山姥切長義解釈まとめ~「山姥切問題」から極予想まで~

 近いうち(数年以内かな…)に長義極が来そうなので2022年9月時点での伯仲解釈をまとめとこうと思いました。
 いわゆる「山姥切問題」から極予想まで。
 結論は「山姥切国広と山姥切長義、どっちもめんどくさかわいい!!」です。
 前記事(こちら前提です):山姥切国広解釈まとめ~特から極の成長譚について~

※便宜上、修行前のノーマル個体を「特」と表記する
※台詞は『』で表記。刀剣乱舞ONLINE(とうらぶ) Wikiから引用
※考察材料は原作台詞・回想のみ。一点を除き、メディアミックスは含めない。ただし、メディアミックス・二次創作等から着想を得たor参考にしている解釈もある。全てを引用することはできないので、参考元の記載は省略する。
※来歴・歴史的背景は原史彦「「刀 銘 本作長義(以下、五十八字略)」と山姥切伝承の再検討」金鯱叢書:史学美術史論文集 第47輯(2020.3)、佐藤貫一「堀川国広とその弟子」(1962)、さよのすけ(RayS)「山姥切考察本」(2018.8.25)を参考とした。筋金入りの歴史苦手人間なので歴史等はふんわりとした理解。
※個人の幻覚です
※長い
※2022年11月27日 山姥切国広まとめの一部追記・修正に伴い、本文を一部追記・修正しました。



【山姥切長義・特~山よりも高いプライド・海よりも深いコンプレックス~】

(1)美しいが高慢

 山姥切長義を表す象徴的なワードは「高慢」である。

『備前長船長義作の打刀。長義は長船派の主流とは別系統の刀工となる。
写しであると言われている山姥切国広と共に伯仲の出来。美しいが高慢。
より正確に言えば自分に自信があり、他に臆する事がない。』(公式Twitterの紹介)

「高慢」
[名・形動]自分の才能・容貌 (ようぼう) などが人よりすぐれていると思い上がって、人を見下すこと。また、そのさま。

goo国語辞書

 類義語に「傲慢」があり、ほぼ同じ意味なのだが違いはあるようだ。

「高慢」は自分が優れていると思いあがり相手を見下しますが、それをあからさまな態度で示すことはありません。一方で「傲慢」は相手を見下すことに加えて、自分本位に行動することを表します。相手を見下した後の行動によって、「高慢」と「傲慢」を使い分けましょう。

「高慢」の意味とは?「傲慢」との違いや類語・対義語も解説

 高慢とわかる時点で正直態度には出ているのではと思うのだが、「高慢」は態度で示さない、「傲慢」は示すという違いがあるようである。
 「高慢」は態度には出ても行動はしない、「傲慢」は態度に出るし行動もする、という違いがあると解説するサイトもあるため、こちらの意味で取ってもいいかもしれない。

 そんな「高慢さ」が山姥切長義の台詞からは窺える。

『いいのかな? 隊長の見せ場まで奪ってしまうかもしれない』(特・結成(隊員))
『ははっ、皆の見せ場を取ってしまったかな?』(特・勝利MVP)
『弱い刀には修行が必要。そういうことかな』(特・修行見送り)

 上2つは自信の表れとも取れるが、3つ目に関してはかなり高慢さが垣間見える台詞である。
 修行に出した刀剣男士が審神者の”推し”かもしれない可能性を考えると、この台詞を審神者に面と向かって言えてしまう山姥切長義の胆力はなかなかのものだ。


 また、山姥切長義と縁深い刀である南泉一文字への発言に以下のものがある。

『へぇ、それはやっぱり斬ったものの格の差かな? わかるよ、猫と山姥ではね』(回想・其の55『猫斬りと山姥切』・一部抜粋)

 南泉一文字は気さくなヤンキー風あんちゃん(語尾が猫語になる等かわいさも備えている)というキャラ付けだが、それとは裏腹に経歴は相当なエリート刀である。
 元は豊臣秀吉の所持刀で「一之箱」に納められており、秀頼→家康→義直(以降尾張徳川家)と天下人の手から手に渡るという立派な来歴を持ち、三種類の拵えが現存する=それだけ代々の尾張徳川家当主に気に入られ差料と使われた。
 享保名物帳では「無代(値段がつけられないほど価値がある)」と評価され、尾張徳川家の管理記録でも最上ランクに分類されてきた。

 一方山姥切長義(本作長義)の来歴は「作刀後の経緯は不明→後北条家に伝来→長尾顕長に下賜→来歴不明→尾張徳川家に買い取られ以後現在まで伝来」である。
 尾張徳川家の管理記録では、買い取られた直後は十一段階あるうちの六番目(買い取った刀に付けられるランク)。その後、当主の差料とすべき刀のランク→門外不出のトップランクと評価を上げ、南泉一文字と同じ評価にまで上り詰めている。

 これを踏まえると尾張徳川家での彼らの立ち位置は根っからエリート南泉一文字と叩き上げの山姥切長義といったところだろうか。
 尾張徳川家での評価が全てではないし、最終的に同等のランクに落ち着いた。とはいえ、南泉一文字はなかなか立派な経歴を持つ刀である。山姥切長義はこんな相手に「斬ったものの格が違う」と言い放っているわけだ。
 いくら付き合いの長い相手とはいえ、「高慢」「他に臆することがない」と言われるのも納得の言動である。


 そんな「自分の才能・容貌 (ようぼう) などが人よりすぐれていると思い上がって、人を見下す」性格が垣間見えてしまう山姥切長義であるが、決してそれだけではない。

『っふふ、減るものではなし』(特・本丸)
『持てるものこそ、与えなくては』(特・本丸)
『どうかしたかな? そんなにまじまじと見て』(特・本丸)
『采配のせいにしても、始まらない……』(特・つつきすぎ(中傷))
『七周年か……。この戦いがここまで続くとは。いや、心配は無用だ。そのために俺がいるんだ』(刀剣乱舞七周年)

 彼は「高慢」な一方で、度量の大きさ、ノブレス・オブリージュ精神を見せ、戦の長期化に対する懸念についても実に頼もしいことを言ってくれている。

 彼の元主達である後北条家は非常に内政に優れた大名であり、直轄領の税は軽くし、中間搾取を廃し、飢饉の際には減税するといった公正な民政を行ったという。
 山姥切長義が見せる度量の大きさ、ノブレス・オブリージュ精神は元主から受け継いだものなのかもしれない。
 頼もしい言動はすなわち、それだけ本丸のために尽力するという意思表示であるし、それを裏打ちする実力・刀としての価値も持ち合わせている(尾張徳川家の刀剣ランク付けで最終的に最上位まで上り詰めたことがそれを示している。また初の特命調査で監査官に選ばれたという事実は、刀剣男士としての能力も高く評価された結果と捉えて差し支えないだろう)。
 山姥切長義は高慢さだけではなく、実力を伴う誇り高い精神性も持ち合わせているのである。


 また、山姥切長義の担当CVの高梨謙吾氏は過去のインタビューで「随所に分かりやすく隙を作った」とおっしゃっているそうだが、それを体現する台詞がある。

『もう何も出ない……かな』(特・つつきすぎ(通常))

 この台詞はニュアンスからして、完全に戸惑っているものである。普段は『持てるものこそ、与えなくては』(特・本丸)と余裕のある物腰の山姥切長義だが、どうやらぐいぐい迫られるのは予想外でスマートな対応ができないらしい。
 この隙がいわば彼の"可愛げ"の部分であるといえるだろう。


「態度は大きいけど頼もしくて、ちょっと隙がある奴」

 それが山姥切長義なのである。

 山姥切長義のこの「高慢」と「度量の大きさ・頼もしさ」に通ずるのは「己は優れた刀であるという自信、すなわちプライド」である。
 美点と欠点が明瞭に生じるほど高いプライドを持ち、かつそれを隠さない刀なのだ。
 美点も欠点も伴うこのプライドの高さは山姥切長義のキャラクター造形に奥行きを与え、彼を魅力的にしている要素の一つであると言えるだろう。

 そんなプライド高い山姥切長義が並々ならぬこだわりを見せるのが、「本歌山姥切である」という己の物語である。


(2)主張と行動の違和感

『山姥切長義。備前長船の刀工、長義作の刀だ。
俺こそが長義が打った本歌、山姥切。どこかの偽物くんとは、似ている似ていない以前の問題だよ』(特・刀帳説明)
『俺こそが長義が打った本歌、山姥切。』(特・入手(特命調査およびその他)・一部抜粋)
 
『やあ、偽物くん』
『俺を差し置いて『山姥切』の名で、顔を売っているんだろう?』
『俺が居る以上、『山姥切』と認識されるべきは俺だ。』
(回想・其の55・56『ふたつの山姥切』・一部抜粋)

 山姥切長義は己の写し・山姥切国広に対して「偽物くん」と呼び掛け、俺こそが山姥切である、山姥切と認識されるべきと主張する。
 刀帳説明の『どこかの偽物くんとは』の下りや回想での語調はかなりきつく、力が入った主張であると分かる。それくらい重要なことであるということだろう。

 ところが山姥切長義のこの主張、よく見ると非常に奇妙である。
 本気で「山姥切と認識されたい(呼ばれたい)と思っている」と考えるには主張内容と行動がチグハグなのだ。
 その理由は大きく分けて2つある。
 1つ目は主張内容の脇の甘さ、
 2つ目は不自然なほどの主張の少なさである。


1.主張内容の脇の甘さ≫
 始めに1つ目についてだが、山姥切長義が回想『ふたつの山姥切』において発言している内容は、なんだか妙に隙のあると思わざるを得ない。もっと言うと見当違いなことを言っているように思えてならないのだ。

 山姥切長義は山姥切国広に対して『俺を差し置いて『山姥切』の名で、顔を売っているんだろう?』(回想・其の55・56『ふたつの山姥切』・一部抜粋)と非難する。
 『だって、ここには俺が居なかったんだから』(回想・其の55・『ふたつの山姥切』・一部抜粋)と発言していることから、山姥切国広が刀剣乱舞リリース後から山姥切長義実装前までに本歌よりずっと有名になったことを指しているようだが、そもそも、山姥切国広が山姥切の名を利用して有名になろうとしたことなどあっただろうか?

 まず山姥切国広は自分は山姥を切っていないと本丸台詞と出陣台詞、修行の手紙の三種ではっきり主張している。

『化け物切りの刀そのものならともかく、写しに霊力を期待してどうするんだ?』(特・本丸)
『山姥退治なんて俺の仕事じゃない』(特・出陣)
『俺は、山姥を斬った伝説を持つ刀、山姥切の写しであって、
山姥を斬ったのは俺じゃないと記憶している。』(手紙二通目・一部抜粋)

 また、自分は山姥を斬っていないことを明言すると共に、本科が「山姥切」であることも(卑屈とセットではあるが)ずっと言及してきた。刀帳説明、本丸台詞、内番台詞と台詞数も多い。

『俺は山姥切国広。足利城主長尾顕長の依頼で打たれた刀だ。……山姥切の写しとしてな。
だが、俺は偽物なんかじゃない。国広の第一の傑作なんだ……!』(特・刀帳説明)
『化け物切りの刀そのものならともかく、写しに霊力を期待してどうするんだ?』(特・本丸)
『……ははは。雑用結構。これで山姥切と比較する奴もいなくなるだろ』(特・内番(馬当番))
『泥にまみれていれば、山姥切と比べるなんてできないだろ……』(特・内番(畑当番))

 山姥切国広と山姥切長義(本作長義)は刀剣業界では有名だったとしても、刀剣乱舞リリース以前は刀剣業界以外の世間一般知名度は限りなく低かったはずである。
 山姥を斬ったのは自分ではなく、本科の山姥切長義(本作長義)であると(元から知識があった人以外の)審神者に周知したのは、他ならぬ山姥切国広であったはずだ。
 「差し置く」は「当然考慮すべき人物などを無視する。なおざりにする」という意味(goo辞書)だ。卑屈故の台詞とはいえ、山姥切国広が本科の存在を無視してきたことはない
 そう考えると、いくら山姥切国広が有名になったからと言って、山姥切長義に山姥切国広を「山姥切の名を利用して有名になった」と攻撃する理由はないのではないだろうか? 少なくとも本科のことを常々言及しているのだから、『俺(山姥切長義)を差し置いて』は誤りである。


 また「顔を売ろうとした」ことだが、山姥切国広は基本的に目立つこと、人目が多いところを嫌がる刀である。修行前は特にそうだ。

『写しなんか見せびらかしてどうするんだ』(特・万屋)
『花見は、ひとり静かな方がいい』(特・お花見)

 「有名になりたい(必然的に目立つ)」という価値観は全く山姥切国広の性格にそぐわないものである。
 もちろん山姥切国広は「自分だけの評価で独り立ちできるほどの強さがほしい(強くなって写しは偽物でないと示したい)」「写し=偽物ではないと証明するための功績を上げたい」とは思っているものの、これはあくまで「写しが何たるかが周知されてほしい」という理由であり、有名になりたいという自己顕示欲とは異なるものだ。

 山姥切国広は写しにつけられたマイナス評価を覆すため、写しコンプレックスを克服するためにひたすら努力していただけであり、結果的にその姿が多くの審神者からの支持を得た(キャラクターとして非常に魅力的だった)から有名になっただけである。
 彼としては町一つ上げてコラボレーションまで行われ、経済効果4億の男だの4億8000万の男だの言われるようになった現状は予想もしていなかったことであろう。極なら驚きつつも落ち着いて受け止めるだろうが、特なら信じがたくて動揺しているようなことだ。極論を言えば、人間が山姥切国広を勝手に有名にしたとも言える。
 『俺を差し置いて『山姥切』の名で、顔を売っているんだろう?』(回想・其の55・56『ふたつの山姥切』・一部抜粋)と嫌味めいたことを言われて当然の行動とは言い難いのではないだろうか。

 以上を前提とすると、山姥切長義が言う『俺を差し置いて『山姥切』の名で、顔を売っているんだろう?』は、
①    山姥切国広が号に関してどういう主張をしてきたか・どういう意図をもって刀剣男士として活動してきたかを知らないため、「自己顕示欲から山姥切伝説を利用し、有名になった」と誤解している。
②    山姥切国広の主張・意図は知っているが、その内容は関係なく「山姥切国広が世間的に有名になった」という事実自体が気に入らないため攻撃的に非難している
 のいずれかということになる。

 ①だと仮定すると、時の政府から監査官を任されるほどの能力がある山姥切長義が山姥切国広のことを全く調べていないというのはかなりの違和感がある。
 特命調査・聚楽第回想でも何度も山姥切国広を観察する様子が描かれていたこともあり、山姥切長義なら山姥切国広がどのように活動してきたか、きちんと調べ上げるのではないだろうか? 仮に監査官であった間にそういったことができなくても、本丸に来てから聞き取り調査することだってできるだろう。
 よってこの可能性は低いのではないかと思われる。

 となるとこの台詞の意図は②「「山姥切国広が世間的に有名になった」という事実自体が気に入らない」ということになる。
 しかしそうであるならば、号の由来と本科山姥切の存在をきちんと明示していた上、名を使って有名になる意図がない相手に対し、「有名になったという事実」のみを取り上げて非難するという構図は言いがかりめいて見え、第三者から見て非常に心証が悪い
 なぜわざわざこのような発言をするのだろうか?


