もし神谷美恵子氏がフーコーの「性の歴史3巻自己への配慮」のマルクス・アウレリウス引用を読むまで生きていたら

神谷美恵子氏は1979年に亡くなっている。フーコーは1984年に亡くなっている。フーコーの性の歴史3巻(フランス語オリジナル版1984)にはマルクス・アウレリウスが多数引用されている。
 今性の歴史3巻の要約を作っているけど、実際には重要箇所の書写しになっていてとても議論を付け加えるところまで行っていない。
 ポイントは肉の告白への繋ぎだと思う。
 さて、その「自己の陶冶」の章についてマルクス・アウレリウスが頻繁に引用されているがここではpp64の自省録3章14を取り上げよう。

「性の歴史」の翻訳者の田村俶氏の訳(1987年):
おまえ自身の外をさまようのをやめよ。おまえは、もはや読みなおすこともないだろう―おまえの備忘録も、ローマやギリシャの先人たちの行状録も、老後のためにと作っておいた書物からの抜粋も。されば、おまえ自身の生の目的に向かって、一路急げ。むなしい望みを捨てよ。もしも、自分に少しでも大切なものと思われたら、自分自身を支援せよ (sautôi boēthei, ei ti soi meleî sautou)、力のつづくかぎり。

神谷美恵子 訳(岩波文庫 pp39、ギリシア語からの訳)
これ以上さまよい歩くな。君はもう君の覚書や古代ローマ・ギリシア人の言行録や晩年のために取っておいた書物の抄録などを読む機会はないだろう。だから終局の目的に向っていそげ。そしてもし自分のことが気にかかるならば、空しい希望を棄てて許されている間に自分自身を救うがよい。

田村先生の訳とは異なっている。フランス語からの直接翻訳かもしれない。他のギリシア語からの翻訳は1987年当時神谷氏だけのようである(wikiより)
となるとギリシア語を眺めたくなりませんか。

wikiによる本文:
Μηκέτι πλανῶ· οὔτε γὰρ τὰ ὑπομνημάτιά σου μέλλεις ἀνα γινώσκειν οὔτε τὰς τῶν ἀρχαίων Ῥωμαίων καὶ Ἑλλήνων πράξεις καὶ τὰς ἐκ τῶν συγγραμμάτων ἐκλογάς, ἃς εἰς τὸ γῆρας ἑαυτῷ ἀπετίθεσο. Σπεῦδε οὖν εἰς τέλος καὶ τὰς κενὰς ἐλπίδας ἀφεὶς σαυτῷ βοήθει, εἴ τί σοι μέλει σεαυτοῦ, ἕως ἔξεστιν.
Chat GPT無料版訳:
「もはや迷うな。君は自分の記録を読み返すことも、古代ローマ人やギリシャ人の行い、著作からの抜粋を再読することもないだろう。それらを老後の楽しみとして取っておいたのだろうが、急いで終わりに向かえ。空虚な希望を捨て、もし自分を気にかけているなら、今助けよ、自分自身を。まだできるうちに。」

https://el.wikisource.org/wiki/Τα_εις_εαυτόν/3

ハン・ガン氏の「ギリシア語の時間」という小説のようにギリシア語を少しは勉強したいという気にもなる。
ところで今回はじめて自省録がギリシア語で書かれていたことを知りました。てっきりラテン語だと思ってました。
 それで、タイトルの文章の続きですが、きっと神谷氏はフーコーに手紙を出し、「本、そして人」の「マルクス・アウレーリウス 『自省録』 解説」にあるように

(ストア哲学の)倫理のみがその厳格なる道義観をもって今日もなお崇高な美しさと権威とを保っている。しかしこれもまたある限界を持っている。この教えは不幸や誘惑にたいする抵抗力を養うにはよい。我々の義務を果させる力とはなろう。しかしこれは我々の内に新しい生命を湧き上らせる底のものではない。「われらの生活内容を豊富にし、われらの生活肯定力を充実しまたは旺盛にするものではない。」そういう力の泉となるには、全人格の重心のありかを根底からくつがえし、おきかえるような契機を与えるものが必要である。

それはストア哲学にはない。

しかしこのストア思想も、一度マルクスの魂に乗り移ると、なんという魅力と生命とを帯びることであろう。それは彼がこの思想を身をもって生きたからである。生かしたからである。マルクスは書斎人になりたくてたまらなかった。純粋の哲学者として生きるのを諦めるのが彼にとっていかに苦痛であり、戦いであったかは「自省録」の随所にうかがわれる ( VIII 1その他)。しかし彼の場合には、彼が皇帝としてなまなましい現実との対決に火花を散らす身であったからこそ、その思想の力と躍動が生まれたのかも知れない。「自省録」は決してお上品な道徳訓で固められたものではなく、時には烈しい怒りや罵りの言葉も深い絶望や自己嫌悪の呻きもある。あくまで人間らしい心情と弱点をそなえた人間が、その感じ易さ、傷つき易さのゆえになお一層切実にたえず新たに「不動心」に救いを求めて前進して行く、その姿の赤裸々な、いきいきとした記録がこの「自省録」なのである。
・・・・・
この求道の記録は古来数知れぬ人びとを鞭ち、励ましてきた。

本、そして人 pp157〜

というようなことを書き綴られたのではないか、そして、フーコーの提唱する「自己への配慮」「自己の陶冶」についてはどのようなことを書かれるでしょうか、と想像して感慨深いです。
私自身も、ここにこのようなことを書くことで神谷美恵子氏とフーコーが親交があったことを教えてもらったり、その著作を読んだりギリシア語を眺めたりすることで新たな深まりを感じます。
 ところで今思い出したんですがマルクス・アウレリウスって映画「グラディエーター」で息子に殺されちゃう皇帝でしたよね笑

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