山姥切国広解釈まとめ~特から極の成長譚について~

 近いうち(数年以内かな…)に長義極が来そうなので2022年9月時点での伯仲解釈をまとめとこうと思いました。
 山姥切国広の解釈まとめです。
 結論は「山姥切国広と山姥切長義、どっちもめんどくさかわいい!!」です。

※便宜上、修行前のノーマル個体を「特」と表記する
※台詞は『』で表記。刀剣乱舞ONLINE(とうらぶ) Wikiから引用
※考察材料は原作台詞・回想のみ。一点を除き、メディアミックスは含めない。ただし、メディアミックス・二次創作等から着想を得たor参考にしている解釈もある。全てを引用することはできないので、参考元の記載は省略する。
※来歴・歴史的背景は原史彦「「刀 銘 本作長義(以下、五十八字略)」と山姥切伝承の再検討」金鯱叢書:史学美術史論文集 第47輯(2020.3)、佐藤貫一「堀川国広とその弟子」(1962)、さよのすけ(RayS)「山姥切考察本」(2018.8.25)を参考とした。筋金入りの歴史苦手人間なので歴史等はふんわりとした理解。
※個人の幻覚です
※長い
※2022年11月27日 大事なポイントを書き間違えていたので一部追記・修正しました。



【山姥切国広という刀】

 山姥切国広のキャラクターテーマを一言で表すなら「克己」である。

【山姥切国広・特~不信と期待の間でもがく刀~】

(1)刀剣男士山姥切国広の課題

 山姥切国広は自分がオリジナルでないことにコンプレックスを抱いている刀である。

『霊剣『山姥切』を模して造られたとされる打刀。オリジナルでないことがコンプレックス。綺麗と言われることが嫌いでわざわざみすぼらしい恰好をしている。実力は充分だが、色々とこじらせてしまっている。』(特・キャラクター設定文)

 結論から言うと、この場合の「オリジナル」とは「写しではない刀」のことを指すと考えられる。
 本歌は写しがあって初めて呼ばれる呼称なので、「本歌ではないことがコンプレックス」と表現することはできない(自分の写しが打たれていないことがコンプレックスであるという意味になってしまう)。
 写しの有無に関係なく「原典のない一次創作」に相当する刀剣用語はない(たぶん)ので、紹介文では「オリジナルではないことがコンプレックス」と表記されるのだろう。

 山姥切国広のこの「写しコンプレックス」は様々な台詞からうかがい知ることができる。

『山姥切国広だ。……何だその目は。写しだというのが気になると?』(特・入手)
『相手は名だたる名剣名刀……なのに俺は……』(特・開戦(演練))
『……ふん。どんなに強くなっても、所詮は写しとか思っているんだろう?』(特・ランクアップ)
『写しなんか見せびらかしてどうするんだ』(特・万屋)

 では彼の「写しコンプレックス」の正体とはなんなのだろうか。


(2)国広第一の傑作というプライド 写しであるというコンプレックス

 写しコンプレックスは山姥切国広というキャラクターの核となる要素であるが、先に結論から言うと、この写しコンプレックスとは「人間不信」であると考えられる。

 コンプレックスというと一般的に劣等感を意味するが、実際のところ山姥切国広の自己評価は全くもって低くない。

『俺は山姥切国広。足利城主長尾顕長の依頼で打たれた刀だ。……山姥切の写しとしてな。
だが、俺は偽物なんかじゃない。国広の第一の傑作なんだ……!』(特・刀帳説明)
『就任二周年か。あんたも、写しの傑作を評価できるようにはなったか?』(特・審神者就任二周年)

 山姥切国広の自己認識は始めから「堀川国広第一の傑作」「写しの傑作」である。それも「傑作と呼ばれている」という伝聞形ではなく「傑作なんだ!」という言いきり型である。
 かの天下五剣にして刀剣乱舞の看板である三日月宗近ですら『天下五剣の一つにして、一番美しいとも言うな』(特・刀帳説明・一部抜粋)という言い方をしているのを考えると、「傑作なんだ」と言い切っている山姥切国広の自信のほどが窺えるというものだ。

