寄付について考える(その2)

以前書いた、寄付について考える(その1)はこちら

さて。

寄付ってどういう事なのかを考えてみました。
辞書や法律でどう定義されているかは分かりませんが、一般的には「自分の持っている財産や権利の一部を、困っている人や必要そうな人に与えること」が寄付だと思います。

被災者にお金を寄付。
学校に本を寄付。
美術館に絵を寄付。

自分の生活を削ってまでやるべき事ではなくて、ゆとりがある人が、ゆとりがある時に、出来る範囲でやる行為が「寄付」。

そう考えると、電車で席を譲る行為も寄付ってことになる。
俺が持っている座席に座り続ける権利を、困っていたり大変そうな人に譲る行為。
あれは、マナーや常識ではなく、自分が席を譲るだけの肉体的・精神的ゆとりがある場合にのみ発生する。
自分が風邪をひいていたり、すごく疲れている時にはやらなくていい。

で。

そう考えると、一般的な金銭などの寄付と、座席を譲るって行為に対する認識の差が凄く大きいような気がしてくる。
どちらも寄付と考えられるはずなのに、前者は好意的に扱われ、後者は当然の義務のように扱われている。

例えば学校の先生が小学生に「自分が座っている時に、目の前にお年寄りがいたら席を譲りましょう」って言うとする。
普通の事のような感じがしますよね?

でも、これ、「お金を持っていたら被災地に寄付しましょう」って言ったとしたら大問題ですよね。
それは他人から強制されたり、促されたりするものなの?と。

小学生じゃなくても同じことです。
町内会の回覧板で「お年寄りを見かけたら必ず席を譲りましょう」って書いてあっても、ああそうですかって感じがしますが、「被災地に必ず寄付を送りましょう」って書いてあったら、「なんでそんな事を強制されなきゃいけないの?」ってなると思うんですよね。

この感覚の差って何なんでしょうね。
電車の座席に座る権利は「たまたま手に入れた物」だと思われていて、権利を軽く見られてるんでしょうか?

例えば急行始発駅に住んでいた人が毎朝座って出社できていたとしても、それはたまたまじゃないかもしれないですよね?
急行始発駅だから家賃や家の販売価格は高くなっているかもしれないし、職場まで遠くなっているかもしれないし、座るために数本見送ってから乗ってるかもしれないけど、そこを我慢した上で座っているかもしれない。
そうやって金銭や時間を代償にして座ったとしても、次の駅でお年寄りが乗ってきたら、席を譲るべきなんでしょうか?(もちろん、目の前の人が急に倒れたとかなら話は変わってきますが)

それって、相手の経済状態を考えずに「貯金あるんだから寄付金出せ」って言うのと同じような話の気がするんですよね。
言わないですし、考えもしないですよね?そんな事。

まあ、そんなこんなで、寄付について考えた結果、「善を強要しないってのは、簡単そうに見えて案外難しいもんなんじゃないかなぁ」と言う所に着地したお話でした。

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