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銀河系のお話し(10) 番外編: 110年前の夢の大望遠鏡計画

世界一を狙え!

日本の光学天文学者たちは「ナナヨン」と呼ばれた岡山天体物理観測所の口径1.88メートルの反射望遠鏡からハワイ島マウナケア山に口径8.2メートルの反射望遠鏡「すばる望遠鏡」へと、大きなジャンプをした。望遠鏡の集光力は口径の二乗に比例するので、このジャンプは集光力を(8.2/1.88)2 = 19倍に上げた。これにより、3.2等級暗い天体の観測が可能になる(1等級は2.512倍の差に相当するので、2.5n=19から nを求めればよい)。さらに、マウナケア山と岡山の気象条件の差が加わる。マウナケア山の山頂から眺める夜空は格段に美しい。実際、「すばる望遠鏡」はすぐさま128億光年彼方の銀河を多数発見し、その実力を世界に見せつけた。「すばる望遠鏡」は世界一を狙うために作られた望遠鏡だった。

「ナナヨン」と呼ばれた岡山天体物理観測所の口径1.88メートルの反射望遠鏡については、次のnoteを参照されたい。「ゴッホの見た星空(22)」 番外編: 大望遠鏡「リヴァイアサン」、昭和の日本に降臨! https://note.com/astro_dialog/n/n93825d76506c

一戸直蔵

今から百十年前、明治時代に大きな夢を見た人がいた。note「銀河系のお話し」(9)で紹介した一戸直蔵(1878 - 1920)だ。彼は東京大学大学院で天文学を学び、東京天文台の観測主任までやった人だ。

東京大学理学部に星学科(今で言うところの天文学科)に観象台(天文台のこと)が設置されたのは一戸が生まれた1878年。当時の日本の天文学では位置天文学が基本だった。そのため、望遠鏡といえば、星の位置を精密に測定する子午儀のことを意味していた。主たる目的は正確な暦を作ることだ。

一方、世界の潮流は天体物理学にシフトしていた。この状況を的確に理解していた一戸は天体物理学の研究を目的とした望遠鏡が必要であると考えていたのだ。これは、一戸が私費でアメリカのヤーキス天文台に留学したことがきっかけになっている。当時、ヤーキス天文台(シカゴ大学所属)には世界最大の口径102センチメートル(40インチ)の屈折望遠鏡があり、活躍していた(図1)。この望遠鏡は屈折望遠鏡としては、現在でも世界最大である。それを目の当たりにした一戸は、日本にもこのクラスの大望遠鏡が是非とも必要だと感じたのだ。

図1 ヤーキス天文台の口径102センチメートル(40インチ)の屈折望遠鏡 https://ja.wikipedia.org/wiki/ヤーキス天文台#/media/ファイル:Yerkes_40_inch_Refractor_Telescope-1897.jpg

新高山は晴れていたのか?

では、当時の日本で一番高い場所はどこか? 富士山と言いたいところだが、そうではない。日本は台湾を統治していたので、なんと台湾の新高山(にいたかやま;現在の玉山)だった(図2)。日本統治時代での標高は3950メートルだが、現在では3952メートルである。いずれにしても、富士山の3776メートルより高い。それがダメなら、ということで、群馬県の赤城山(標高1828メートル)も候補にあげていた。新高山には劣るものの、平地にある三鷹に比べれば観測条件は格段に優れている。

図2 (上)新高山(現在の玉山)、(下)台湾における新高山の位置(黒い記号)。 (上)https://ja.wikipedia.org/wiki/玉山_(台湾)#/media/ファイル:Mount_Yu_Shan_-_Taiwan.jpg (下)https://ja.wikipedia.org/wiki/玉山_(台湾)#/media/ファイル:Taiwan_relief_location_map.jpg このファイルに記号を追加。

一戸が提案していた望遠鏡は口径91センチメートル(36インチ)の反射望遠鏡、口径84センチメートル(33インチ)の屈折望遠鏡、そして太陽専用の口径30センチメートル(12インチ)屈折望遠鏡だった。この天文台の計画書は国立天文台アーカイブ新聞のサイトで見ることができる。http://prc.nao.ac.jp/museum/arc_news/arc_news046.pdf

しかし、一戸のこれらの提案は当時の東京天文台の台長だった寺尾寿(1855 - 1923)らの猛反対にあい、認められることはなかった。天文台は相変わらず位置天文学に固執していたからだ。結局、一戸は1911年に東京天文台を離れ、1920年に42歳の若さでこの世を去った。

それにつけても、一戸の提案した“新高山観測所の計画”は凄い。明治四十五年(1912年)の六月に書かれたものだが、当時の日本の観測天文学の状況を考えると、あり得ないほど高いレベルの計画書だった。「優れた望遠鏡を、優れた場所に設置せよ」単にそれだけのことだが、「言うは易く、行うは難し」である。

夢は持つものである

彼の計画書を眺めて思うことがある。一戸直蔵の夢は「すばる望遠鏡」で実現された。ただし、望遠鏡の設置場所は、台湾の新高山ではない。米国ハワイ州ハワイ島のマウナケア山の山頂だ。

「すばる望遠鏡」の建設は1991年に始まり、2000年に共同利用観測が開始された。建設の努力は並大抵のものではなかった。私は1993年からハワイ大学天文学研究所の天文学者らと共同研究をやり始めていたので、ハワイ大学がマウナケア山に擁する望遠鏡を使うために、頻繁にマウナケアを訪れていた。そのため、「すばる望遠鏡」の建設の様子はこの目で眺めてきた。「すばる望遠鏡」が大活躍している姿は、私にはとても眩しく見えるのはそのせいかもしれない。

初代のハワイ観測所長の海部宣男(1943-2019)を始め、国立天文台・ハワイ観測所と三鷹のスタッフらの血の滲むような努力があってこそ出来あがった望遠鏡だ。一戸が「すばる望遠鏡」を見たらどう思うだろうか?もちろん、文句はあるまい。

ところで、天文業界で最も権威ある研究誌は米国の『天体物理学ジャーナル』である。The Astrophysical Journal。ApJという愛称で呼ばれている。アメリカ人は「アップジェイ」と発音するが、日本人はエーピージェイと発音する。このApJに論文を載せた最初の日本人は一戸だった。まだ、明治40年(1907年)のことだ。論文のタイトルは“Orbit of the spectroscopic binary kappa Cancri”である。一戸はヤーキス天文台で変光星の「かに座」カッパ(κ)星の分光観測をした。そのデータに基づく論文だ。

では、一戸はヤーキス天文台の口径102センチメートル(40インチ)の屈折望遠鏡を使ったのだろうか? 一介の留学生に過ぎない一戸には、この大望遠鏡を使うチャンスは回ってこなかった。一戸が使えたのはヤーキス天文台にある口径30センチメートル(12インチ)の屈折望遠鏡だった。

「今に見ておれ」そう思いながら観測していただろう。「一戸よ、よく頑張った!」彼には、この言葉を贈りたい。

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