 ではそれほどまでに自己評価が高いのに何故あんな卑屈な態度を取るのだろうか?
 これは以下の台詞から推察するに、「自分は傑作だけれども、それを正しく評価されない」と考えているからである。

『山姥切国広だ。……何だその目は。写しだというのが気になると?』(特・入手)
『どうせ写しには、すぐに興味が無くなるんだろう。わかってる』(特・本丸(放置))
『……ふん。どんなに強くなっても、所詮は写しとか思っているんだろう?』(特・ランクアップ)

 ではこの「正しく評価してくれない人」とは一体誰なのだろうか?

 というのも、山姥切国広は「写しの中で唯一本歌と並んで重要文化財指定されている刀」、つまり素晴らしい出来であると評価されている刀である。一度は焼失したと思われていたこの刀が昭和三十五年に再発見された時は刀剣界で大きく話題になったというし、刀剣研究家の佐藤寒山氏は山姥切国広を「堀川国広の傑作」と評し、自署「堀川国広とその弟子」に当時の持ち主である伊藤寅彦氏が「虎徹の脇差二振りと重要文化財の雲生の太刀と引き換え(前代未聞で同席していた佐藤寒山氏も驚いたと称する取引内容)に山姥切国広を入手した」と熱をこめて記しているほどである。
 質入れされ更に質流れしたり等はしているが、例えば二束三文で売られた村雲江や、望んだ出来ではなかったと刀工に捨てられた笹貫のように具体的な不遇エピソードが残っているわけではない(厳密にはこれやられたらトラウマにもなるわというものがあるのだがそれは後述する)。

 それを踏まえて、山姥切国広を正しく評価しない者とは誰なのか。
 それは「刀のことをよく知らない一般人」である。

『……騒がしいと思えば、今日で一周年か。いい加減、写しとは何かということは広まっただろうか……』(特・刀剣乱舞一周年)

 この台詞から、山姥切国広は「写しの意味が周知されてほしい」と考えていることが分かる。裏を返すと「写しの意味が広く理解されていない」ということだ。
 これに加えて『俺(写し)は偽物なんかじゃない』(特・本丸)と散々主張している。
 この二つを合わせると、「山姥切国広を正しく評価しない者」とは「刀のことをよく知らない一般人」かつ「写し=偽物(贋作・コピー・パクリ・本科より劣るもの)と考えている人間」ではないだろうか。

 山姥切国広は彼個人への評価というよりは、「日本刀(あるいは日本芸術)における写しという概念への無理解」から写しコンプレックスを拗らせているのである。

 例えるなら、これまでは地元で優秀さを評価され褒められてすくすく育ってきた子が都会に出た途端、心無い人々に「◯◯出身?ってことは田舎者じゃんwダッサw」と自分の実力と関係ない部分で嘲笑されてすっかりひねくれてしまった――みたいな話である。
 これが山姥切国広・特の「写しコンプレックス」――自己評価は高いが、「刀に無知な人間は自分の実力を正当に評価しないだろう」という考えから人間不信に陥ったが故に、誰に対しても疑い目を向け卑屈な態度を取ってしまう、という状態なのだ。

 もちろん同族である山姥切国広以外の刀剣男士が写しの意味を理解していないとは考えにくい。対刀剣男士でも卑屈を発揮するのは本当に疑っているからというよりも、卑屈が習い性になってしまったが故の被害妄想(コミュニケーション不全)と考えるのが妥当だろう。


 なおこの「日本刀(あるいは日本芸術)における写しという概念への無理解」の存在は刀剣乱舞世界の写しの共通認識のようである。
 同じ写し刀であるソハヤノツルキも、結成台詞で『守り刀って言っても、写しだから将の器じゃないってか』(特・結成(入替))と発言するように明らかに「写し=(本歌より)劣っている」という考えを内面化してしまっているからだ。
 実際に「写しは劣ったもの」と考える人間がどの程度いる・いたかを測ることはできないが、写しの正しい意味を知っている刀剣愛好家よりもそうではない一般人の方が多いこと、写し刀についての説明で写しと贋作は違うことや「写しであるからと言って価値が減ることはない」という説明書きが散見されるくらいには馴染みのない概念であること、刀剣乱舞の世界観においては創作が実体を持って顕現するほどには「広く知られていること」が力を持つので、知識のない無理解な人間による「写しは劣る」というマイナスな考え方も写しを病ませる程度には力を持ってしまうのだろう。

