神社の海神(少童命・ワタツミ)に繋がり、要するにそれらを祀った氏族=八咫烏を構成する海洋民族に通じるらしい。
 京都の芝束社に祀られる天火明も、この海洋民族系の海部氏の祖なので、海洋民族の信仰を、鈴鹿を表に置き換えるという現象が、京都の鈴鹿神社でも起きていることが判ります。

 別の視点だと元の「シズカ社」で連想できる尾張の「静(しず)神社」は、天照勢の蝦夷平定の際に、武神の武甕雷をも退け最後まで抵抗したとされる天津甕星(あまつみかぼし)を服従させた天羽槌雄神(あまのはづちおのかみ・建葉槌命(たけはづちのみこと)、倭文神(しとりがみ)と同一)を祀る神社。
 【星】をそのまま名に持ち〔悪神〕というレッテルまで貼られた天津甕星を、天羽槌雄神が服従させたと日本書紀にはありますが、そもそも最初に戦って負けた武甕雷は建甕槌という字も当てられていて天照側の神ではなかったという説もあり、武(建)の字がそれぞれ入ってる武甕槌、建御名方(武甕槌に負けて諏訪に封じられた神、諏訪大社の祭神)、天津甕星、天羽槌雄神元々敵対関係ではないだろうと思う。
 記紀にある天安川を堰き止めて山に籠っていた伊都之尾羽張(いつのおはばり)と息子の武甕槌という描写って、明らかに他所からの進軍を警戒してる感じ。
 その武甕槌の元に天照から勧誘のために使わされたのが、古事記のみに出てくる天迦久神(あめのかく)という鹿の神だというのが面白いところ。
 鹿は縄文時代から食料として身近な動物ですので、神話では狩猟に係わる神として描かれ、何故か位の高い人を乗せたり、先導する役を担います。先導するといえば、八咫烏や猿田彦の神格でもありますね。

 また、鹿の古名を「かせぎ」といい、糸を紡ぐ道具である挊(かせぎ)に通じ、その形状から地球の地軸とその延長線上にある北極星を現し、万葉集には「牡鹿の皇神」との記述もあり、そもそも「天皇」という言葉が星に関係するということは、今後の記事で詳しくお話しします。

 前述の天津甕星は別名を天香香背男(あめのかかせお)といい、〔かか〕は蛇の別名なので、蛇と星の神であるとわかる。
 武甕槌と戦って諏訪に追いやられた建御名方も龍の姿で描かれるし、まつろわぬ古代の神は水を司る龍蛇の姿をしている。
 そして、古代海洋民族の海(龍)・山(蛇)・星(鹿・かせぎ)信仰は、最終的には天照側に取り込まれてしまったという事実があり、更に、鹿=直す(しかす)だとするなら、まつろわぬ側だった武甕槌らに天照側につくように説得する=直す役割だった天迦久神は、ある意味で天照側とまつろわぬ民の橋渡しをしたのかもしれない。
 「鹿」が「蝦夷を説得した」のだとしたら、それが神武天皇を「東征へ導いた」「八咫烏」と通じるのは面白いと思う。鹿は、全国でまつろわぬ龍蛇信仰を直(しか)してまわった。それはきっと、和睦だったり争いだったりした。
 座間の古代からの信仰であった水の神を現す「アルカ」神を「有鹿」神に書き換え、更に龍蛇の神を「鈴鹿」に置き換えて、まつろわぬ民は従ったのかもしれない。

山梨県の鈴鹿神社

鈴鹿大神社
中央市藤巻1527
☆祭神 瀬織津比咩命、気吹戸主命、速開津比咩命、速佐須良比咩命
鈴鹿神社
南巨摩郡富士川町鰍沢6398
☆祭神 天太玉
鈴鹿神社
南巨摩郡富士川町高下3413
☆祭神 鈴鹿間明信命、鈴鹿間明仁命
鈴鹿神社
南巨摩郡富士川町柳川蔵前1390
☆祭神 坂上田村麻呂
鈴鹿神社
南巨摩郡富士川町十谷字宮之前417
☆祭神 坂上田村麻呂

山梨県の鈴鹿神社で注目したいのは、
鈴鹿大神社の祭神が祓戸大神の四柱である
・天太玉が海上交通の守護神であり、忌部氏の祖であること。
坂上田村麻呂が鈴鹿に関わっている
という点。

祓戸大神

 上記の鈴鹿大神社の御祭神である祓戸大神も、伊勢の鈴鹿から勧請されているそうなので、座間の鈴鹿明神社と無関係ではないと思われます。
座間の鈴鹿明神は天照大神の后であるという御師の話から、実は鈴鹿の翁の娘が鈴鹿明神ではないか、それは 鈴鹿=篠処=かぐや姫 ではないかと考えましたが、更に上記の点からかぐや姫と瀬織津姫は同じ富士王朝系の巫女ではないかと私は勝手に妄想するのです。
 他の三柱については今後の課題として、富士山の御祭神は元々かぐや姫であり、富士山の山頂で二人の天女を目撃したとする伝承とかぐや姫が集合されていったのではとされています。
 現在の富士山の御祭神は木花開耶姫で邇邇芸の妻なので天照系のイメージですが、天女は二人いて、そのもう一人は木花咲耶姫の姉である磐長姫=木花知流姫(このはなちるひめ)で、歴史の裏に隠された大山祇神(富士王朝)から猿田彦・大国主(古代大和から出雲)へ続く系譜に繋がっている=祝詞のみで神話に出てこない大祓大神と関係があると考えます。

長くなったので、今回はこの辺で。

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