 これは「偽物くん」という呼称についてもそうである。
 山姥切国広が偽物扱いが地雷であることは周知の事実であるし、そうでなくとも正真正銘贋作ではない刀を偽物呼びするのは侮辱であり、非常に攻撃的である(念のため、贋作であれば偽物呼びしていいという話ではない)。
 山姥切国広・特だと口ごもってあまり言い返せないことも相まって、率直に言えば地雷ワードを使って罵倒して虐めている構図に見えてしまう。

 これについて、「偽物くん」という呼称を「山姥切だけど山姥を斬っていないから」とする解釈もある。しかし山姥切国広は「自分は山姥を斬っていない」とはっきり語っているのに、なぜ「山姥を斬っていない偽物くん」と高圧的に呼び掛ける必要があるのだろう。
 明らかに圧をかけようとしている口振りなのに、呼ばれた側に「いやだから斬っていないと言ってるんだけど」というリアクションを取られてしまっては格好がつかないのではないだろうか?
 山姥切国広は山姥を斬っていないこと自体は他人に指摘されて困ることと思っていない(特ではむしろ斬っていないときちんと認識してもらって勝手な期待をかけないでほしいと思っている)ので、「偽物くん」呼びは揶揄として全く機能しないのだ。
 南泉一文字に対しては「猫殺しくん」という的確に地雷を踏んだあだ名をつけているのに、山姥切国広に対してまず地雷を踏んですらいないあだ名をつけるだろうか?
 また「偽物くん」と呼ばれた山姥切国広は『写しは偽物とは違う』(回想・其の55・56『ふたつの山姥切』・一部抜粋)と反論している。この時点で「写し=偽物」という意味で取られたことは明白なのに、なぜ「だってお前は山姥を斬っていないだろう?」と言うなどして認識のすり合わせ兼反論の封殺をしないのだろうか。
 南泉一文字に対しては猫と山姥で格が違うとはっきり言葉にしてマウントを取ったのだから、山姥切国広に対しても斬った斬ってないをはっきり言葉にして言い返せるはずである。山姥を斬っていないのは事実なので、斬ってないだろうと言われたら山姥切国広はぐうの音も出ないのだ。
 山姥切国広・特は結果的に萎縮して反論してこなかったものの、山姥切国広・極は『俺を差し置いて~』の後に言い返してきたのだから、「だってお前は山姥を斬っていないだろう?」で(山姥切長義の主観からは)反論を封じ込められたし、効果的に圧もかけられたはずだ。
 しかし山姥切長義は弁論が得意そうに見えるにも関わらずそうしていない。ということは、この発言は別の意味があるように見える(これについては後述する)。


 話を戻そう。
 山姥切長義は「偽物くん」「俺を差し置いて」に続いて、『『山姥切』と認識されるべきは俺だ』(回想・其の55・56『ふたつの山姥切』・一部抜粋)と主張する。
 ではこの認識する人物とは誰か?
 山姥切長義・山姥切国広以外の第三者、主には審神者だろう(無論、他の刀剣男士も含まれると考えてよいが、ゲーム上、「特定の誰かに宛てた台詞」で多いのは刀剣男士同士よりも刀剣男士→審神者である)。
 すなわち、山姥切と認識されるべきと思うなら、審神者に向けて自分が本物の山姥切である・山姥切と呼んでくれと主張するのが自然なのだ。

 例えばへし切長谷部・特は『できればへし切ではなく長谷部と呼んでください』(特・本丸・一部抜粋)と真正面から申告している。よって、刀剣男士が審神者に対し呼び名を指定するのはあり得ないことではない。
 また、提案という形なら、南海太郎朝尊や福島光忠も呼び名の話をしている。
 つまり『俺が居る以上、『山姥切』と認識されるべきは俺だ。』(回想・其の55・56『ふたつの山姥切』・一部抜粋)と思うのであれば、山姥切と呼ぶ側である第三者(審神者)が認識を改める、もしくは呼び方を変えようと思うよう説得もしくは誘導しなければならない。


 また、そもそも山姥切国広は号で呼ばれることにあまりこだわりがない
 自分の名前として愛着と誇りはあるだろうが、山姥切と呼べと要求したことなどないし、そう呼ばれること自体にこだわっている様子はどこにもない。「本歌を山姥切と呼ぶから今日から違う呼び方をするね」と言われれば侮辱的な呼び方でない限りは素直に受け入れるだろう。
 山姥切国広を山姥切と呼ぶのも、「国広は三振りいる」「堀川国広が和泉守兼定に『国広』と呼ばれているので、山姥切国広を『国広』呼びするとややこしい」くらいの便宜上の意味が強いだろう(そもそもどんな刀剣男士も特に理由がなければ号などのいわゆる“上の名前”で呼ばれるので、それに倣っただけであろう)。
 山姥切国広推し界隈に至っては、本歌が実装された時に区別するために「山姥切」以外の愛称で呼ぶという風習があったくらいである。
 何を言われても山姥切国広のことを絶対に山姥切と呼ぶと考える審神者も存在はするだろうが、多数派とは言えないだろう。変えないうちの大多数は「呼び方を変えるのが面倒」程度の理由のはずだ。
 つまり山姥切長義がストレートに「山姥切と呼んでくれ」と(ゲーム上は審神者に)しつこく申し出れば、余計な軋轢を生まず山姥切呼びに移行できる可能性が高いのだ。これで呼び方を変えないならそれは呼ぶ方の責任だろう。
 なのにそうせず山姥切国広を偽物くんと呼ぶのは周囲との間に無用な確執を生み、心証を損ね、場合によっては却って山姥切呼びから遠ざかる事態になりかねない
 コンテンツ性質上具体的なシーンがないため断定はできないが、知性面でも優秀であろうと目される山姥切長義が意味もなく自分を不利にする行動を取るというのはかなり不可思議である。感情的になって自分を見失っているのだとしても、山姥切と呼ばれることにこだわりのない山姥切国広と山姥切と呼ばれたい山姥切長義とで主張の対立はない。
 
にも関わらず、わざわざ山姥切国広にぶつかりにいくという見当違いの方法を取る理由はなんだろうか?


 さて、攻撃的な物言いで自分が不利になるとしても、主張しなければならない局面というのは存在する。
 不当な扱いに対して異議を申し立てるという義憤からの行動である場合だ。
 しかしこの場合、主張内容に一定の理がなければならない。というより、(特に山姥切長義のようなタイプは)一定の理がなければ行動しないだろうと考えられる。
 のだが、『『山姥切』と認識されるべきは俺だ。』という主張の意図を具体的に「本歌が山姥切と呼ばれないことは不当である」「山姥切という名から連想されるのが写しの方なのは不当である」「写しが山姥切と呼ばれることは不当である」とした場合、やはり主張と行動のチグハグさを感じざるを得ないのである。

 まず「本歌が山姥切と呼ばれないことは不当である」「山姥切という名から連想されるのが写しの方なのは不当である」であるが、これは本人も言っているようにある程度は仕方のないことではないだろうか。
 少なくとも後述のように誰が悪いというわけではないことなのだから、山姥切国広を偽物と呼んで糾弾して構わないほど正当性があるというには苦しいように思われる。

 「山姥切」と呼ばれないことであるが、名前が長い刀剣男士は号で呼ばれることが多いものの、号で呼ばなければならないという決まりはない
 例えば観測範囲内での話にはなるが、にっかり青江は審神者からは「青江」と呼ばれることが多い。
 原作ゲーム上では名を呼ばれることはないが、メディアミックスにおいては「にっかり」と「青江」の2つの呼び方が混雑している。
 もし「号で呼ばなければならない」もしくは「号で呼ばなければ失礼」だというのならばメディアミックスで「青江」と呼ばれることはないはずだし、審神者の大半はにっかり青江に対して無礼を働いていることにならないだろうか。
 また燭台切光忠は太鼓鐘貞宗を刀工名から取った「貞ちゃん」と、太鼓鐘貞宗は燭台切光忠を「みっちゃん」と呼ぶし、大倶利伽羅は「光忠」「貞宗」、福島光忠も燭台切光忠を「光忠」と呼ぶ。
 「号で呼ばなければならない」あるいは「号で呼ばなければ失礼」ならば、いくら身内同士でもこんな呼称は発生しないはずだ。

 もちろん山姥切長義が個人的に「号で呼ばないのは失礼」と考えるのは間違ったことではない。
 しかし号で呼ぶべしという決まりも共通理解もない以上、これは彼個人のこだわりだ。
 そう呼ばれたいのならまずするべきことは、「こう呼べor呼んでくれ」と申告することなのではないだろうか?
 それに、自分は特定の呼称で呼ばれたいのに山姥切国広のことは偽物と揶揄するのは、主張が個人的なこだわりである以上、他者から見て公平性に欠くと思わざるを得ないのである。


 また「山姥切という名から先に連想されるのが写しの方なのは不当である」のも、要は「付き合いの長さが違う同名の知人が二人いる場合、名前を聞いて思い浮かぶのは付き合いが長い方」ということでしかない
 不満なのは理解できるが、不当とまでは言いがたいのではないだろうか。少なくとも、山姥切国広を偽物と呼ぶことを正当化できるほどの理由とは考えにくいのである。
 それにもしこれが不満なのであれば、その責任は連想される側の山姥切国広ではなく、連想する側の第三者にあるはずである。
 彼が不満をぶつけるべき相手は写しではなく、呼ぶ側である第三者(この場合は審神者)なのではないだろうか?


 次に「写しが山姥切と呼ばれることが不当」という点についてだが、山姥切国広が山姥切を名乗る・呼ばれることに正当性がないとは言いがたい

 まず、写しの名称に本歌の名が使われるのは山姥切国広に限ったことではない。
 例えばソハヤノツルキは妙純伝持ソハヤノツルキウツスナリという銘の刀である。ソハヤノツルキの本歌がどの刀であるかははっきりわかっていないが、文字通り取るなら「妙純という人物が伝え持ったソハヤの剣写し」となる。もし「写しが本歌の名で呼ばれることは不当」ならば、表記が異なるだけで本歌(とされる刀)の名前をそのまま名乗っている刀剣男士ソハヤノツルキも山姥切長義の非難の対象になるのだろうか?

 それに、これは素人感覚だが「○○という本歌の写しである」という命名はいわば出典の明示のためのものに見える。
 山姥切国広は本歌の号+刀工名という構成ではあるが、「本科が山姥切だから山姥切と名付けられた」という由来なので意味合いとしては同じである。
 参考という観点でいえば、出典の明示はむしろしなければならないことだろう。
 また、山姥切という号は文化財データベースにも載っている山姥切国広の正式名称である。
 贋作と違い、写しは正式な刀剣製作上の技法だ。それに対して通例に近い形で命名されているのだから、名称として不適切だとは言いがたい。
 そんな自分の正式な名前を山姥切国広が名乗るのも呼ばれるのも不当だとは言えないのではないだろうか(更に言えば、山姥切国広にも山姥切伝説はあることが修行の手紙で明かされており、この二者の回想タイトルも『ふたつの山姥切』である。山姥切国広が「山姥切」であることは伝説の有無からもキャラクター設定上からも間違いないことであり、仮に山姥切長義が本当に「写しが山姥切と呼ばれることが不当」だと主張したいのだとしても、その主張は否定されるべきものということになる)。

 加えて、山姥切国広・特は自らが写しであること、山姥を斬ったのは本科であること(自分は斬っていないこと)を明言している。
 山姥切国広の発言をきちんと聞いてさえいれば、例えば「山姥切国広は山姥を斬っている」と誤解されるような余地はない。「山姥切という号を持つ本科がいて、その写しだから山姥切という名がついている」と分かるはずである。
 その上で「山姥切国広は山姥を斬っている」と誤解している者がいるなら、それは誤解している側の責任だろう。

 もちろん、命名の慣習に照らせば不当ではなくても、山姥切長義が個人的に納得できないというならそれは間違ったことではない。
 例えば実戦で使うなんてもっての他と大切に飾られてきた刀剣が、刀剣男士となってから実戦経験のなさを気にしているというパターンは数多くある。
 それと同様に、写しへの命名・呼称が本歌にとって不服であるとしてもそう感じること自体は全く問題ない。
 しかしそうであるならば、彼が不服を述べるor不満をぶつける相手はまず人間になるはずだ。写しに山姥切国広という名前をつけたのも、その一部を取って山姥切と呼ぶのも人間だろう。
 山姥切国広に何か言うにしても、それと同等あるいはそれ以上の熱量で人間(この場合は審神者)に対して不服の申し立てがあるのが自然である。

