見出し画像

宮沢賢治の宇宙(1) 姫神山 ー 湯川秀樹のひらめき


2023年9月末、東北自動車道を南下して盛岡に向かっていたときに撮影した写真。

第1部 湯川秀樹のひらめき

湯川秀樹の「天才の世界」

東京に出かけると、神田神保町の古書店街の散策をするのが楽しみのひとつだ。たくさんの本の背表紙を眺めていると、ときどき思いがけない出会いがある。そんな一冊に最近巡りあった。

『天才の世界』湯川秀樹、三笠書房、知的生きかた文庫、1973年

湯川秀樹(1907-1981)は素粒子物理学の分野で国際的に大活躍した物理学者である。原子核をまとめる力として中間子という新たな素粒子を導入した。原子核を構成する陽子などは中間子を交換することで、強く結び付けられていると提案したのだ。その後、中間子が発見され、中間子論の提唱でノーベル物理学賞を受賞した。1949年のことだ。時は昭和25年。日本は第二次世界大戦の敗北で疲弊していた頃だ。湯川のノーベル賞受賞のニュースは日本人に大きな勇気を与えた。
湯川は研究のみならず、随筆を書くことにも長けていた。私が所有していた湯川の随筆は次の二冊だった。

『旅人 ある物理学者の回想』(角川文庫、2011年;この本の初版は1960年)
『宇宙と人間 七つの謎』(河出文庫、2014年;この本の初版は1974年)

『旅人 ある物理学者の回想』に出ていた話だが、湯川は5歳か6歳の頃から『四書五経』の音読をさせられたとのことである。もちろん、子供には意味などわかるはずもない。ところが、である。研究者として活躍し、ふと振り返ってみたとき、その音読から得たことが結構大きかったように感じたとのことである。
実は、『四書五経』の音読は宮沢賢治も子供の頃に、やらされた。『四書五経』などの漢籍では、音読に適した文章が紡がれている。声→耳→脳というリンクがうまく張られて、賢い人間になることができるのだろうか。多くの人がスマホ脳になりつつある現代人には、そろそろ何か対策を講じる時が来ているのかもしれない。

天才に選ばれた石川啄木

今回、古書店で出会った『天才の世界』は手にしたことがない。早速、買い求めて自宅に戻った。この本は今まで読んだ湯川の随筆集とは一風変わった趣向の本であった。

そもそも、湯川個人のエッセイが記されたものではない。工学分野の研究者であった市川亀久彌が聞き手になり、湯川との対談形式を採っているのだ。対談形式で天才論を展開する趣向だ。湯川と市川の目標とするのは「創造性を発現する方法はあるのか?」という疑問に答えることである。彼らは次に挙げる二つの方法があると考えた。

[1] 創造性を顕在化する一般的方法を探る
[2] 天才と呼ばれる人たちに学ぶ

[1] については、二人は独自に考察を進めているとのことであった。そして『天才の世界』では[2]の方法にチャレンジしたのである。
彼らは次の四人を天才の候補として採用した。

弘法大師(平安時代の僧侶で、真言宗の開祖。またの名を空海。生年は775年、没年は835年)
石川啄木(岩手県出身の歌人・詩人。歌集『一握の砂』と『悲しき玩具』で一躍有名になった。生年は1886年、没年は1912年)
ニコライ・ゴーゴリ(ロシアの小説家・劇作家。ロシアリアリズム文学の創始者であり、後の作家に大きな影響を与えた。生年は1809年、没年は1852年)
アイザック・ニュートン(英国の自然哲学者・物理学者。万有引力の法則やニュートン力学の構築で、古典物理学の発展に多大な貢献をした。生年は1643年、没年は1727年)

まず、たった四人であることに驚く。『天才の世界』は文庫本田が、300頁を超える大著である。さらに驚くのは石川啄木が含まれていることである。残りの三人はあまりにも高明な大天才である。彼らに比べると、石川啄木は評価が別れるところではないだろうか。人それぞれの判断があるのでなんとも言えないが、湯川と市川は天才の一人として石川啄木を選んだことは確かである。

湯川秀樹の考察

石川啄木の項目のところで、湯川の面白い考察を発見した。湯川が講演会のため盛岡に出かけたときのことだ(昭和46年2月)。湯川は啄木の故郷、渋民村に出かけてみた。すると、二つの美しい山が北上川を挟んで、正反対の方向に見える。ひとつは岩手山、そしてもうひとつは姫神山(ひめかみさん)である(図1)。

