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ヒマラヤとラジオ塔

 駅から南へ歩いて10分ほどの住宅街の中にその公園はあった。
 一辺30mほどの敷地にある、何の変哲もない普通の児童公園。遊具がいくつかあって、外辺には樹木が植えられている。
 周囲の道路を歩いて回ると、その公園の西側の端にそれはあった。
 「ラジオ塔」
 文字だけ見るとラジオの放送電波を流す塔の様にも思えてしまうが、そうではなくその中にラジオを納めて、ラジオ放送の音声を流し周りにいる人に聴かせるために作られた、主に石造りの設備の遺構である。
 いわば「街頭ラジオ」とでも言うべきものか。主に戦前、ラジオ放送の普及のために作られた。
 僕はその存在をある新聞記事で知って興味を持ち、各地に数少なく残っているラジオ塔を調べて回っている。
 そこにあるラジオ塔は、塔と言うよりは台に近い横長の構造をしていた。前面に「竣工記念」と言う文字が刻まれている。
 周り八方向からデジタルカメラで写真を撮って、メジャーで各部の長さを測り手帳にスケッチする。
 別にこう言う作業でラジオ塔を調査して、何かをなそうと思っている訳では無い。ただちょっと変わった物、見慣れない物、不思議に思った事を調べることが好きなだけだ。
 五月のよく晴れた日の午後だった。
 ひと通り作業を終えて周りを見回すと子供達の姿は少ない。北の端のほうでひとりの男性が、イーゼルにキャンバスをのせて絵を描いている姿が見えた。一本の木の方を向いている。
 ちょっと興味が湧いて、その男性の方に歩いて行った。
 70歳前後だろうか。別に髭も生やしておらず、ベレー帽でも無く普通の野球帽をかぶっていて、芸術家風では無い。
 そのキャンバスをチラッと覗くと、そこに描かれていたのは彼の目の前にある一本の背の高いスギの木ではなく、壮大に天を突くようにそびえ立った山であった。僕はちょっと話しかけてみた。
「お見事な絵ですね」
「そうかい」キャンバスに向かったまま筆も離さず彼は言った。
「山ですか」
「ご覧の通り山だ」
「しかしここから山は見えませんね」
「いや見えるさ」
「どこの山ですか」
「アルプスだ」
「ここからアルプスが見えるのですか」
「そうだ」
「僕にはその普通のスギの木と何の変哲もない住宅しか見えないですが」
「このスギが話しかけてくれるのさ」
「え、何を」
「アルプスの事だ。そしてその言葉がワシの頭の中にアルプスの山を見せてくれるのだ」
「ほう」
「ところでさっきから君は何をしていたのだ」
 僕はラジオ塔の事を簡単に説明した。
「なるほど。では君もワシと同じような事をしているではないか」
「と言いますと」
「そのラジオ塔にあるラジオから流れる放送の音を聴いているのさ」
 僕はなるほどそうなのかも知れないなと思った。

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