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大学3回生、11月に思うこと

最近の私を悩ませていた2つの言葉

 何にでも興味があることが私のいいところであり、悪いところでもあります。よく言えば好奇心旺盛、悪く言えば中途半端。自分のそういうところが好きでも嫌いでもあります。
 そんな私の中でここ数ヶ月、2つの言葉がぐるぐるとしていました。1つは、大学2回生の1月に、ある講義のゲスト講師としてお話を伺った深澤真紀さんの言葉です。大学生のうちにやっておくべきことは何か、という学生からの質問に「0を1にして、1000を10000にすること」と答えていました。知らないことを「少し知っている」にして、「1でピンと来なかったらやめる」。そして「得意なことをとことん伸ばす」ことが大切だとおっしゃっていました。当時の私は自分にとっての1000が何か分からず、とりあえず今は0を1にしよう、と思っていました。しかし今、大学生活も折り返し地点を過ぎ、そろそろどれが1000なのか見極めなければなあ、と悶々としていました。
 もう1つは、(いつのイベントかは忘れましたが)ゲンロンカフェでの東浩紀の「自分が直面した何か1つの問題にじっくりと取り組むことが大切だ。1つの問題にじっくりと取り組めば、他の問題にも応用が効く。自分が直面したことに取り組めなければ何も真剣に考えることはできない」という言葉。ほんとにおっしゃる通りだなあと思いました。大学2回生の夏まで福井の限界集落に関わってきましたが、1つの地域について深く考えた経験は他の地域や共同体に関する問題を考えるにあたってヒントとなる枠組みを与えてくれました。だがしかし、私が向き合うべき1つの問題とは何なのだろう……。

私は日本のことをよく知らなかった

 大学2回生の秋学期に、沖縄の米軍基地問題を学ぶ授業を受講していました。津田大介さんが担当教員だったというのが大きな動機ですが、沖縄のことを学びたいと思っていたのもありました。12月の3泊4日の合宿がメインだったのですが、数週に分けて行われた事前授業で米軍基地や沖縄の地方紙に関するドキュメンタリーを見て、自分の知らないことがたくさん出てきてぐさぐさと刺さったことを強く覚えています。沖縄がどのようにして日本になったのか、戦後の沖縄にどのようにして米軍基地ができたのか、"本土"の人間が沖縄を語ることがいかに暴力的であるのか、そして自分がいかに自分の国のことを知らないのか
 その時の私は、沖縄のことをもっと知って伝える人になりたいと思いました。でももしかしたら一瞬の興味で終わるかもな、とも思っていました。編集者になりたいなと思っていましたし、報道や沖縄というワードには縁がなかったからです。

辺野古の海上デモに参加して

 3泊4日の沖縄合宿は、深く考えさせられることばかりでした。今でも考え続けていることばかりです。合宿の中で一番心を揺さぶられた言葉は、3日目に辺野古で聞いた言葉でした。
 沖縄の中心部・宜野湾市にある普天間基地の移設先として工事が進んでいる辺野古。2019年2月に行われた県民投票では辺野古移設反対が7割以上という結果になったにも関わらず、今も工事は進んでいます。

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 私たちが辺野古を訪れたのは、土砂投入からちょうど1年の日、2019年12月14日でした。その日は辺野古のゲート前と海上でのデモがいつもよりも大規模に行われていました。学生たちは二手に分かれ、私は海上のデモに1時間ほど参加させていただき、そのあとゲート前に行きました。海上では毎日デモに参加しているという女性に船で案内していただきました。案内していただいているときに、ある学生が女性に「毎日デモをしても辺野古は埋め立てられるとおそらく一番分かっていらっしゃるのに、なぜデモをするんですか」と質問しました。私は失礼じゃないかなと不安に思い、女性の表情を伺ったのですが、女性は不快な様子ではなく、丁寧に言葉を紡いでくれました。「毎日デモをすることが埋め立てを止める最もいい策だとは思っていません。だけど何もしなかったら、私たちは抵抗せずに受け入れたと見なされてしまう。私たちは抵抗している、ということの意思表明です」
 その言葉には女性が今まで感じてきた苦しさや葛藤がにじみ出ていて、私はやるせない気持ちになりました。声をあげても国の対応は変わらないどころかひどくなり、デモを行う地域住民に対するバッシングもネット上では飛び交っています。彼ら/彼女らだって、毎日声を上げることが得策だとは考えていない。だけどそれしかできない。女性たちにとっては"日常"である辺野古を"学びに来て"いる私たちに、彼女はそのことを教えてくれたのです。私はこの声をないことにしてはいけない、人に伝えなくてはならないと直感し、記者になることを決意しました。今思うと記者という仕事は「情報の編集者」であり、編集者志望の私には向いているように思います。