図1  (左)岩手山、(右)姫神山 
https://ja.wikipedia.org/wiki/岩手山#/media/ファイル:Mt._Iwate_and_Morioka.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/姫神山_(岩手県)#/media/ファイル:Mount_Himekami_seen_from_the_WNW_(2009-03-21).JPG

ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとのやまはありがたきかな

この歌は啄木が明治43年(1910年)に出した第一歌集『一握の砂』(第二部「煙二」)に収められている。この歌に歌われている山は岩手山である(図2)。なお、啄木は短歌を三行に分けて書くことを信条とした。

盛岡駅から材木町に行くときに渡る旭橋から岩手山を眺める。

岩手山は啄木の歌に結構出てくるが、姫神山は一度も出てこない。渋民村で生まれた啄木にすれば、姫神山もふるさとの山のはずだ。それを歌に詠み込まないのはなぜか? これが湯川の抱いた疑問である。

湯川の言によれば、啄木は岩手山を短歌に詠んだ。

神無月
岩手の山の
初雪の眉にせまりし朝を思ひぬ

岩手山
秋はふもとの三万の
野に満つる虫を何と聴くらむ

これら
の歌は『一握の砂』の「秋風のこころよさ」にある二首である。
しかし、啄木は姫神山を詠むことはしなかった。
湯川は不思議に思い、調べてみた。すると、啄木は父のことは尊敬していたが、母とは折り合いがよくなかったことがわかった。それは啄木の妻が、啄木の母と仲良くできなかったためである。これを知って、湯川はピンと来た。「母をよく思っていなかった啄木は、女性的な姿を見せる姫神山を避けたのではないか。」湯川はそう考えたのである。そして、聞き手の市川もこの湯川の意見に首肯した。

石川啄木から宮沢賢治へ

宮沢賢治(1896-1933)は石川啄木(1886-1912)の影響を強く受けた人だ。二人は盛岡中学校の同窓生である。啄木は試験の不正行為が元で、盛岡中学校を中退したが、二人が同窓生であることに変わりはない。

啄木が第一歌集である『一握の砂』を刊行したのは1910年12月のことだ。この歌集は多くの人の関心を集め、啄木は一躍、有名歌人となった。この年、賢治は盛岡中学校の二年生であったが、『一握の砂』に大きな影響を受けることになった。実際、賢治は翌年、中学校3年生の時に、短歌を詠み始めた。結局、賢治は短い人生の中で九百首もの短歌を詠んだ。賢治は詩や童話の作家として有名だが、賢治の文学は短歌から始まったと言ってよい。その意味で、賢治を育てたのは啄木だったのだ。

ここで、疑問が湧く。賢治は姫神山をどう思っていたのだろうか? 啄木を崇拝していた賢治であれば、啄木に倣い、姫神山を避けた可能性がある。  そこで、『【新】校本 宮澤賢治全集』の索引を使って調べてみることにした。

まず、岩手山である。本文篇と校異篇に出てくる岩手山関係の言葉の出現回数は44回にもある。では、姫神山はどうか?なんと、たった3回である。岩手山に比べて10分の1の回数しかない。姫神山は端正な形をしており、標高も1000メートル程度である。岩手山に比べれば、登山は容易だろう。やはり、賢治も姫神山を啄木に倣って避けていたのだろうか?

試しに種山ケ原も調べてみた。種山ケ原は花巻の南東に位置し、遠野の南にある高原地帯である。標高は600メートルから700メートル程度である。種山ケ原はなんと60回以上も賢治の作品に出てくる。岩手山よりも多いことに驚く。実際のところ、種山ケ原は賢治ゆかりの景勝地、「イーハトーブの風景地」のひとつに選定され、国の名勝にも指定されている。ちなみに、種山ケ原以外の風景地は鞍掛山、七つ森、狼森、釜淵の滝、五輪峠、そしてイギリス海岸である。

こうしてみると、やはり賢治は姫神山を避けていたのだろうか。山好きの賢治も啄木に従ったということか。

2023年9月末、東北自動車道を南下して盛岡に向かっていたときに撮影した写真。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?