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宮沢賢治の宇宙(4) 姫神山 ー 賢治、最後の願い

第3部 宮沢賢治、最後の願い

賢治は1896(明治29)年8月27日に生まれ、1933(昭和8)年9月21日にこの世を去った。賢治は花巻の実家で亡くなったが、家族に看取られての死であった。そのため、弟の宮沢清六が賢治臨終の様子を書き残している。

父は「遺言することはないか。」と言い、賢治は方言で「国訳妙法蓮華経を一千部おつくり下さい。表紙は朱色、校正は北向氏、お経のうしろには『私の生涯の仕事はこのお経をあなたのお手もとに届け、そして其中にある仏意に触れて、あなたが無上道に入られますことを。』ということを書いて知己の方々にあげて下さい。」と言った。 (『兄のトランク』宮沢清六、筑摩書房、1987年、238頁)

 熱心な法華経信者であった賢治の最後の願いである。そして、この願いは賢治が東京から持ち帰ってきた大きな皮トランクの中から一冊の手帳が見つかったことで、進展を見ることになった。この手帳は、のちに『雨ニモマケズ手帳』と呼ばれるものになった。冒頭にあの有名なメモ、“雨ニモマケズ”が書かれていたからである。

経埋ムベキ山

この手帳の143頁と144頁に山の名前が列記されていた。それらの山は“経埋ムベキ山”と題されていた。山の総数は32。そして、そこには姫神山の名前があったのだ。賢治が姫神山を嫌っていたのであれば、“経埋ムベキ山”には入れないだろう。確かに、岩手山に比べれば、姫神山は賢治の作品にほとんど出てこない(図1)。しかし、賢治は姫神山を心から嫌っていたわけではなかったのである。

図1 賢治が「経埋ムベキ山」としたもの。姫神山は12番である。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kenjimap.jpg

地図に星座を見た畑山博

ところで、“経埋ムベキ山”には少し謎がある。賢治の作品にまったく出てこない山もいくつか含まれているからである。その意味では、このリストに姫神山が入っているからといって、100%安心はできないのかもしれない。
たとえば、現在、宮沢賢治記念館がある胡四王山(標高183メートル)は賢治の作品には一度も出てこない。しかし、“経埋ムベキ山”には堂々と入っている(2番)。賢治の生まれ故郷、花巻にあるからだろうか?
賢治はいったいどのような基準で“経埋ムベキ山”を選んだのだろう。それいかんでは、姫神山の立ち位置も変わってくる。

小説家の畑山博(1935-2001)は、ある日、自著の編集担当者と話をしていて、面白いアイデアを思いついた。それは“賢治は夏の天の川に見える星座を思い浮かべて経埋ムベキ山を選んだ”というものだ(『美しき死の日のために』畑山博、学習研究社、1995年、305-316頁)。
畑山のアイデアを図4に示した。より詳細な図は『美しき死の日のために』(畑山博、学習研究社、1995年)の314頁と315頁にあるので、参照されたい。
「はくちょう座」の両翼には岩手山と姫神山が対照的に鎮座している。また、賢治の好きだった北上川が天の川の役割を果たしてくれているように見える。ここまでは素直に納得できる。しかし、どの星座も歪な形をしていることが気にかかる。「たて座」や「いて座」に至っては、かなり位置や形がずれていることは明白である。また、「はくちょう座」と「わし座」はあるが、もうひとつ重要な夏の星座である「こと座」はない。したがって、畑山説はかなり無理があることは確かである。

賢治の中の姫神山

賢治は夏の天の川に見える星座を思い浮かべて、経埋ムベキ山を選んだのだろうか? 残念ながら、断定はできない。賢治の残した謎は、一筋縄では解けないようにできている。何しろ、賢治自身による解説がないのだからしかたがない。そのため、謎解きは私たち個人の意見に終始しているのが現状である。
ただし、経埋ムベキ山のひとつに姫神山を選んだことは確かな事実である。
ところが、賢治は作品の中で姫神山を礼賛することはしていない。姫神山が賢治の作品の中でどのように紹介されているか見ればわかる。

詩ノートに収められた詩〔ちぢれてすがしい雲の朝〕(詩番号1034)に次の文章がある。
東根山のそのコロナ光り
姫神から盛岡の背后にわたる花崗岩地が
いま寒冷な北西風と
湿ぽい南の風とで
大混乱の〔最〕中である
『【新】校本 宮澤賢治全集』第四巻、本文篇、1995年、208,頁)

花崗岩地の場所を示すために姫神から盛岡と言っているだけである。つまり、ここでは姫神山が個別に説明されているわけではない。
次は『春と修羅』第二集に収められた詩「林学生」(詩番号152)の下書稿(一)に出てくる例である。

(早池峰も姫神山も
 あんなに青くひっそりだ
 おい もっとしずかに草笛を吹け)
(『【新】校本 宮澤賢治全集』第三巻、校異篇、筑摩書房、1996年、197頁)

ここでは姫神山の青くひっそりした景観が示されている。しかし、早池峰と並べて紹介されているので、姫神山だけの特別な記述にはなっていない。
姫神山は「林学生」(詩番号152)の下書稿(二)にも出てくる。

姫神山も早池峰も、もうとっぷりとくれたといふ(『【新】校本 宮澤賢治全集』第三巻、校異篇、筑摩書房、1996年、201頁)

ここでも早池峰とセットになって出てくる。とっぷりと日のくれた場所として紹介されているだけである。
なぜ姫神山は賢治の作品にほとんど出てこないのか? 賢治自身の意思で生じたのか? あるいは、啄木の影響なのか? 今となっては、その答えを知る由もない。盛岡の北東に、ひっそりと佇む姫神山があるだけである。

姫神山にススキがよく似合う。
賢治さんなら踊り出しそうだ。
 2023年9月末、東北自動車道を南下して盛岡に向かっていたときに撮影した写真。

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