見出し画像

行基墓誌断片

 先日、奈良国立博物館で開かれている「奈良博三昧」に行ってきました。
 その時見てきた展示物をいくつか紹介して行こうと思います。

 僧行基が入滅したのは天平21年(749)2月2日の夜、菅原寺(現在の奈良市喜光寺)でした。同8日に本人の遺言に従い、生駒山の東山麓で荼毘に付され、遺骨は瓶に納められて埋められました。その場所が現在の生駒市竹林寺の境内です。
 時代は過ぎて鎌倉時代の天福2(1234)、慶恩と言う僧侶に行基の宣託があり自らの墓所を開いて信仰を復興する事を命じてきました。翌文暦2年(1235)に墓所が開削され、地下から八角形の石筒が発見されたのです。その中には銅の筒が入っており、それを開くとさらに銅筒が入っていました。この筒の面には銘文が刻まれていて、それは別紙に書き写されました。
 さらにその中に銀製の瓶がありその頸に「行基菩薩遺身舎利瓶」と書かれた銀の札が下がっていたのです。
 舎利瓶は発掘の翌年に京都に運ばれ開帳され、正嘉3年(1259)と弘長元年(1261)、同3年(1263)の三回にわたり、東大寺大仏殿で盛大な舎利供養が行われました。
 その後、舎利瓶が発掘された場所に塔廟が建てられて、その中に舎利瓶や銅容器が納められ、中心に文殊菩薩像が安置されました。その他に灌丁堂、中門、食堂や湯屋などの伽藍が整備されて「大聖竹林寺」として栄えたのです。
 しかし、その後明応7年(1498)、興福寺大乗院方の古市氏と対立する一条院方の秋篠・宝来の衆徒の間で起きた合戦により、竹林寺は炎上、堂塔の多くと行基舎利瓶と銅容器も燃えてしまいました。
 その時に銘文が刻まれた容器が現在のような断片になったと思われます。
 さらに明治の廃仏毀釈により行基に関する遺品や遺構はすべて行方不明になりました。
 唯一墓誌断片だけが地元個人の元に伝わっており、昭和29年に奈良国立博物館が買い取って、現在に至っているのです。

 小さな銅板の破片ですが、その上に刻まれている数文字。しかしこれを観ると伝説も含まれる数々の事績で有名であるけれども、私たちにとっては歴史上の遠い存在である行基菩薩が、少し近くに感じられました。
(参考:論文「行基墓誌断片を考える 吉澤悟」奈良国立博物館研究紀要 鹿園雜集
第21号)

訓読

(1)大僧上(正) 舎利瓶記

(2)和上の法諱(ほうい)は法行なり。一に行基と号す。 薬師寺の沙門也。俗姓は高志 
(3)氏なり。厥(そ)の考の諱(いみな)は才智といい、字は智法君(ちほうぎみ)というものの長子也。本は百済の王
(4)子王爾(わに)の後なり。厥の妣(ひ)は蜂田氏にして諱は古爾比売(こにひめ)といい、 河内国大
(5)鳥郡の蜂田首虎身(はちたのおびととらみ)の長女也。近江大津の朝の戊辰の
(6)歳、大鳥郡に誕す。 飛鳥の朝の壬午の歳、出家して道に帰し、
(7)苦行精勤し、誘化して息(や)まず。人は慈悲を仰ぎ、世は菩薩と称す。是を以て天下の 
(8)蒼生は、上は人主に及ぶまで、塵を望み頂礼せざるなく、奔り集まりて市の如し。 遂に聖
(9)朝の崇敬を得て、法侶は帰服す。天平十七年、別けても大僧上(正)の任を授け、並びに
(10)百戸の封を施す。時に僧綱は已に備わり、特に其の上に居る。然りと雖も以て 
(11)懐うところ在らず。 勤苦し弥厲む。寿八十二にして、 廿一年二月二日丁酉の夜、右
(12)脇にして臥し、正念すること常の如く、奄に右京の菅原寺に終る。 二月八日、
(13)大倭國平群郡生馬山の東陵に火葬す。是れ遺命に依る也。弟 
(14)子の僧景静等は攀号(はんごう)するも及ばず、膽仰(せんごう)すれども見るもの無く、唯だ砕け残れる舎利有るのみなり。
(15)然(燃)え尽きて軽き灰なり。故(かれ)、此の器中に蔵め、以て頂礼の主と為し、 彼の山上を界し、以て
(16)多宝塔に慕(も)す。
(17)天平廿一年歳は己丑に次る三月廿三日  沙門真成

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?