 しかし、山姥切長義から審神者に向けた「山姥切」に関する台詞は驚くほど少ない
 それが山姥切長義の主張の奇妙な点の2つ目である。


≪2.不自然なほどの主張の少なさ≫
 山姥切長義は「俺こそが山姥切」と語る際、その語気に並々ならぬこだわりを窺わせる。
 しかしその割に、「俺こそが山姥切」という趣旨の台詞は少なく、刀帳説明・入手時台詞・回想、たったこれだけである。他の台詞では全く言及していない。

 強いて上げれば節分イベント関連の台詞と南泉一文字との回想、

『斬ったほうが早くないか?』(特・豆まき・一部抜粋)
『化け物退治はお手の物だ』(特・鬼退治(ボス到達))
『呪い? 悪いがそういうのとは無縁かな。なにせ、化け物も斬る刀だからね』(回想・其の55『猫斬りと山姥切』・一部抜粋)

 以上が山姥切としての自信を窺わせるものであるが、それにしても山姥切アピールと考えるにはえらく遠回しである。
 この他、切れ味を誇る台詞はあるものの、これも号にまつわる発言と捉えるには遠回しすぎる。

 他の刀剣男士と比較するとより主張の少なさが明白だ。
 例えば山姥切国広・特は「俺(写し)は偽物ではない」というフレーズを刀帳・本丸台詞・会心の一撃となんと三回も発言している(極後ですら本丸台詞と会心の一撃の二回である)。刀帳と本丸台詞は明確に審神者宛て(後者は独り言風ではあるが)だし、会心の一撃は出陣させていれば聞く機会も多い。また写しコンプレックス絡みの台詞(「写し=偽物」に反発する台詞)は入手・本丸・真剣必殺・内番、果ては刀剣乱舞周年記念や審神者就任記念までと多岐に渡る。
 また山姥切国広以外だと蜂須賀虎徹・特は真作と贋作は違うという主張を刀帳・入手・本丸・結成・勝利MVP・ランクアップ・審神者就任記念台詞と数多くの場面で行っている。極後は真作虎徹であることを誇る台詞が多くなるものの、本丸・結成・会心の一撃・真剣必殺・勝利MVP・刀剣乱舞周年記念・審神者就任記念とやはり種類豊富である。
 彼らと比べても、山姥切長義の号に関わる審神者宛ての台詞はただでさえ聞く機会の少ない入手台詞と聞くのにひと手間かかる刀帳の二つのみで、不自然なくらい少ないと言わざるを得ない

 また前述の通り、『『山姥切』と認識されるべきは俺』と主張するなら、認識する側である人間(審神者)に対し、へし切長谷部がそうしているように「山姥切と呼んでくれ」と要求するのが自然である。

 それにもかかわらず、山姥切長義は審神者に対して呼び名指定することもなければ山姥切アピールもほとんどしない。
 肝心の刀帳説明と入手台詞も、「本歌山姥切」へのこだわりは見えるものの内容的にはほぼ名乗りである。はっきり『できればへし切ではなく長谷部と呼んでください』(特・本丸・一部抜粋)と申告しているへし切長谷部と比べると、審神者に対する呼び名についての要求と見るには言葉が足りないと言わざるを得ない。山姥切長義はそこまでコミュニケーション下手だろうか?

『山姥切長義。備前長船の刀工、長義作の刀だ。俺こそが長義が打った本歌、山姥切。どこかの偽物くんとは、似ている似ていない以前の問題だよ』(特・刀帳説明)
『俺こそが長義が打った本歌、山姥切。』(特・入手(特命調査およびその他)・一部抜粋)

 山姥切長義が慎ましい性格、あるいは言葉より行動で示す性格ならば言及が少なくても不自然ではないが、実際のところ、彼は自分の優秀さを誇る台詞が多数存在するという非常に自己アピールが激しい刀である。
 本当に「山姥切と認識されたい」のなら、ことあるごとに(例えば本丸台詞、勝利MVP台詞、審神者就任記念台詞などで)「当然だ。俺こそが本歌山姥切なのだからね」とでも主張するはずではないだろうか。

 それなのに、『『山姥切』と認識されるべきは俺』と主張するのは「認識する側・呼ぶ側」ではない山姥切国広に対してのみである。
 審神者に対して何度も山姥切アピールを行っている上で山姥切国広に対してこの台詞を言うのであれば納得はできるが、現状のこの主張の少なさでは「言う相手を間違っているのでは?」という印象が拭えないのだ。


 番外になるが、山姥切長義の発言について、「『山姥切』と呼ばれないと山姥切逸話を失ってしまうから」とする解釈も存在する。
 しかし、号で呼ばないと号にまつわる逸話を失ってしまうというのならば、審神者からも刀剣男士からももっぱら「長谷部」と呼ばれるへし切長谷部はとっくの昔にへし切逸話を喪失しているはずではないだろうか?
 しかも、へし切長谷部の場合は「本人の希望」で長谷部と呼ばれているのだ。「号で呼ばれたいが呼ばれない」よりも「号で呼ばれたくないと希望し実際に呼ばれていない」方が本人が抵抗しない分、逸話を喪失しやすいはずである。
 だが実際にそんなことはない。へし切長谷部は特でも極でも変わらずへし切逸話の話をしている。この例がある以上、「号で呼ばれないと逸話を喪失する」とは言い難いのである。

 それにもし刀剣男士が逸話を喪失するとしたら、南海太郎朝尊が『刀剣にまつわる逸話の収集は、重要事項だよ。忘れ去られれば、僕らは顕現できなくなる』(特・本丸)と指摘する通り、それはその刀がその逸話を持つことを忘れられた時になる。「逸話が作り話(もしくは誤伝)だったと判明した時」ではない。何故なら創作だと分かっていても今剣・極は源義経の、岩融・極は武蔵坊弁慶の、一文字則宗は菊一文字の要素を備えているからだ。ただそこに「創作生まれだった」という自覚が足されるだけである。
※20221127追記
 この「忘れ去られれば顕現できなくなる」に近い例として挙げられるのが山姥切国広の逸話である。
 山姥切国広解釈まとめで指摘した通り、山姥切国広も山姥切伝説を持つにも関わらず本人に「山姥を斬った」という認識はない。それは刀剣界では長らく山姥切伝説長義由来説が定説であり、国広説を信じる人間が少なかったからと考えられる。ともすれば「信じない」であればまだいい方で、国広説の存在自体広く知られていなかった可能性もある。
 刀剣男士・山姥切国広は多くの人に山姥切伝説国広由来説を忘れられたが故に己の山姥切伝説を喪失した。だから山姥を斬った記憶を持たなかったと考えられるのである。
※追記終了

 ではそれを踏まえて、山姥切長義の山姥切逸話の存在自体が忘れられたことなど今の今まであっただろうか?
 筆者は2019年就任なので山姥切長義実装以前のことは寡聞にして知らないが、山姥切国広があれだけ「山姥を斬ったのは本科である」旨の発言をしているのに、「山姥を斬ったのは国広だ」という認識が席捲し、長義の逸話は誤伝だという形ですら言及されず、「山姥切国広の本科」の存在自体が忘れられていたことなどあったのだろうか?

 もちろん山姥切長義が個人的に「号で認識されないこと」を「自身の逸話の喪失」だと捉える、もしくは「自身の逸話が忘れられている」と感じて「号で認識されたい(呼ばれたい)」と必死になる可能性はある。
 しかしそれならば、やはり山姥切長義が重視するべきこととは「山姥を斬ったのは本科の方」と明言してきた写しに突っかかることではなく、審神者に向けて自身の山姥切伝説をアピールし、周知することなのではないだろうか?
 広報が下手な山姥切国広ですら「写しは偽物ではない」と再三主張しているのに、なぜ山姥切長義はやらないのだろう。

 だが先に述べたように、山姥切長義は審神者に向けては刀帳説明と入手台詞ぐらいでしか「本歌山姥切」というフレーズを出していない。プライド高い性格だと人に弱みを見せられないとはいうものの、山姥切国広に対するのと同じくらいの熱量で審神者に対して訴える(必ずしも口調をきつくする必要はない)べきなのに、自分のアイデンティティの危機に対してあまりにも悠長すぎないだろうか?
 やはりここでも主張と行動がチグハグだと言わざるを得ないのである。


 以上を要約すると、
「「山姥切と認識されるべきは俺」というなら審神者に対してアクションを取るべきなのに、なぜか山姥切国広に矛先を向けている上、発言内容は見当違いであると言わざるを得ない」
 ということになる。

 本来物申すべき相手にはほとんど何も言わず、当たりが強いということもなく、一方できちんと「山姥を斬ったのは本科である」と明言するなど非らしい非もなければどちらかといえば同じ被害者側とも言える山姥切国広は攻撃する構図は、ともすれば弱いものいじめにも見えてしまう。
 しかし山姥切長義の誇り高い精神性を鑑みれば、弱いものいじめなど例え折れてもやらないことではないだろうか?
 むしろ相手がどれほど立場が上だろうと、それによって自らが不利になろうとも、正論を述べるのが山姥切長義という刀ではないだろうか?
 その山姥切長義が審神者に対しては「山姥切と呼べ」とすら言わないのはどう考えても不自然である。
 また理知的な刀である彼が、どんなに感情的になっているとしても自分が訴えかけるべき相手を見誤ったままというのも考えにくい。

 そんな山姥切長義の精神性と能力への期待と信頼を踏まえて、彼の山姥切国広に対する発言の真意とはなんなのか考えてみた。


(3)山姥切長義の真意とは

 (2)で不満の矛先が審神者ではなく山姥切国広に向いているのは奇妙と論じたが、このままこれが正しいとすると山姥切長義が事実誤認しているか性格が悪いかという結論になってしまう。
 そこで一度見方を変えて「矛先が山姥切国広に向いているのは正しい」と仮定してみようと考えた。主張に対して行動に矛盾があるならその逆。つまり行動は正しく、行動と矛盾がある『『山姥切』と認識されるべきは俺』という主張は嘘ではないにしろ真意ではない、という考え方である。

 なぜなら刀剣男士は皆が皆、本心と発言が一致しているとは限らないからだ。
 例えば、鴬丸は特では『他人がなんて言うかなんかどうでもいい、それを伝えられたらと思っていた』(特・ログイン(読み込み中))と言っていたにも関わらず、修行の手紙で「他人の言うことを気にしていたのは他ならぬ鴬丸だった」と判明する。鴬丸・特が発言してきたことは、そのまま彼の本心ではなかったのだ。
 鶯丸・極は『本気も本音も、出すのは好きではないが!』(極・会心の一撃)と言う。本音を言わずにいたために、本人すら気付かないところに本心があったということだ。
 そういう刀剣男士もいるのだから、山姥切長義だって言っていることがそのまま本心とは限らない。むしろ「プライドが高い」という性格は往々にして、自分にとって不都合なことは隠しがちになるのではないだろうか?


 以上を踏まえ、「山姥切長義の矛先が山姥切国広に向いているのは正しい」という仮定を検証してみる。
 この仮定はつまり、山姥切長義の真意は「審神者(を始めとした第三者)に対しては言う必要がないが、山姥切国広に対しては言わなければならないこと」にあるということである。


 検証に先立ちまず着目したのは「そもそも山姥切長義が最も主張したいことはなにか?」である。
 この主張とはキャラクターの性格的特徴・設定・行動動機などを表す台詞のことだ。
 例えば(2)で挙げたように、山姥切国広は写しに関すること、蜂須賀虎徹は虎徹の真贋に関することが台詞の大半を占める。この要素が彼らのキャラクター造形の主要素、刀剣男士としての核となる物語であることは間違いないだろう。
 三日月宗近の台詞はキャラクター設定文にもある(爺くさい)マイペースさを感じさせる台詞と歴史の守護について言及する台詞で構成されているし、次郎太刀は飲酒に関連する台詞がほとんどである。
 つまりは各刀剣男士の台詞群の中で最も多くの分量を占める事柄が、その刀剣男士のキャラクター性の核になる要素であるということだ。

 では山姥切長義の台詞群の中で最も言及されている事柄は何か?と考えてみると、一言で言うなら「己の優秀さ」である。

『いいのかな? 隊長の見せ場まで奪ってしまうかもしれない』(特・結成(入隊))
『では行こう。敵に死を与えるために』(出陣)
『待たせたな。お前たちの死が来たぞ』(特・開戦(出陣))
『っはは。では、俺の戦いを見せてくるか』(特・開戦(演練))
『ははっ、皆の見せ場を取ってしまったかな?』(特・勝利MVP)
『弱い刀には修行が必要。そういうことかな』(特・修行見送り)
『心配しているのかな? そんな必要はないけどね』(特・お守り装備)
『さて、これで四周年。俺が来たからには、もう何も心配はいらない』(特・刀剣乱舞四周年)
『七周年か……。この戦いがここまで続くとは。いや、心配は無用だ。そのために俺がいるんだ』(特・刀剣乱舞七周年)

 これは公式Twitterの紹介にもある『美しいが高慢』そのままである。
 美しい=(美術的に)優れた刀である。それ故に時に高慢なほどプライドが高い。それを表す台詞が山姥切長義の台詞の大部分を占める。
 つまり、山姥切長義にとって最も重要な己のアピールポイントは「優秀さ」なのである。
 これが彼の高いプライドの源泉でもあるわけだ。

 また以下の台詞から、山姥切長義はそのプライドの高さ故に他責的になる傾向があると考えられる。

『畑が、俺を嫌っている』(特・内番(畑当番))
『小吉……だと? それしか入っていないんじゃないか』(特・おみくじ(小吉))
『俺の仕事ではない……かな』『……向いてない』『……飽きた』『やめだ』(特・刀装作成失敗)