沖縄を考えることは福島を考えること

 大学2回生の春休み、私は復興創生インターンで1ヶ月間郡山市に住んでいました。その期間は映画『Fukushima50』の公開日も、3.11も含んでいました。復興創生インターンでは原発事故の避難区域や東京電力廃炉資料館を訪れるバスツアーが行われ、私は今までちゃんと考えてこなかった原発事故や東日本大震災の意味を深く考えるようになりました。そしてある時、福島は沖縄と構造が似てるじゃん、と気がついたのです。それを言語化してくれているのが、沖縄を勉強している時にパラパラと読んでいた本でした。

①根拠の乏しい「安全神話」の流布
②恩恵を受ける人間と負担をする人間が別であるという「受益と被害の分離」
③管理・運営・危機管理の「他人任せ」
④抜本的解決・対処策を担うべき政策担当者や専門からの「思考停止」
⑤事故や事件を防ぎチェックする側と施設を運営する側の「なれ合い」
⑥国民全体の生命・財産にかかる重要情報にもかかわらず、なぜか開示されないという情報の「隠ぺい体質」
⑦重大な問題にも関わらず、共通する「国民の無知と無関心」
         
    前泊博盛編『本当は憲法より大切な「日米地位協定」』p272より

 「1つの問題を深めれば応用が効く」。沖縄のことを考えることは同時に福島のことを考えることだと実感しました。


私は京都のこともよく知らなかった

 私の所属するゼミでは、フィールドワークを軸として4年次に20000字の卒業論文を書きます。それに先立ち、3年次の12月末までに5000字の中間論文を書かなくてはなりません。6月頃からこれで行こうというテーマはあったのですが、いざ先行研究を読むぞ、となるとどうも手が進まず、これでいいのだろうかと思い悩んでいました。そんな時に調べ物をしていると思わぬ発見をしました。実は私が住むこの京都にも、米軍基地があったのです。それは京都の海の方、経ヶ岬という町に2013年にできた近畿地方唯一の基地でした。私はとてもショックを受けました。自分が住む京都府に米軍基地があるということを知らなかったことが、とてもとても悔しかったのです。
 京都府には、京都市や宇治市のような南部エリアと、京丹後市や日本海側の北部エリアの間に人口や経済活動の大きな格差がある「南北問題」という問題があります。それを私は知っているつもりでいたのですが、南部に住む私は北部にある米軍基地のことも、そこで起きている反対運動のことも知りませんでした。自分の住む府のことも知らずに、沖縄のことをみんなに知ってほしいだなんて傲慢すぎる。私は経ヶ岬通信所の反対運動をフィールドにしようと決めました。

「もっといい方法」を考える

 black lives matter運動が熱を帯びていた今年6月、ある動画がTwitterで話題になっていました。体を張って行動を起こす45歳の黒人男性と、このやり方ではだめだという31歳の黒人男性の言い合い。そして31歳の男性は、16歳の黒人の少年に「よく見てろ」と言います。「今目の前で起きていることが10年後もまた起こる」「俺たちのやり方じゃダメだった」「もっといい方法を考えるんだ」。おおよそ15歳刻みのこの3人のやりとりは、未来を暗示します。31歳の男性の立場に立ってみると、彼はおそらく16歳くらいの年代から問題意識を持って行動してきたのでしょう。上の世代の体を張った行動は何か違うと思い行動してきた。だけど何も変えられなかった。同じ景色を10年以上見て悔しい思いをしているに違いありません。45歳の男性の立場に立ってみると、もしかしたら16歳の頃には体を張った行動は違うと思っていたのかもしれない。色々考えて行動してきて、30歳頃どんな活動をしても景色が変わらないことを悟り、16歳の少年に「俺たちとは違う、もっといい方法を考えるんだ」と言っていたかもしれない。そして45歳になった今、「もううんざりなんだよ」「クンバヤ(黒人霊歌)を歌っても誰も守ってくれない」「ここで死ぬ覚悟はできている」と言っている。今16歳の少年は、どんな31歳になるのでしょう。どんな45歳になるのでしょう。悲しいことに、16歳に対して「もっといい方法を考えるんだ」と言う31歳になり、45歳の時には「ここで死ぬ覚悟はできている」と言っているのかもしれないと想像ができてしまうのです。
 「もっといい方法」とは何なのか。これはblack lives matterだけではなく、沖縄や京都の反基地運動にも深く関わる問いです。これが今私の直面している問題であり、10000に伸ばすべきものなのではないかな、と思っています。

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