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「長い青春」のはじまり

青春期の重要性

大澤真幸さんの早稲田での最終講義を受講した。と言っても正式なものではなく、大澤さんが早稲田の教壇から降りるとのことで、市川真人さんがゼミにお招きして最終講義をしてもらうという場であった。私は市川さんのゼミに潜っているので、幸運なことに受講することができた。

大澤さんのお話は「長い青春」の話と「知の無知(無知の知ではない)」という2つの軸で展開された。ここでは「長い青春」の話について触れる。

大澤さんは、15歳から35歳までの20年間を「長い青春」と呼ぶ。この期間に何を経験するかが、その後の人生を決定づける。それは進学や就職、恋愛のような個別的経験だけでなく、社会的経験を多分に含む。その社会的経験をどのように引き受けるかによって、社会が変わると言う。

青春期の人々には責任がない。例えばコロナが感染拡大しても、政治的決定権がないためその人たちの責任にはならない。しかし社会への参加意識はある。決して他人事だとは捉えられない。それは家庭と学校とその周縁で暮らしている小中学生とは異なる。家族の外の社会で生きていると肌で感じ、実感するのが青春期だ。

大澤さんは滅多にご自分の話をされないが、今日は少しだけ、とご自身の青春期の話をされた。彼の「長い青春」の始まりを象徴するのが1972年の浅間山荘事件で、終わりを象徴するのが1995年の地下鉄サリン事件だと言う。大澤さんの口からそうだと聞くのは初めてだったが、聞く前からそうだろうと予想していた。その2つの事件は彼の講義や著作に頻出する。彼がその2つの事件をどう解釈したかというのはとても面白い話だが、ここでは割愛する。『虚構の時代の果て』『不可能性の時代』に明るい。

私の青春期のはじまり

さて、このような話を聞くと、自分にとっての「長い青春」のはじまりが何だったのかを考えずにはいられない。コロナが「長い青春」に強い思想的意味を与えているのは間違いないが、それよりもう少し前に遡りたい。
ある先輩は3.11を例に挙げていた。間違いなく3.11は多くの人に影響した。大学生の時にバリバリ活動していました、みたいな今の2,30代にお話を聞くと、大学生の時に東日本大震災があって行動や考え方が変わった、という人も多い。しかし私にとって3.11は遠い出来事だった。テレビや新聞が震災や原発のことばかり報道するようになったことを肌で感じてはいたが、当時小学5年生だった私の社会はまだまだ小さく、4月から茨城に就職予定だった兄(私と不仲だ)の入社式が遅れてなかなか引っ越さないことがストレスだった。

そう考えると、私の「長い青春」の入り口はSEALDsだったように思う。当時の私は特定機密保護法が何なのかよくわかっていなかったし、その法案がどれほどやばいのかはわかっていなかった。だけど国会議事堂の前で大学生たちが叫んでいるのを見ると「やばいことが進んでいる」ということはわかった。母はテレビの影響を受けやすい人なので、すっかり奥田愛基さんのことを気に入り、「明日香も大学生になったらこんな風になるんよ」とよく言っていた。私は私で、大学生になったらこんな風になるのかな、と思っていた。

いざ、大学生に

しかし私が大学生になる頃には、自分がSEALDsのような大学生になる、と思っていたことをすっかり忘れるくらいSEALDsは語られなくなっていた。驚くべきことに、安倍さんはモリカケ問題さえもなかったかのように、呑気に首相を続けていた。

私がSEALDsのことを思い出したのは、2019年にフィールドワークで行った沖縄でだった。私はそれまでデモに対して、「もっといい方法があるのではないか」と具体的な代替案もなく思っていたのだが、辺野古のデモに参加して以降、「自分がもっといい方法を考えなくてはならない」と思うようになる。この話は以前のnoteに詳しくあるのでそちらを参照願いたい。そのフィールドワークのときに別の場所でお話を伺った20代半ばの人が元々SEALDsで活動していたということを、話を聞いたあとに飲み会で聞いた。そのとき、SEALDsという響きの懐かしさと数年前の自分が抱いていた憧れが浮き上がってきたのである。

と言いつつも、SEALDsについてちゃんと調べ始めるのはもう少しあと、2020年の10月頃からとなる。ゼミ論文を目前に控え、私は京都のデモ行動をフィールドと設定して調査を開始していた。そこでぶち当たったのが、自分のデモに対するイメージだった(フィールドワークは他者との出会いであり、それは自分との出会いであるとはよく言ったものだ)。私は辺野古のデモに参加するまで、「デモよりもっといい方法があるのではないか」と、デモを効果的ではない手法だと捉えていた。それはなぜか。私にはSEALDsの記憶が鮮明だったからである。SEALDsは特定機密保護法に反対していたが、特定機密保護法は成立した。その結果だけを見れば、SEALDsの活動は失敗だったと言える。だから私の中でデモは効果的な方法ではない、と印象付いているのだろう。

しかしSEALDsの活動は画期的であった。「政治無関心」と呼ばれた若者たちを巻き込み、デモをポップなものにした。学生運動の記憶を持つシニアや、主婦層をも取り込み、知識人たちも彼らの活動を応援した。なのになぜ、ここまで記憶が薄まっているのか。

SEALDsを問い直す

調べてみて最初に感じたのは、SEALDsについて書かれた本が少ないということだ。1年の熱狂だったからなのか、ざっと調べた限りだとSEALDsと名前につく本は両手の指で数えきれるほどしかない。ネットの記事の多くはSEALDsの欠点ばかりを書き、偏りを感じざるを得ない。実際にSEALDsと向き合った知識人は高橋源一郎くらいなのではないだろうか(加藤紀洋が、浅間山荘事件に影響を受けた1972年の同時代人として村上春樹や高橋源一郎を挙げていた、と大澤さんが言及していた。それを踏まえると高橋がSEALDsと向き合ったことは深く繋がる)。

最近、元SEALDsの元山仁士郎さんにお話を伺う機会があった。元山さんはSEALDsのことを局地的で単発的な運動と捉えていらっしゃるようだった(確かに彼の運動史を見るとメインの活動ではないかもしれないが)。それがSEALDsを語る難しさのような気がした。SEALDsのメンバーたちは個々に生活しており、今何をしているのかわからない。そして彼ら/彼女ら自身が、その活動に積極的に社会的意味を付与しようとしていないのかもしれない。

そうなると15歳のときテレビでSEALDsを見て「こんな大学生になる」と思っていた高校生がいたたまれない(進路選択の時には国会議事堂でデモをしたいなんて夢をすっかり忘れて京都の大学を選んだのに、実に勝手な話だ。でもSEALDsが活躍していた当時18歳で、そのために東京の大学を選んだ人がいたっておかしくない)。私が取り組もうとしている「なぜ人々がデモを行うのか」「デモより効果的な方法はないのか」という問いは確実にSEALDsの影響を受けて抱いたもので、すでに「長い青春」の命題になる予感がしている。SEALDsの社会的意味を問い直すことが、私の「長い青春」を深くしていくのかもしれない。

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