 内番台詞は馬当番も開始・終了共に非常に不服そうであることからも、畑仕事は嫌い・やりたくないと思っていることが分かる。
 だが山姥切長義は「畑仕事は嫌い・やりたくない」などと正直に言おうとしない。「畑が俺を嫌っている」のだとまるで畑に責任があるかのようなことを言う。
 またおみくじについても同様である。自分に運がなかったのではなく、小吉しか入っていないのではないかとおみくじシステム自体のせいにしているのだ。
 なお中吉では『……中吉。まあ、こんなこともある』(特・おみくじ(中吉))と言うが、この台詞も若干不本意そうである。プライドが高い故の完璧主義と言えそうだ。
 刀装作成では「自分向きではない」「飽きた」と向き不向きや気分の問題にしようとしている。ここでも自分の失敗以外に理由を求めようとしていることが分かる(無論、こういったリアクションを取るのは山姥切長義に限ったことではないが)。

 もちろん山姥切長義は何でもかんでも他者のせいにするような身勝手な刀ではない。
 むしろ『采配のせいにしても、始まらない……』(特・本丸(負傷時))という台詞が指すように、ノブレス・オブリージュ精神の発露として相手の失敗を鷹揚に許すこともできる(多少、口振りに不満は滲んではいるが)。

 しかしプライドの高さ故に、自らの優秀さ・完璧さの瑕疵となり得るようなことはどんな些細なことでも認められないと考えることは、山姥切長義のこの他の台詞から窺えるキャラクター性と矛盾しないだろう。
 この気質の最たるものが破壊台詞である。

『く……そ……くそ……くそっくそっくそ……!どうして……俺がっ……!』(特・破壊)

 台詞を聞けば分かるが、口調も含めて信じられないと言いたげな、絵に描いたように見事な悔しがり方である。
 敗北とはすなわち己の優秀さに傷をつけられたということだから、力及ばず負けて折れるなど、山姥切長義からしてみれば絶対に認められないことだろう。
 このように山姥切長義はそのプライド故に、己の優秀さに傷をつけられることを何よりも厭うと考えられるのである。

 この山姥切長義の性格的特徴に基づいて考えると、一つの仮説が考えられる。
 それは「もし自分より優れた刀が現れたら、自分のプライドを守るためにその相手の優秀さを絶対に認めないのではないか?」ということだ。
 この場合「自分より優れている」というのは誰が相手でもというわけではない。敗北感や劣等感に繋がるような、自らと比較対象になる相手との実力差である。
 例え格上であっても自分から遠い存在であれば気にならないが、身近な存在ほど気になってしまうというのはよくあることだろう。

 そしてその「自らと比較対象になり得る相手」かつ「絶対に認められない自分より優れた刀」こそが山姥切国広で、「山姥切長義が敗北感を覚える山姥切国広の優れた点」の一つが「(キャラクター人気に由来する)知名度」なのではないだろうか?


(4)写しへのコンプレックス

 山姥切長義が己を上回る山姥切国広の優秀さを目の当たりにすると心中穏やかでいられないことが窺える台詞がある。
 内番手合わせ特殊会話である。

(開始時)
山姥切長義『いい機会だ。本物の太刀筋を教えてあげるよ、偽物くん』
山姥切国広『痛い目を見るのはどちらの方かな?』
(完了時)
山姥切国広『ここらでやめておこう。あくまでも訓練だ』
山姥切長義『……ああ、そうだな。有意義な時間を過ごさせてもらったよ』
(内番(手合わせ)特殊会話・山姥切国広・極ver.)

 会話の流れから『本物の太刀筋を教えてあげるよ』と意気込んで手合わせを始めたものの、山姥切国広・極が優勢で終わったと推察できる。
 それを受けての山姥切長義の台詞は、実際に聞くと分かるがどうにか平静を装おうとしているものの開始時にあった余裕がなく、悔しさが駄々もれているものである。

 一方で山姥切国広・特の方の内番手合わせ特殊会話は以下の通りである。

(開始時)
山姥切長義『いい機会だ。本物の太刀筋を教えてあげるよ、偽物くん』
山姥切国広『……写しは、偽物とは違う』
(完了時)
山姥切国広『……折る気か』
山姥切長義『実戦さながらの訓練って大事だろう?』
(内番(手合わせ)特殊会話・山姥切国広・特ver.)

 こちらは会話の流れから、山姥切長義が優勢で終わったと推察される。
 それを受けての山姥切長義の台詞はいつものように余裕で得意げであるものだ。
 以上から、山姥切国広が自分より優れているのは、山姥切長義にとって地雷なのではないかと考えられるのである。


 そしてこの手合わせの構図は山姥切回想とも重なってくる。

山姥切長義『やあ、偽物くん』
山姥切国広『……写しは、偽物とは違う』
山姥切長義『俺を差し置いて『山姥切』の名で、顔を売っているんだろう?』
山姥切国広『……そんなことは』
山姥切長義『でもそれは、仕方がないか。だって、ここには俺が居なかったんだから』
山姥切国広『……それは』
山姥切長義『俺が居る以上、『山姥切』と認識されるべきは俺だ。そのことを教えてあげようと思っただけだよ』
(回想・其の56『ふたつの山姥切』)

山姥切長義『やあ、偽物くん』
山姥切国広『……写しは、偽物とは違う』
山姥切長義『俺を差し置いて『山姥切』の名で、顔を売っているんだろう?』
山姥切国広『……名は、俺たちの物語のひとつでしかない』
山姥切長義『……なに?』
山姥切国広『俺たちが何によって形作られたのか。それを知ることで強くもなれる。けれど、もっと大切なことがあるのだと思う……』
山姥切長義『……なにを偉そうに語ってるんだよ』
山姥切国広『お前とこうして向き合うことで、またひとつわかった気がしたんだ……』
山姥切長義『俺が居る以上、『山姥切』と認識されるべきは俺だ! お前が御託を並べようと、それは変わらない』
山姥切国広『そうかもしれない。……すまんな、俺もまだ考えている。……こうして戦いながら』
山姥切国広『……また話をしよう』
山姥切長義『…………』
山姥切長義『……くそっ……くそっくそっくそっ! なんなんだよ!』
(回想・其の57『ふたつの山姥切』)

 山姥切国広・特が口ごもるばかりの其の56では、山姥切長義は苛立ちこそ見せつつも終始余裕のある態度を崩さない
 しかし山姥切国広が極の其の57では余裕があったのは最初の方だけで、どんどんと冷静さを欠いていく様子が見てとれる。山姥切国広の発言の「内容」が気に食わなかったにしては、「偉そうに」や「御託を並べようと」といった「話し方」に対する文句ばかりで、肝心の内容に対する反論が全くできていない。南泉一文字には何を言われても即座に切り替えしていた山姥切長義が、である。
 極めつけはこの台詞、

『……くそっ……くそっくそっくそっ! なんなんだよ!』(回想・其の57『ふたつの山姥切』・一部抜粋)
『く……そ……くそ……くそっくそっくそ……!どうして……俺がっ……!』(特・破壊)

 回想・其の57での山姥切長義は信じられないと言いたげな、絵に描いたように見事な悔しがり方をしている。苦しそうか否かが違うだけで、破壊台詞と全く同じ悔しがり方なのだ。
 立ち去った山姥切国広に対し、言い返すことも呼び止めることも追うこともせず、その場で敗北した時と同じくらいの熱量で悔しがる。
 つまり山姥切長義にとって、この回想でのやり取りはぐうの音も出ない"負け"だったと言えないだろうか。

『俺が居る以上、『山姥切』と認識されるべきは俺だ。そのことを教えてあげようと思っただけだよ』(回想・其の56『ふたつの山姥切』・一部抜粋)
『俺が居る以上、『山姥切』と認識されるべきは俺だ! お前が御託を並べようと、それは変わらない』(回想・其の57『ふたつの山姥切』・一部抜粋)

 回想・其の56において、山姥切長義は『教えてあげようと思った』と発言する。何を? 「『俺が居る以上、『山姥切』と認識されるべきは俺だ』=俺の方がオリジナル山姥切だ」ということをである。
 これはつまり山姥切長義はこの回想で山姥切国広に喧嘩を売り、それに勝って自分の優位を示そうと思っていたのではないだろうか。
 手合わせでそうしたのと同じように、己のプライドにかけて、「本歌である俺の方がオリジナルだ=お前より上だ」と思い知らせたかったのである。
 そしてその目論見は、口ごもることしかできない山姥切国広・特に対しては成功した。

 しかし山姥切国広・極は、「山姥切」を巡ってどうこうという段階にいなかった。修行を通して「国広第一の傑作」「主の刀」であることを最も大事なことと位置付けた彼にとって、山姥切長義が仕掛けた「山姥切の名を巡る勝負」は乗る必要など全くないものなのである。
 また山姥切国広は修行で山姥切伝説が曖昧なことをすでに知っている。ならば『山姥切と認識されるべきは俺だ』という本歌の主張に対し、「山姥切伝説は二つあるのだから、お前だけが山姥切と認識されるべきとは限らないぞ」ときっぱり否定することもできたはずだ。
 しかし山姥切国広はそうせず、『そうかもしれない』と返すだけに留めた。
 「自分すら衝撃を受けた真実をあっさり明かしていいものか」という迷いもあったのかもしれないが、揺るがないアイデンティティを手に入れた山姥切国広は山姥切長義の考え方を無闇矢鱈と否定しようとは思わなかったのだろう。

山姥切国広『まだ、色々と秘密を抱えているようだな、三日月宗近。だが……』
山姥切国広『それも、三日月宗近の物語なんだろう?』
山姥切国広『ならばそれも、俺の守りたいものだ』
(大侵寇・其の120『決戦 勝利』・一部抜粋)
 
山姥切国広 極『三日月宗近、無理に話せとは言わない』
山姥切国広 極『それが、三日月宗近の物語ならば……それは、この本丸の物語だ』
山姥切国広 極『そして……、俺の守りたいもの』
(大侵寇・其の122『決戦 勝利』・一部抜粋)

 山姥切国広は、それが理不尽なものでない限り、自分の考えに反するものであっても相手にああしろこうしろとは求めない。求めない代わりに、自分がしたいと思ったことを例え何を言われてもやるぞと心に決める刀である。
 だから山姥切国広・極は山姥切長義の言うことを否定しない。そんなことをしなくても「俺は俺だ」と分かっているのだから、焦らず考えを整理して、またゆっくり話でもすればいい(それでまた考え方が決裂したらその時はその時である)。そう考えたのだろう。

 しかし一方で、山姥切長義は山姥切伝説が曖昧であることを(おそらく)知らない(※追記を後述)。
 そんな彼からすれば、山姥切国広は理解できない理由で勝負の土俵にすら上がってこなかったばかりか、精神的余裕という点でも圧倒的な差を見せつけていったのである。
 「なんだかよく分からないが負けた」という事実は、プライド高い山姥切長義にとってこれ以上ないほど屈辱的なことであり、だからこそ破壊された時と同じように悔しがるのではないだろうか?


 もちろんここで山姥切国広が言葉を選んで自分の考えを説明すればもっと穏当に相互理解を得られた可能性はなくはない。
 しかし山姥切国広はどうにも口下手のきらいがあるようで、思考量の割に過程をすっ飛ばして結論だけ口にしがちである。修行の手紙一通目やこの回想がまさにそうだし、特の時の自虐台詞だってそうだ。結論とその理由のうち、理由だけが発言から欠落しがちである。
 一方で山姥切長義は南泉一文字との回想がまさにそうであるように、流暢に喋る上に600年の付き合いがある相手にすらマウントを取るような、いわばひねくれた性格の持ち主である。
 口下手だが感情表現や意見表明において素直な山姥切国広とコミュニケーション文法がまるで違うため、背景事情の共有がなされていないことも相まって全く会話が噛み合わず、解決に向かうことができなかったのである。
 性格の相性という点でも山姥切国広と山姥切長義は水と油で、それが事態をややこしくしている一因なのかもしれない


 以上より、山姥切長義にとって「山姥切国広に負けること」は冷静さを失うほど許しがたいことなのではないかと考えられる。
 であれば「山姥切国広が山姥切長義よりも有名になったこと(いわば人気キャラクターであること)」はすなわち、「本歌である自分が負けた」状態であり、写しが自らの優位性を脅かす存在になったということではないだろうか。
 故に自分のプライドを守るため、攻撃的な言動でマウントを取り、写しに対する自分の優位性を確保しようとした
 というのが、山姥切回想における山姥切長義の真意なのではないだろうか?


 これを踏まえると、審神者に対して『山姥切』に関する主張がほとんど見られないことも納得できる。
 これはいわば「自分より優れている山姥切国広に対するコンプレックス」に由来する言動であり、第三者に矛先を向けるものではないからだ。
 山姥切回想で話している内容の脇が甘いのも「偽物くん」と呼んでいるのも、自分の正当性を主張するためではなく、揶揄のためにわざと悪しざまに語っているから。つまりは客観的な正しさよりも、山姥切国広をやりこめるにあたって最も効率的で効果的な言葉を追求した結果なのではないだろうか?
 山姥切国広はお世辞にも議論が得意とは言えないのだから、必要なのは持論の隙の無さよりも「いかに強く出て相手を黙らせるか」なのである。

 そしてもしこの通りならば、山姥切長義にとって審神者や他の刀剣男士のことは眼中にないと言っていい。客観的な正当性を必要としないということは、第三者の目などどうでもいいということだからである。むしろ、自分のコンプレックスのために適当な理由で周りを言いくるめて味方に付けようとしないあたり、正々堂々としていて山姥切長義らしいではないか(嫌味を言うのは正々堂々とは言い難いにせよ)。

 山姥切認識はあくまで「写しが本歌より優れている事例」であって、事の本質ではない。もちろん「山姥切と認識されたい」のは嘘ではないだろうが、それが彼の言動の本旨ではない。
 山姥切長義は決して不満をぶつける相手を誤っているのではなく、正しく「嫉妬」しているのである。

※2023年6月8日追記
 本文では「山姥切長義は山姥切伝説が曖昧であることを(おそらく)知らない」と記載したが、山姥切長義が山姥切伝説をどう認識しているかについては原作中に確定打となる発言が見当たらない(複数の解釈が可能である)ため推測にはなるが、二つの可能性が考えられる。
 「山姥切国広と同じく全く知らない」「薄々勘付いているが(自身の記憶と矛盾するので)否定している」の二点である。

 「知っている」可能性はないだろうと思われる。というのも、もし山姥切長義が山姥切伝説の曖昧さを知っているのであれば、自身に山姥切伝説はない可能性があるにも関わらず、山姥切国広に対する「偽物くん」「山姥切と認識されるべきは俺だ(回想・其の56・57『ふたつの山姥切』・一部抜粋)」や、南泉一文字に対する「それはやっぱり斬ったものの格の差かな? わかるよ、猫と山姥ではね(回想・其の55『猫斬りと山姥切』・一部抜粋)」といった発言をしているということになるからだ。
 山姥切長義がいかに高慢な性格だとしても、根拠が怪しいことを利用して山姥切国広や南泉一文字にマウントを取ろうとするだろうか? もし根拠が怪しいのにこうした言動を取っているとしたら、いくらなんでも(キャラクターとして)格好悪すぎないだろうか?
 これは印象の話ではあるが、山姥切長義は口は悪くとも嘘は言わない。高圧的な態度の是非はともかくとしても、高圧的な態度を取るだけの(少なくとも山姥切長義の主観での)根拠があるからではないだろうか?

 以上より、山姥切長義の山姥切伝説に対する認識は「山姥切国広と同じく全く知らない」「薄々勘付いているが否定している」の二点のいずれかであろうと推測する。
 このうち可能性が高そうなのは、本項の記述とは矛盾するが、「薄々勘付いているが否定している」ではないかと思われる。これはメタ的な話だが、「山姥切国広と同じく全く知らない」だと山姥切国広とネタ被りしてしまうからである。
 更にその他の根拠として、今剣と岩融はどちらも非実在・創作発の刀剣男士であるが、自身が創作上の刀だと知らなかった(少なくとも知っているとは言わない)今剣に対して、岩融は「薄々感づいていたことではある(手紙三通目・一部抜粋)」と発言していることが挙げられる。今剣・岩融がこのように差別化しているのであれば、山姥切国広・山姥切長義も同様の差別化を行う可能性はないだろうか。
 また刀剣乱舞の世界観に則るならば、岩融が自身のことについて薄々勘付いているのは「今剣が創作生まれなら、岩融も創作生まれだろう」という認識が広まっているからということもできる。
 刀剣男士の認識は大勢の人間がその刀をどう認識しているかによって左右される。故に一文字則宗は「沖田総司が菊一文字を持っていたというは司馬遼太郎の創作」であることが非常に有名であるが故に、「沖田総司佩刀の物語は作り話である」と自覚した状態で顕現したのだろうし、山姥切長義は刀剣界で長らく「山姥切という号は本歌の長義に付けられたもの」という説が定説として信じられてきたが故に「山姥切」として顕現してくる。
 ならば山姥切国広極実装後に実装された山姥切長義は、山姥切国広の修行の手紙で「山姥切伝説は曖昧だ」という認識が広まっているが故に、岩融と同じように「薄々勘付いている」のかもしれないと考えられるのである。


(5)「偽物くん」呼びの意図

 山姥切回想における山姥切長義の発言が嫉妬心から来るマウント行為だとするなら、「偽物くん」という呼称の意図は明白である。
 「偽物」が山姥切国広最大の地雷ワードだから、マウントを取るためにあえてそのワードを使っているのである。

 「偽物くん」に類似したあだ名として、南泉一文字に対する「猫殺しくん」がある。
 この「偽物くん」と「猫殺しくん」は全く同じ「事実に対して不正確かつ誤解を助長するため当人が嫌がっているあだ名」である。

 山姥切長義と南泉一文字の関係は一般に腐れ縁だと解釈される。
 回想を見てもいわゆる仲良しではないが、一触即発というほど険悪そうでもない。来歴も同じ尾張徳川家に伝来というだけで確執にあたるようなエピソードはない。南泉一文字は台詞や他の回想を見ても「ちょっと苦労人気質の気のいい奴」であるので、性格面で山姥切長義に嫌われるようなことをしているとも考えられない(むしろ山姥切長義は回想での口調を聞く限り、何を言っても言い返してくれる南泉一文字を気に入っているように見える)。

 そんな相手を山姥切長義は猫殺しくんと呼んでいるわけであるが、南泉一文字の逸話から見て「猫殺し」というあだ名は不正確である。
 南泉一文字の猫斬りに関する逸話は「刀工に研ぎに出した際、壁に立てかけてあったこの刀に猫が触れてしまい、真っ二つに切れた」というものだ。
 これについて南泉一文字は修行の手紙でこう言及している。

『だいたい、オレが猫の呪いを受けるってのが理不尽だと思わねぇか?
猫の野郎が勝手に跳びかかって刃に触れ、真っ二つになったって。
教学のために猫を斬った南泉和尚とは全然状況が違うだろ。
だというのに猫つながりで盛られた結果が、これか。』(手紙一通目・一部抜粋)

 南泉一文字の猫斬り逸話は過失割合0対10で猫の方が悪い事故である。それが禅問答のために猫を一刀両断にしたという公案・南泉斬猫と結びつけられた結果、「罪のない猫を斬ったなら祟られるよね」という連想ゲームが猫の呪いとなっているのである。
 つまり「猫『殺し』」という能動的な表現は南泉一文字の猫斬り逸話に対して不正確である上に、南泉斬猫を通じて猫の呪いに至る厄介な連想ゲームを故意に助長するネーミングなのだ。
 だから南泉一文字は『……うるせぇ。見知った顔でも、お前には会いたくなかったよ』『そういう性格だからだ……にゃ!』(回想・其の55『猫斬りと山姥切』・一部抜粋)と嫌がっているのではないだろうか。
 山姥切長義はこういった「逸話に対して不正確かつ誤解を助長するあだ名」を「本人が嫌がっているにも関わらずわざと」、「長年付き合いのある特別確執のない相手」に対して嬉々として言ってしまう性格なのだ。

 そして長年付き合いのある特別確執もない相手に対してもこうなのだから、山姥切国広に対するあだ名も同じ、「逸話に対して不正確かつ誤解を助長するあだ名」を「本人が嫌がっているにも関わらずわざと」使っているものだと考えられるだろう。
 ただ南泉一文字に向けるのとは違い、そのあだ名を使うのは「自分の優位性を確保するために写しを攻撃する」意図が含まれていると考えられる。
 「猫殺しくん」は本人が嫌がっているとはいえ南泉斬猫というれっきとした南泉一文字の物語の一部に由来するあだ名だが、「偽物くん」は事実無根の偏見に基づくあだ名だからである。


(6)「本歌」というアイデンティティと強迫観念

 さて、山姥切長義が山姥切国広に対し嫉妬しているからとしたが、ここまで拗れているのは彼のプライドの高さだけが原因ではないだろう。

※2022年11月27日 修正
 山姥切国広と山姥切長義は「山姥切伝説は長義のものと国広のもの二つの説があるが、後に『山姥を斬った伝説を持つ山姥切という長義作の刀があり、その写しは本歌の号を取って山姥切国広と名付けられた』という説が定説となった」という逸話から生まれた刀剣男士である。
※修正ここまで
 山姥切国広の修行の手紙で山姥切伝説が二つあることが明かされているのだから、それぞれの山姥切伝説を元に刀剣男士として成立していてもおかしくないのだが、そうではなく同じ逸話を元に成立している。
 ということは、山姥切国広に影響を与えている物語は山姥切長義にも同様に影響を与えるのではないかと仮定できないだろうか。

 山姥切国広は「写しは偽物」という偏見に振り回され悩んでいる刀剣男士である。
 であれば山姥切長義はその逆で、「本歌は写しより優れているもの」という思想に縛られている可能性はないだろうか。
 「写しは偽物」とはすなわち「オリジナル(本歌)の方が価値がある」という意味であるし、「写しは本歌を越えられない」という考え方もあるらしい。それに影響されたとしてもおかしくはないだろう。

 また山姥切長義はオリジナル山姥切なのだから「俺こそが長義が打った山姥切」という名乗りでもいいところ、「俺こそが本歌山姥切」と写しに対する存在であることを強く意識した台詞を口にする。
 山姥切国広という写しの“本歌”であることが山姥切長義のアイデンティティに深く根差しているのなら、「本歌だからこうでなければならない」という意識が強くてもおかしくない。


 山姥切長義は山姥切国広を「偽物くん」と威圧するが、もしこれが写しに対して優位性を示したいが故の行動なら、あだ名は「写しくん」でもよかったはずだ。山姥切国広が写しなのは事実であるし、山姥切国広・特は写しであることを気にしているのだから、これだけでも十分嫌味で高圧的である。
 しかし山姥切長義は「写しくん」ではなく「偽物くん」という山姥切国広がより嫌がる表現を選んだ。主張の正当性を捨てて攻撃性を取るその姿はどこか強迫観念めいているように思えてならない。
 よって、山姥切国広が「写しは偽物」という考え方に囚われ追い詰められて過度な卑屈を披露しているように、山姥切長義は「本歌は写しより優れていなければならない」に囚われすぎて「写しより優れていなければ本歌山姥切としての存在意義に関わる」とまで(おそらく無意識に)思い詰めているのではないだろうか。
 これは山姥切長義の台詞群の中で最も言及されている事柄が「己の優秀さ」であることと矛盾しない。
 むしろ「写しより優れていなければ本歌ではない」からこそ、あんなにも自らの優秀さをアピールしていると考えられるのである。

 一文字則宗によれば、刀剣男士の強さとは「愛」である。「作り話であろうと、その話を付け加えたかった者がいた」――すなわち人間が刀に物語を与えることが一文字則宗の言うところの愛であり、故に物語を礎とする刀剣男士は愛こそが強さに繋がるのである。
 一方で、「愛こそが刀剣男士を縛る鎖」である。人間に与えられた物語から生まれた刀剣男士は自らの礎である物語に「そうあれ」と強いられる。要は、元ネタとなった逸話やそれを元に作者(刀剣乱舞公式)がつけた設定に沿った言動しかしないということである(設定・キャラクター性・キャラクターの一貫性と言われるものである)。
 そして、刀剣男士の物語には大衆が持つイメージ(いわゆるミーム)も反映される。南泉一文字の猫の呪い(猫は執念深く、祟る生き物である)なんてまさにそうだろう。

 つまりは山姥切長義に対し、本歌山姥切なのだから優れた刀であれ。間違いのない刀であれ。完璧であれと人間が思えば思うほど、写しよりも優れた存在でいなければと思い詰め、焦り、盲目的になって、障害となる「自分より優秀な写し」に対して攻撃的になる。
 場合によっては自分が優れていることを示すため、今の自分の身の丈に合わないことにまで手を出して必然的に失敗する、ということもあるだろう。回想・其の57で、山姥切国広・極に売った喧嘩をかわされた挙句なにも言い返せなかったように。
 それこそが人間が山姥切長義を縛る“愛という鎖”。南泉一文字の評を借りるなら物語という“呪い”である。
 そして、山姥切国広・特が「写しは偽物」に振り回されるあまり己に卑屈という呪いを掛けていたように、物語に縛られるまま写しを攻撃する山姥切長義は「本歌は写しより優れていなければならない」という呪いを自分自身に掛け続けているとも言えるだろう。


 更に、彼らの関係性を示すものとして欠かせない「伯仲の出来」というフレーズがある。

 特命調査・聚楽第では山姥切長義(監査官)が山姥切国広をずっと観察している様子が回想にて描かれているが、その最後に山姥切国広が一定の実力を示すことを期待する台詞がある

『……実力を示せ』
『がっかりさせるな』
(特命調査 聚楽第 其の17・18共通 『監査官と写し 聚楽第内部』・一部抜粋)

 山姥切長義は山姥切国広に実力に欠ける刀であってくれるなと考えているのだ。
 山姥切国広は本歌と伯仲の出来と謳われる刀である。それはつまり山姥切国広が弱い刀であった場合、イコール本歌の山姥切長義も弱い刀であるということになってしまう。そんなことは山姥切長義の名誉とプライドにかけて許容できることではないのではないだろうか?
 だから写しに弱い刀であってほしくない、俺と同等の実力を示せと考えた結果が特命調査・聚楽第での言動であると考えられる。


 これらを総合すると、山姥切長義は「山姥切国広には己と対等の実力を備えていてほしい。でも自分の方が優位でいたい」という実にアンビバレントな心理状態にあるということになる。
 この矛盾した欲求を抱えた状態で、「山姥切国広が自分より優れている」という「本歌は写しより優れていなければならない」と「伯仲の出来」両方に反する事実に直面したが故の動揺、そして「本歌だから優れていなければならない」という己の物語に由来する強迫観念があったせいで、山姥切回想のような攻撃的で感情的な言動を取ってしまったのではないだろうか。


 これを前提とするならば、山姥切長義の「嫉妬」の原因になるものは世間的な人気と知名度だけに止まらない。
 山姥切国広のレベル(剣の腕前)、精神的な強さ、審神者や他の刀剣男士からの信頼、これまでの戦や本丸内政での功績。それらが自らより優れているのなら同じように嫉妬するだろう。
 極論を言えば例え審神者や他の刀剣男士が山姥切長義を「山姥切」と呼び、山姥切国広をそう呼ばなくなったとしても、レベルや信頼度といったなにがしかの点で写しが自分より上にいると感じればあの態度は変わらないだろう。
 逆に山姥切国広を全く育てていない本丸であっても、山姥切国広の方が山姥切長義より遅く顕現した本丸であっても、世間的な人気や知名度は特定の個体だけのものではないからやはり同じ態度を取るだろう。
 両名の実装時期の差とその間に培われた山姥切国広の人気と知名度がある限り、現状どんな本丸であっても、山姥切国広と山姥切長義が揃った時点で衝突は不可避なのである。それこそ過去を変えない限り。

 もしくは山姥切長義が変わらない限り。


(7)化け物の心

 以上に従うならば、「本歌山姥切」であることは山姥切長義の誇り高さを支えている一方で、写しへの嫉妬心(コンプレックス)というマイナスな感情をもたらしていることになる。
 山姥切長義の高慢な性格を指して『化け物斬ったお前は心が化け物になった』(回想・其の55『猫斬りと山姥切』・一部抜粋)と表現した南泉一文字は、彼のこういったマイナス面を見抜いていたのではないだろうか。

山姥切長義『おや、猫殺しくん』
南泉一文字『……うるせぇ。見知った顔でも、お前には会いたくなかったよ』
山姥切長義『へぇ、それはやっぱり斬ったものの格の差かな? わかるよ、猫と山姥ではね』
南泉一文字『そういう性格だからだ……にゃ! ……あぁ、そうか。お前も呪いを受けてたんだにゃ?』
山姥切長義『呪い? 悪いがそういうのとは無縁かな。なにせ、化け物も斬る刀だからね』
南泉一文字『猫斬ったオレがこうなったみたいに、化け物斬ったお前は心が化け物になったってこと……にゃ!』
山姥切長義『語尾が猫になったまま凄まれても……可愛いだけだよ』
(回想・其の55『猫斬りと山姥切』)

 「化け物斬ったお前は心が化け物になった」ということは、山姥切長義の心は山姥と化しているということになる。
 では山姥とはなんぞや。

 山姥切長義の山姥切伝説は「信州戸隠山中で山姥なる化け物を退治した」というものだ。同じ戸隠山を舞台にした作品に「能 紅葉狩」があるが、この作品はこの戸隠山を訪れた平維茂が山中で出会った美女の誘いで酒宴に参加したが、実は美女の正体は鬼であり、平維茂は死闘の末、鬼を切り伏せたという筋書きである。
(参考 https://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_014.html
 また、山姥切国広の山姥切伝説は「信州へ行く途中、小諸において妊娠中の妻が産気づいたため山中のあばら屋に住む老婆に預けたところ、留守の間に産み落とされた嬰児を老婆が食べていたため、その老婆(山姥)を退治した」というものである。
 つまり山姥切伝説における山姥とは、人を襲う鬼女としての山姥なのである。

 そんな山姥をテーマとした作品に「能 山姥」がある。
 「能 山姥」は「山姥の山巡りの曲舞を演じたことから百ま山姥という異名で人気を博した遊女が参詣のために旅をしていたところ、信濃国に向かう途中の山の中で急に日が暮れてしまい途方に暮れる。するとそこに年嵩の女が現れ、一夜の宿を貸そうと申し出てきたので案内を受けたところ、女は己こそが真の山姥であることを明かし、自分を題材にして遊女が名声を得た山姥の曲舞を一節謡ってほしいと要求する。夜更けになって遊女らが舞曲を奏でつつ待っていると山姥が異形の姿を現し、深山幽谷に日々を送る山姥の境涯を語り、仏法の深遠な哲理を説き、さらに真の山廻りの様子を表して舞ううちにどこかへ消えていなくなってしまった」という作品である。
(参考 https://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_046.html
 どこかで聞いた話と構図が似ているが、その「能 山姥」にて、山姥は「隔つる雲の身をかへ。仮に自性を変化して。一念化生の鬼女となつて。(人間界とを隔てる雲。その雲のように自在な身を変身し、一時的に本性を変化させ、一念によって変化する化生の鬼女となって)」「めぐりめぐりて。輪廻を離れぬ妄執の雲の。塵つもつて山姥となれる。(廻り廻って輪廻を離れず、妄執の塵が積もって山姥となった)」と言われている。
 山姥とは妄執の具現化たる鬼なのだ(なお、この山姥は山野を巡り人を助けたと話す下りや仏教哲理を説く下りもあるため、人食い鬼よりは正しい者に福を授ける山の神としての面を持つ山姥でもある)。

 また、別の話にはなるが髭切の逸話の一つに「渡辺綱が一条戻橋で遭遇した鬼を退治したことから鬼切丸と名付けた」というものがある。この退治された橋姫は嫉妬に狂うあまり鬼と化した女であるという。
 「能 山姥」の山姥は妄執から生まれ、橋姫は嫉妬から生まれた。つまり山姥(鬼女)とは妄執・嫉妬から生まれた化け物なのである。


 南泉一文字は(5)で言及した通り、刀身に触れた猫が真っ二つになった逸話を南泉斬猫に結びつけられたことで、罪のない猫を斬ったなら祟られてもおかしくないよねという連想ゲームからなる猫の呪いに悩まされている刀剣男士である。
 そういった自身の逸話と呪いになぞらえて、山姥→妄執や嫉妬から生まれる山姥(鬼女)→山姥を斬ったことで山姥切長義も妄執や嫉妬の呪いが掛かったと連想したのかもしれない。

 妄執とは「迷いによる執着。成仏を妨げる虚妄の執念(goo辞書)」のこと。ついでに執着とは「一つのことに心をとらわれて、そこから離れられないこと。(goo辞書)」である。
 猫と山姥を引き合いに出し、格が違うとマウントを取ってくる高慢さは、山姥切伝説に拘泥するからこそ表れている欠点ではないだろうか。

 南泉一文字は山姥切長義が抱える山姥切伝説への執着心の存在を見抜いていたのだろう。


(8)素を見せられる相手

 山姥切回想における山姥切長義の発言が写しへの嫉妬心と「本歌」というアイデンティティから来るマウント行為だとして、それが攻撃的な言動であることは間違っていないし、おそらく山姥切長義本人も意識的に攻撃するつもりで発言しているだろうと思われる。
 しかしながら山姥切長義の各種発言を踏まえると、山姥切国広のことを本気で憎んだり嫌ったりしているから「偽物くん」などという地雷ワードを選んでいるのではなく、逆に身内だと思っているからこそこういう言葉選びになってしまうのではないか、と感じるのだ。

 その理由が、再三の登場となるが「猫殺しくん」の存在である。
 これは原作では南泉一文字と山姥切国広、審神者以外に回想や特殊会話、台詞がないため飛躍にはなるが、審神者に対する台詞と南泉一文字に対する台詞の比べると、山姥切長義がこういった相手の地雷を踏むあだ名を南泉一文字に対して使うのは南泉一文字が600年の付き合いの気心知れた身内だからではないだろうか、という推測が立てられるのだ。
 山姥切長義は、審神者に対しては少々毒のあるあだ名で呼んだり斬ったものでマウント取ったり等しない。それは審神者が仮にも主だからであり、自分の主人は一定の礼節を守るべき相手だからだろう。
 しかし南泉一文字に対してはそうではない。それは昔からの付き合いの気心知れた身内相手なら高慢さを発揮しても許されると考えているからではないだろうか? 山姥切長義にとって南泉一文字は遠慮なく素を晒せる相手なのである。

 となれば、山姥切長義が山姥切国広を「偽物くん」と呼ぶのも同様の理由である可能性はないだろうか。
 単に攻撃的に呼び掛けるだけなら敬称をつけず「偽物」でもよかったはずだ。しかしそうせず「偽物『くん』」というあだ名らしいの形で呼んでいる。ここから南泉一文字を「猫殺しくん」と呼ぶのと同じ「身内だからこれくらい言っていいだろう」と甘える気持ちを感じるのである。
 (4)で山姥切長義の主張内容の脇の甘さは「客観的な正しさよりも山姥切国広をやりこめるにあたって最も効率的で効果的な言葉を追求した結果だから」と解釈したが、元々口が悪いからきつい言葉選びになっているだけで、山姥切長義としては「ちょっと嫌味言ってやろう」程度の気持ちなのかもしれない。


 また(6)で言及したように山姥切長義は山姥切国広の実力への期待も見せている。
 自らの評判に関わるからという理由があったとしても、「がっかり」という主観的・感情的な言葉を使うということは他者からの評価と関係なしに山姥切国広に期待しているし、それを裏切られたくないと思っているということだ。
 山姥切国広を本気で憎んだり嫌ったりしているのであれば、こんな台詞は出てこないはずだ。


(9)山姥切長義にとっての山姥切国広とは

 では山姥切長義にとって山姥切国広とはなんなのだろう。

 これまでの解釈は以下の通りである。
・自分より優れた実力を持つことも、逆に実力不足であることも許せない。
・きつい物言いをしても許される近しい相手だと思っている。
・山姥切国広の実力に期待している。

 以上を総合すると「山姥切国広のことは期待する程度には嫌いなわけではないし、むしろ身内だと思っている」が「自分の想定通りに動くべき相手だと思っている(ので、そうでないのが許せない)」ことになる。

 山姥切長義にとって、山姥切国広のことは生んだわけでも育てたわけでもない。言ってしまえば刀工国広が(物相手に許可を求めないのは当然だが)勝手に作ったわけで、いくら本歌写しでセット扱いされていようとも、本来山姥切長義は写しの実力に対して何ら責任はないはずである。
 「伯仲の出来」と評されていようとも、そんなことは俺には関係ないと無視することもできるはずだ。
 それなのに「自分が認める(同等の)実力を備えるべきだが、自分より優れてはならない」という特定の状態にあることを望むのは、相手は自分の思い通りになるべきだという考えがあるからだろう。

 他者に自分の想定通りに動くべしと思うのは、いわば自他境界が曖昧だというとこだ。
 しかも山姥切国広以外には『持てるものこそ、与えなくては』(特・本丸)と寛容さを見せるのに、山姥切国広にだけどうあるべきかを求めるということは、山姥切国広を自らの一部あるいは延長線として捉えているからではないだろうか。

 その理由として考えられるのはやはり、山姥切国広が自分の写しだから。それもただの写しではなく「伯仲の出来」たる写しだからだろう。
 自分と同等の出来映えの写しであるからこそ、山姥切長義はそれを自己の分身と感じた。人間でいえば、「双子の弟」に対する感覚なのかもしれない(なお「伯仲」には「兄と弟(長兄と次兄)」という意味がある)。

 また山姥切長義のノブレス・オブリージュ精神を鑑みると、「写し」「弟」という「自分に属する目下の者」は「己に監督責任がある庇護の対象」であると考えるかもしれない。
 監査の最中であるにも関わらず写しを観察し、発破をかけ、本丸に来てからもわざわざ自分から出向いて色々と文句をつけるのは少々過激な保護者仕草であるとも考えられ、山姥切長義のあの言動は大変屈折した親心からではないかとも取れるのだ。


 しかしこの「自己の一部・あるいは延長線」という捉え方は、山姥切国広の考え方と相容れないものである。
 山姥切国広のアイデンティティは特の頃から「俺は俺だ」――すなわち「俺は本科とは違う存在である」だからだ。

 この思想の違いが如実に表れたのが回想・其の57『ふたつの山姥切』であろう。

山姥切長義『やあ、偽物くん』
山姥切国広『……写しは、偽物とは違う』
山姥切長義『俺を差し置いて『山姥切』の名で、顔を売っているんだろう?』
山姥切国広『……名は、俺たちの物語のひとつでしかない』
山姥切長義『……なに?』
山姥切国広『俺たちが何によって形作られたのか。それを知ることで強くもなれる。けれど、もっと大切なことがあるのだと思う……』
山姥切長義『……なにを偉そうに語ってるんだよ』
山姥切国広『お前とこうして向き合うことで、またひとつわかった気がしたんだ……』
山姥切長義『俺が居る以上、『山姥切』と認識されるべきは俺だ! お前が御託を並べようと、それは変わらない』
山姥切国広『そうかもしれない。……すまんな、俺もまだ考えている。……こうして戦いながら』
山姥切国広『……また話をしよう』
山姥切長義『…………』
山姥切長義『……くそっ……くそっくそっくそっ! なんなんだよ!』
(回想・其の57『ふたつの山姥切』)

 山姥切長義は山姥切という名(≒本歌であること)に並々ならぬこだわりを持っている。
 しかし山姥切国広はそんな本歌に対し、「名前よりももっと大事なことがある」と言ってのけたのだ。
 これはすなわち、「俺とお前では価値観が異なる」という表明に他ならない。
 山姥切国広を己の一部と(おそらく無意識に)感じている山姥切長義からすれば、単に言い返されただけではなく写しとの価値観の違いを目の当たりにした瞬間であり、自分と写しを同一視する考え方を否定された瞬間でもあったわけだ。

 もし山姥切長義の山姥切国広への感情に「屈折した親心」が含まれるならば、山姥切回想における写しへの態度は「自分の庇護下にあったはずの相手がいつの間にか自分を追い越していた」故の典型的な「かわいさ余って憎さ百倍」であり、回想・其の57での山姥切国広・極の発言に対して言い返すこともできず悔しがるしかなかったのは、「自分の庇護下にあったはずの相手がいつの間にか自分を追い越していた上に独り立ちしていた」という衝撃のためだったのかもしれない。


 これは二次創作的な話になるが。
 写しが作られるということは、本歌がそれだけ素晴らしく魅力的な刀であったという証左と言える(実際長義写しは山姥切国広以外にも多数作られている)。
 優れた作品を目にした時、自分もこんな作品を作ってみたいと思うのはプロアマ問わずクリエイターの性の一つと言っていいだろう。
 自らの強さと美しさに高いプライドを持つ山姥切長義にとって、自分の写しが作られるということは自身のプライドを満足させる大変喜ばしい出来事だったのではないだろうか。
 それも作刀を依頼した長尾顕長は山姥切長義(本作長義)に自身の名前と下賜された経緯を記すほど、山姥切長義(本作長義)を所持していたことを誇りに思っていたと考えられている。刀はきちんと手入さえすれば1000年先にだって残る。そこに自分の名を刻めば、消されない限りは1000年先にだって「この刀の持ち主であった」という記録が残る。
 それほど自分を大事にしてくれた主が作刀を命じ、しかも出来上がった作品が後に自分と伯仲の出来と謳われるほどの名刀だった。
 刀工堀川国広は山姥切国広作刀をきっかけに相州伝風の作風に開眼、堀川派の作風を確立したと言われているため、山姥切長義(本作長義)は高いスキルを持っていた刀工に後の作風を決定づけるほどの影響を与えた上に、後に第一の傑作と言われるほどの写しを打たせたと言えるわけだ。
 それも全て、山姥切長義が刀として非常に優れていたからこそ。 
 ならその彼が自身の優秀さの証たる写し・山姥切国広のことを非常に誇らしく、また自身の分身だと感じたり親心のようなものを抱いたりしてしまうほど愛おしく思っていたとしても、おかしくはないだろう。

 そんな自分の分身だと思っていた写しにいつの間にか置いていかれて寂しい――山姥切長義の本心は案外そんなところにあるのかもしれない。


 以上の解釈に従うなら、山姥切長義の山姥切国広への態度とは嫉妬や寂寥であると同時に「庇護感情から来る抑圧」である。
 では「庇護感情から来る抑圧」とは? これは偏見ではあるが、こういった抑圧的態度は毒母のイメージである(実際は毒親のタイプなど様々なのだろうが、やはり毒父はもっと支配者的なイメージである)。

 山姥切長義が斬った山姥は物語によっては「母親」という役割を持つ。
 例えば昔ばなしの金太郎の母親は山姥であるし、公家の姫に仕える乳母が主の病を治すのに必要な生き肝を求めて殺した妊婦が実は生き別れの娘であり、それを知って発狂し人喰い鬼(山姥)になったという物語もある(安達ヶ原の鬼婆)。
 また山姥には恵みを授ける山の神としての側面を持つが、山の神は多産である(母である)というし、恵みを与える神とは一般的に母神のイメージである。
 つまり、山姥を斬った山姥切長義はその呪いにより、「嫉妬」だけでなく母親の負の側面である「庇護感情から来る加害性」を身につけてしまったと言えるのである。

 刀剣男士はミームを纏う存在である。
 例えば南海太郎朝尊の闇のわくわくさん的振る舞いは、刀工由来の逸話である「学者・博士」という言葉がフィクションでお馴染みの「マッドサイエンティスト」のイメージを想起させることから来ているのであろう。
 南泉一文字が「猫を斬ったから呪われた」というのも「猫を殺せば七代祟る」という俗説が元であろうと考えられる。
 であれば南泉一文字に「化け物を斬ったから心が化け物になった」と評される山姥切長義も、山姥の「嫉妬から生まれた化生」と「恐ろしい母親」のミームを纏っているのである。


(10)山姥切国広にとっての山姥切長義とは

 山姥切長義解釈からは外れるが、では逆に山姥切国広にとって山姥切長義とはなんなのだろうか。

 実はこれは山姥切長義ほどはっきりしない。本歌より各本丸で個体差が出やすいと思われる。
 何故なら山姥切長義ほど相手への評価も執着も見えないからである。
 山姥切国広の山姥切長義に関する発言は以下の通りである

『化け物切りの刀そのものならともかく、写しに霊力を期待してどうするんだ?』(特・本丸)
『……ははは。雑用結構。これで山姥切と比較する奴もいなくなるだろ』(特・内番(馬当番))
『泥にまみれていれば、山姥切と比べるなんてできないだろ……』(特・内番(畑当番))

 これは山姥切長義のことに言及してはいるが、発言の趣旨は「第三者からどう見られているか」である。
 山姥切長義のことをどう思っているかはここからは読み取れない。

『写しの俺が、本科の存在感を食ってしまったようなものだ。
どう、受け止めていいかわからない。』(手紙二通目・一部抜粋)
『俺が山姥を斬ったという伝説、本科が山姥を斬ったという伝説、
そのどちらも存在しているんだ。
案外、どちらも山姥を斬ったりなんかしていないのかもな。ははは。』(手紙三通目・一部抜粋)

 修行の手紙二通目では「本科の逸話が俺のものになってしまっている」という動揺が見えるため、本科の逸話に対して一目置いているとも取れなくないが、手紙三通目では曖昧だという事実を知って「案外どちらも斬っていないのかも」とまで言っている。
 特にこだわりも見せず事実と可能性の話に終始しており、山姥切長義をどう思っているかは読み取れない。

 山姥切長義に対する感情が見えるのはやはり回想と手合わせ特殊会話である。

山姥切長義『やあ、偽物くん』
山姥切国広『……写しは、偽物とは違う』
山姥切長義『俺を差し置いて『山姥切』の名で、顔を売っているんだろう?』
山姥切国広『……そんなことは』
山姥切長義『でもそれは、仕方がないか。だって、ここには俺が居なかったんだから』
山姥切国広『……それは』
山姥切長義『俺が居る以上、『山姥切』と認識されるべきは俺だ。そのことを教えてあげようと思っただけだよ』
(回想・其の56『ふたつの山姥切』)

(開始時)
山姥切長義『いい機会だ。本物の太刀筋を教えてあげるよ、偽物くん』
山姥切国広『……写しは、偽物とは違う』
(完了時)
山姥切国広『……折る気か』
山姥切長義『実戦さながらの訓練って大事だろう?』
(内番(手合わせ)特殊会話・山姥切国広・特ver.)

 特では全体的に苦手意識を感じさせるような引け目のある口調である。
 のっけから地雷を踏まれたり折る勢いで打ちかかってこられたりと高圧的な態度を取られるのだから当然ではある。故に、山姥切長義自身に苦手意識があるのか、高圧的な態度を取られたから苦手意識があるのかは判断できない
 対して極ではそんな様子は全くない。

山姥切長義『やあ、偽物くん』
山姥切国広『……写しは、偽物とは違う』
山姥切長義『俺を差し置いて『山姥切』の名で、顔を売っているんだろう?』
山姥切国広『……名は、俺たちの物語のひとつでしかない』
山姥切長義『……なに?』
山姥切国広『俺たちが何によって形作られたのか。それを知ることで強くもなれる。けれど、もっと大切なことがあるのだと思う……』
山姥切長義『……なにを偉そうに語ってるんだよ』
山姥切国広『お前とこうして向き合うことで、またひとつわかった気がしたんだ……』
山姥切長義『俺が居る以上、『山姥切』と認識されるべきは俺だ! お前が御託を並べようと、それは変わらない』
山姥切国広『そうかもしれない。……すまんな、俺もまだ考えている。……こうして戦いながら』
山姥切国広『……また話をしよう』
山姥切長義『…………』
山姥切長義『……くそっ……くそっくそっくそっ! なんなんだよ!』
(回想・其の57『ふたつの山姥切』)

(開始時)
山姥切長義『いい機会だ。本物の太刀筋を教えてあげるよ、偽物くん』
山姥切国広『痛い目を見るのはどちらの方かな?』
(完了時)
山姥切国広『ここらでやめておこう。あくまでも訓練だ』
山姥切長義『……ああ、そうだな。有意義な時間を過ごさせてもらったよ』
(内番(手合わせ)特殊会話・山姥切国広・極ver.)

 極では『また話をしよう』と積極的かつ友好的な態度を見せている。しかも直前まで声を荒げて苛立ちを見せている相手にである。口調は全体的に淡々としており、悪感情は見えない
 一方で感情が滲む一言が手合わせ台詞の『痛い目を見るのはどちらの方かな?』である。
 こちらの台詞は非常に好戦的なものではあるが、口調自体は手合わせに際してとてもワクワクしているように聞こえるものだ。
 悪いニュアンスは感じられず、むしろ「強い相手と戦えて嬉しい」と言っているようにも思え、山姥切長義の実力を高く評価しているとも考えられる。

 以上を踏まえると、山姥切国広は山姥切長義に対して「特では苦手意識がある」「極では比較的好意的である」「自発的な行動・感情の発露は『また話をしよう』以外見られない」ということになる。
 山姥切国広は口下手な方ではあるが、好悪の感情についてはかなりはっきり口にする刀だ。その彼が山姥切長義と直接顔を合わせた時ぐらいしかネガティブな反応を見せないということは、本科に対してマイナス感情はない(もしくはほとんどない)可能性が高いと思われる。
 もしあったとしても「本科といると他人に比べられるから会いたくない」「高圧的な態度を取られるから会いたくない」程度のものだろう。
 極では一転して好意的ではあるが、あまり激しい感情の動きは見られない。審神者への信頼の言葉はかなり熱がこもっていることを考えると、実力に対する一定の敬意は感じられるものの、好意の程度はごくごく普通(手合わせ特殊会話のテンションを考えると国広兄弟と同程度)と言ってもいいかもしれない。

 以上より、山姥切国広の山姥切長義への感情は、山姥切長義のそれと比べるとはっきり読み取れない程度に穏やかなものであると思われる。
 これは山姥切長義が写しを意識するほどには、山姥切国広は本科のことを意識していないとも言える。
 この意識の違いもまた、山姥切長義にとっては腹立たしいのかもしれない。


 余談だがどうしてこんなに関心の差があるのかというと、やはり「キャラメイクされた時期が違うから」ではないだろうか。
 山姥切長義はいわゆる追加刀帳組で、ほぼ確実に山姥切国広より後に作られたキャラクターである。山姥切国広は単独で存在することを想定されたキャラクターなわけで、当初キャラクターとして存在が想定されていなかった本科相手に感情のやり取りが発生するようなキャラクター作りはしないだろう。
 逆に山姥切長義の場合はすでに山姥切国広が存在するのだから、写しに絡むようなキャラ造形になる。この違いが、山姥切長義は写しを意識しているが、山姥切国広はそこまで本科を意識していないという対称性を生んでいるのである。
 山姥切長義は「山姥切国広の方が実装が先で、かつ人気キャラクターである」というメタ要素がキャラクター性に反映されているが、「後付けで作られたキャラクター」ということもキャラメイクに生かされているのだろう。


【山姥切国広と山姥切長義の相似性と対称性】

 これまでの解釈を踏まえると、山姥切国広・特と山姥切長義・特は非常に対称的なキャラクターとして造形されていると言える。

 ただそれぞれの要素を並べてみると、山姥切国広と山姥切長義は一見して対称的だが、どちらもコンプレックスとプライドを持つという根本的な部分で似た者同士ということが分かる。
 さながら刀の山姥切国広と山姥切長義(本作長義)が「パッと見は似ていないけどよくよく見ると(専門家が見ると)作風や形状に類似点がある」のを体現しているかのように。

 そして、この対称性が「山姥切長義=悪役令嬢」というイメージに繋がっているのではないかと考えられる。
 「山姥切長義が悪役令嬢的である」というそれ自体は冗談めいた話ではあるが、要するに「山姥切長義はライバルキャラクター的である」ということだ(悪役令嬢のイメージは非常に多様であるので、ここでは「ちょっと嫌味な主人公と敵対するキャラクター」としておく)。
 そもそも「プライドが高い」「同等の能力を持つ」「張り合おうとする」「性格が対称的である」は典型的なライバルキャラクターの造形である。
 「伯仲の出来」という言葉そのままに、「山姥切国広と山姥切長義は同格同士のライバル関係である」というのがこの二振りのキャラクターコンセプトなのかもしれない。


【山姥切長義・極予想~本歌山姥切は自分だけのアイデンティティを確立できるか~】

 以上を踏まえ、山姥切長義の極予想をしてみたいと思う。

(1)山姥を斬ったのは

 山姥切長義の修行内容候補として欠かせないのが山姥切伝説についてである。
 というより、修行内容は十中八九これであろう。

 山姥切伝説は長義が山姥を斬った説(以下長義説)と国広が斬った説(以下国広説)の2つが存在する。
 刀剣乱舞(山姥切国広の修行)においては「山姥切伝説は二つあり、その真偽は曖昧」という設定になっているが、現実では本作長義を所蔵する徳川美術館が「本作長義に山姥切の号はついていない」という見解を出しているため、この国広説が山姥切長義・極予想において何かと物議をかもすことが多い。
 そのため、この国広説について一旦整理しておこうと思う。

 このうち国広説はざっくり言うと「山姥を斬ったことが山姥切国広の号の由来である記された大正9年作成の押形が存在すること」「尾張徳川家は詳細な刀剣管理帳を残しているにも関わらず、三百年間所有してきた本作長義に関して山姥切号にまつわる記述が一切ないこと」「長義説の記載がある最古の書物は昭和のもので、その説が正しいとする根拠は記されていない」「それ以降は同じ見解が繰り返し様々な刀剣書にそのまま引用されたことで、長義説が定説になってしまった」であり、要約すると「山姥切伝説は元々山姥切国広の逸話であったが、大正~昭和に本歌の本作長義の逸話であるという誤解が広まった」というものである。
 国広説は物証となる資料(斬った証拠ではなく、そう言い伝えられてきたという証拠)があり、長義説は資料がないことから、今後確かな資料が出てこない限りは国広説の方が蓋然性が高いという印象である。

 さてこの国広説の号が長義由来であると誤解された経緯を考えると、物語を重視する刀剣男士にとっては致命的なダメージであり、相当なトラウマになるのではないかと考えられる。
 号が長義由来だと誤解された理由ははっきりとは分からない。
 ただ山姥という伝説上の怪物を斬ったという理由で号がつけられるのは古刀であり、新刀である国広にはそんな号はつかないという考え方があるそうだ。これは「化け物斬りにまつわる号を持つ新刀がある」「そもそも号は刀に箔をつける・識別するために付けられるので、新刀古刀は関係ない」ことから否定されるそうだが、もし山姥切の号が長義由来だとする誤解が生まれた根底にこういった思想があったのだとしたら、山姥切国広は「新刀だから(≒写しだから)」という曖昧な理由で自分の逸話を本歌のものにされてしまったということになる。

 現在確認できる長義説最古の記録は刀剣研究家佐藤寒山氏の著書である。
 佐藤寒山氏は著書で「一説によると」という但し書きをつけて長義説を記しているため、長義説を唱え始めた人物は別にいるとしても、長義説が刀剣界に流布・定着したのは高名な刀剣研究家であった佐藤寒山氏の著書がきっかけではないかと言われている。
 この佐藤寒山氏は自著で山姥切国広の価値を高く評価し、「国広第一の傑作」と位置付けた刀剣研究家である。
 つまり山姥切国広にとって、自分の価値を認めとても愛してくれた佐藤寒山氏は敬愛の対象であったはずだ(山姥切国広・極が審神者に対してそうであるように)。

 しかしよりによってその敬愛する相手に、それも悪意なく間違った伝説を広められ、己の逸話を奪われてしまったのである。
 極度の人間不信になり、写しコンプレックスを拗らせてもなんらおかしくない理由ではないだろうか。

 と、ここまで国広説と山姥切国広のキャラクター設定の整合性を論じてきたが、この経緯が全てキャラクター設定に反映されているかというとそんなことはなさそうだと感じている
 というのも、これはメタ的な理由だがこの説を真だとしてしまうと佐藤寒山氏と山姥切長義が悪者になってしまうからである。
 特に山姥切長義は正真正銘本物の山姥切である写しから逸話を奪った形になるのに、写しのことを「偽物」「山姥切の名で顔を売っている」と罵っていることになる。いくら本人が逸話のことを知らなかったとしても相当印象が悪くなってしまう。山姥切伝説は曖昧であるとする現時点ですら、「山姥切国広にも山姥切伝説はあるのだから「山姥切の名で顔を売っている」などというのは筋違い」と言えるのに、国広説が正しいとしたらなおのことである。
 先述したように、逸話を奪われるのは物語を重視する刀剣男士にとって致命的なダメージである。国広説が正しいとすると山姥切国広は完全な被害者に、山姥切長義は無知故といえど完全な加害者になる。ただでさえ山姥切長義は性格に難があると言わざるを得ない(ただそこが魅力的である)キャラクターなので、ここまで非を重ねてしまうと美点と欠点のバランスが悪くなってしまう。
 さすがについ50年前まで存命だった近代の人物と新規キャラクターが悪者になりかねない展開は避けるのではないかと思われる。
 歴史学に対して功罪ありと言われる司馬遼太郎氏は、彼が有名にした沖田総司菊一文字佩刀説と絡めて「愛こそ力、愛こそ我らを縛る鎖」とどちらかというとポジティブに語られるのだから、佐藤寒山氏と彼が広めた山姥切伝説も同様の扱いになるのではないだろうか。

 また山姥切国広・特のキャラクター性と修行の経緯&結果には一貫性がある。
 彼のアイデンティティの核は特の頃から「国広第一の傑作」であり、山姥切伝説には「己が写しである象徴」以外の思い入れはない(彼に山姥を斬った記憶はないのだから、山姥を斬ったことに思入れがないのは当然である)。
 また山姥切国広・極も『霊力があるかはわからんがな。斬れ味の冴えは保証しよう』(極・本丸)という台詞が示すように、自分の確かな価値は斬れ味(刀としての性能)であり、山姥切伝説の真偽に重きを置いていないことがわかる。

 そのため「山姥切国広の修行では「国広説・長義説どちらもある」だったが、実は国広説が真である」とすると、山姥切国広特・極のキャラクター性との食い合わせが非常に悪い。山姥切国広は一貫して山姥切伝説の中身を重視していないのに、「実は国広こそ本物の山姥切なのです」と”山姥切長義の修行で”明かされる、というのはなんだかチグハグだろう。山姥切国広と山姥切長義がそれぞれ独立した逸話から誕生しているならそういうこともあり得なくはないが、そうではないのだから余計にである。
 加えて山姥切国広の修行の肝は「伝説の曖昧さ」にある。「人間の言っていることなんて適当だ」と分かったから山姥切国広は写しコンプレックス(第三者からのレッテル貼り)を克服したわけで、山姥切伝説がどちらか片方のものとされてしまうとこの修行結果に繋がらなくなる。
 
よって、どちらかの説が正しいとはならないと思われる。

 以上から、山姥切長義の修行でも「山姥切伝説は真偽曖昧」と語られるだろうと思われる。
 個人的な感想を言うと、むしろどちらの説が正解か不明とした方が、どちらも悪者にならないばかりがキャラクターとしての面白みが増しており、絶妙な設定ではないだろうか。


(2)嫉妬心と強迫観念の克服

 山姥切長義の修行で「山姥切伝説は曖昧」と語られるとして、それはどう彼に影響を与えるだろうか。

 まず「山姥切伝説は曖昧」ということは、写しに対する優位性の根拠となるものが不確かなものだということである。
 これはこれまで自分が盲信してきたものが確かなものではなかったというアイデンティティの崩壊を意味する。山姥切国広は動揺のあまり要領を得ない手紙を書いていたが、山姥切長義も同じくらい、下手をするとそれを上回る衝撃だろう。
 山姥切国広にマウントを取るために無茶なことを言っていた山姥切長義だが、さりとてその根拠がぐらついてもそれを続けるほど愚か者ではないはずだ。
 アイデンティティの崩壊の後にやるべきことといえば、自己の見つめ直しだろう(そもそも刀剣男士の修行とはそういうものであると理解している)。


 これまでの解釈から、山姥切長義の課題点は「山姥切国広に対する嫉妬心(に由来する攻撃性)」「本歌は写しより優れていなければならないという強迫観念」の二点と言えるだろう。
 本歌山姥切であるというアイデンティティは優劣で損なわるものではないのに、写しに対してマウントを取るのは非常に不毛な行いである。そんなことをしていても過去が変わるわけでもないし、「未完の刀」である山姥切国広が、山姥切長義が望む「自分が認める(同等の)実力を備えるべきだが、自分より優れてはならない」状態に居続けるわけがない。そもそも山姥切国広は山姥切長義とは別の刀なので、本歌といえどそうであれと強制する権利もない。
 写しに対して永遠に優位で居続けることなどできはしないのに、山姥切国広に対してマウントを取る行為を永遠に続けるべきなのだろうか?
 こんな不安定な基盤に、自身のアイデンティティを預けたままでいいのだろうか?

『弱い刀には修行が必要。そういうことかな』(特・修行見送り)

 嫉妬心と強迫観念は人間が山姥切長義に掛けた呪いであり、山姥切長義が自分自身に掛ける呪いでもある。
 ならば山姥切長義が修行に際してまずやるべきことは、「自分自身に呪いを掛ける」という“己の弱さ”を認めることではないだろうか?
 そして嫉妬心と強迫観念を克服するために必要なこととは、「山姥切国広には自分より優れた面もあると認めること」「本歌であることも山姥切であることも強い弱いで決まるものではないと認めること」ではないだろうか。


 そもそも嫉妬すること、負けて悔しいと思うこと自体は悪いことではない。わざと相手が傷つくことを言ってマウントを取ろうとしたり、相手の方が格下であるべきと思ったりすることが悪いのである。
 相手の方が優れているなら自分が成長して見返してやると思う方が健全だし、山姥切長義はそういう努力ができる刀ではないだろうか?

 また「本歌だから優れていなければならない」も、山姥切国広がそうであったように人間が言ったことに囚われ、振り回されているだけにすぎない。
 「写しは本歌を超えられない」のは「簡単に超えられないような素晴らしい刀だからこそ手本に選ばれる(から結果的に同等の出来映えになることすらレアだった)」に過ぎず、オリジナルが無条件でオマージュより優れているということでも、優れていなければオリジナルではないということでもない。
 故に人間に何をごちゃごちゃと言われようと、強い弱い勝った負けたを本歌であること・山姥切であることに結びつけず、「俺は本歌山姥切だ」とただただ胸を張って誇ればいいのである。

 「山姥切伝説は曖昧」という事実は、そんな無責任な人間が言うことよりも、己にとって大切なものを信じればよいという知見を山姥切長義にもたらすのではないだろうか?
 国広が山姥を斬ったという伝説は確かに存在する。だが、長義が山姥を斬ったという伝説も確かに存在するのである。後者をアイデンティティの核として生まれた刀剣男士である山姥切長義が「俺こそが長義が打った本歌山姥切」と名乗っても、なんら間違ったことではないのだ。

 山姥切国広は修行を通して「写しは偽物」に端を発する人間不信と自己否定の呪いを解き、始めから掲げていた「国広第一の傑作」というアイデンティティを「本当に大事なこと」だと再確認して帰ってきた。
 ではそんな山姥切国広と「一見して対称的だが根本的なところは似た者同士」である山姥切長義も、「本歌は写しより優れていなければならない」に端を発する写しへの嫉妬心と強迫観念(に由来する攻撃性)の呪いを解き、「長義が打った本歌山姥切」という始めから掲げていたアイデンティティをやはりこれが一番大事なことだと再確認して帰ってくるのではないだろうか?

※2022年11月27日 追記
 山姥切国広は山姥切伝説以外のことに己のアイデンティティを見出したが、それは山姥を斬った記憶がなく、かつ元から山姥切伝説以外のことを己の誇りとしていたからである。
 しかし山姥切長義は「本歌山姥切」であることに重きを置き、誇りとしている。その山姥切長義が伝説は曖昧と知ってなお「本歌山姥切」であることを選ぶのは「曖昧な伝説に己を委ねる」とは異なってくる。
 それは「長義が山姥を斬った」という事実を誇るのではなく、己が「山姥切伝説を持つ本歌山姥切である」と語られてきたという事実を愛し、己の存在を肯定するということだ。例え長義説に確たる証拠がなくても、極端なことを言えば徳川美術館の見解のように実は国広説が正しく長義説は間違っていたとしても、「語られてきたという事実」は変わらない。「山姥切長義」という刀剣男士が存在することに変わりはない。
 史学研究や人間の気分で左右される説の真偽ではなく、歴史改変でもされなければ変わりようがない「語られてきた事実」と「己の存在」という確かなものを己の拠り所とし、自ら「本歌山姥切」であることを選ぶ。
 それは人間が語る物語に振り回される受動的な”物”ではなく、自分の在りたい姿を自分で決めるという能動的な存在になるということだ。
※追記ここまで


 「誰がなんと言おうと俺は俺である」とは究極の自己肯定である。
 そう思えたなら嫉妬心から他者を攻撃する必要はない。自らを脅かされることはないと思えるなら、山姥切国広を認めることだってできるだろう。
 「写しを攻撃することで優位を保とうとする」ということは山姥切国広に依存しなければアイデンティティを確立できないとも言えるわけだが、勝ち負けに関係なく「俺は俺である」と悟り、山姥切国広を実力を競った時に勝つことも負けることもある対等な相手と認めることができれば、依存する必要だってなくなる。何が一番大事なことか再確認することで、山姥切長義は誰にも寄りかからなくていい自分だけのアイデンティティを確立できるはずだ。
 そうして初めて、彼らは「伯仲」になるのではないだろうか?


(3)克己

 山姥切長義が抱える嫉妬と強迫観念は、人間に掛けられたというだけではなく、彼が自分自身に掛けてしまった呪いでもある。

 修行を通し本当に大切なものに気付いたことで、自分自身を否定する弱かった自分に打ち勝った山姥切国広のキャラクターテーマを「克己」だと評したが、ならば修行で山姥切長義が嫉妬と強迫観念を克服するとしたら、彼のキャラクターテーマもやはり弱い自分に打ち勝つ「克己」ではないだろうか。

 修行を経ても、おそらく山姥切長義は変わらないだろう。
 相変わらず美しいが高慢で、プライドは山よりも高く、ノブレス・オブリージュ精神を発揮しつつ、自らの優秀さをアピールして回るだろう。
 南泉一文字のことは変わらず「猫殺しくん」と呼ぶだろうし、「偽物くん」呼びもそのままかもしれない。ただ呼ばれる方が気にしていなくて、身内に対する悪ノリ程度の甘えのつもりならば、外野としては何も言うことがない。私欲を言うと、大事な局面では名前で呼んでくれると胸熱である。
 おそらく山姥切国広に対してはピリピリしているし仲良くはないだろう。しかし無意味に高圧的になることもなく、健全に張り合う関係になれているはずだ。

 山姥切国広・特と山姥切長義・特はステータス面(錬結MAX+乱舞レベル5まで)において、
・打撃・衝力・必殺・隠蔽が同値
・統率・偵察は山姥切国広の方が高い(統率+2、偵察+1)
・生存・機動は山姥切長義の方が高い(生存+2、機動+1)
 という「お互い相手より得意な項目があり、しかし総合点は同等」という設定になっている。おそらく極でも同じステータス割り振りになるだろう。
 得意分野が違う同格同士で、かつお互い切磋琢磨し合える関係――健全なライバル関係こそ、伯仲が目指すべきところではないだろうか。


【総括】

 長々と記述したが、要は山姥切国広・特と山姥切長義・特はどちらも方向性が違うひねくれ者で、コミュ障で、未熟さを抱えた刀である。
 だがその未熟さから脱却し成長できる克己心を備えた誇り高い刀達でもある。
 卑屈だったり高慢だったりとめんどくさいが、どっちも未熟なところに可愛げがあり、誇り高さと成長の可能性が格好よく、魅力的であると思う。
 特にアイデンティティというテーマとシナリオ構造美大好きオタクとしては伯仲のキャラクター造形とバッチリ決まった相似性と対称性の美しさに興奮を禁じ得ない。故にこんなに長くなってしまったわけだが。
 ただ山姥切長義の極予想もしたものの、刀剣乱舞はストレートを投げたと思ったら変化球を投げ、変化球を投げたと思ったらストレートを投げてくるコンテンツであるので、予想は「ストレートならたぶんこうなる」の域を出ない。
 最近だと(といっても一年半前だが)一文字則宗が予想外かつ秀逸なキャラメイクだったので、これくらい予想外かつ秀逸な極を投げてくる可能性も否定できないのだ。
 いずれにせよ、山姥切国広と山姥切長義、両名を押している身としては、彼らが健全に喧嘩する関係になってくれることを願うばかりである。

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