 また私見だが、創作をしていると「オリジナル至上主義」とでも言うべき発言はそれこそ吐いて捨てるほど見る。
 パクリとオマージュの区別がつかない、ただよくある設定というだけなのに◯◯のパクリだなどと騒ぐ、といったことは創作界隈でなくとも発生していることだ。

 更に言えば、昭和にも写しに芸術的価値はないとする意見を表明した刀剣研究家がいるそうだ。
(参考 https://waterseed.hatenablog.com/entry/2018/12/01/202336
 伝統的に写しという技法に価値を置く刀剣(日本芸術)界ですらそういった議論が巻き起こるのだから、一般人から模作に価値はないとする意見が出るのも宜なるかなというものである。

 刀剣乱舞ユーザーこと審神者の大半は刀剣愛好家や刀剣研究家ではない。写しと贋作の違いは刀剣乱舞をプレイして初めて知ったという審神者がほとんどではないだろうか。
 であるならば、山姥切国広やソハヤノツルキが「この審神者は写しのことをよく分かってなくて、俺を劣ったものとみなすかもしれない」と疑いの目を向けるのも理解できる。

 写しではない人間から見ても、あの過度なオリジナル至上主義に基づいた「パクリとみなした作品」への叩きは恐ろしいほどである。
 彼らからしてみれば審神者はどこに何があるか分からない地雷原なのだろう。だから山姥切国広もソハヤノツルキも不信感を向けてくるのである。


(3)根強い人間不信と「自分を認めてほしい」という期待

 山姥切国広の人間不信は様々な台詞で窺い知ることができる。

『山姥切国広だ。……何だその目は。写しだというのが気になると?』(特・入手)
『どうせ写しには、すぐに興味が無くなるんだろう。わかってる』(特・本丸(放置))
『……ふん。どんなに強くなっても、所詮は写しとか思っているんだろう?』(特・ランクアップ)
『……ああ。戻ってきたのか。もう写しには興味を失ったのかと思ったぞ』(特・審神者長期留守後歓迎)
『綺麗とか、言うな』(特・本丸)
『これでいいさ。ぼろぼろになっていれば俺を比較する奴なんていなくなる』(特・本丸(負傷時))
『……ははは。雑用結構。これで山姥切と比較する奴もいなくなるだろ』(特・内番(馬当番))
『泥にまみれていれば、山姥切と比べるなんてできないだろ……』(特・内番(畑当番))
『ああ……嫌だな……消えた後も、俺は比較され続けるのか……』(特・破壊)

 山姥切国広は先述の通り「自分は傑作だ」と明言するくらいには自己評価が高い刀である。
 つまり自分が劣った刀であるなどとは全く考えていないはずだ。
 それなのに襤褸布を被り、汚いなりをしたがり、本科と比較されることを嫌がり、綺麗と褒められることを厭う。
 それはやはり、「(無知な)人間は写しの自分を劣ったものとして見るだろう」と考えているからだろう。

 本科山姥切と比較されるということは「本科と写し」として見られる・意識されるということ、「写し=偽物・劣ったもの」という色眼鏡で見られているということである。
 「写しは本歌を超えられない」なんて言葉もあるそうだが、「本科と伯仲の出来」である山姥切国広が劣って見られるとすればそれは写しに対する偏見に他ならない(もちろん仮に「伯仲の出来」でなくとも、写しの出来が本科に劣るとすればそれは刀工の腕が本科に届かなかったというだけであって、「写しだから」劣るわけではない)。

 どんなに自分自身の出来栄えがよくても偏見の目で劣ったものとして見られてしまうのであれば、最初から汚いなりをして「汚らしいから」劣っていることにしておこう。そうすれば本科と比較して「写しだから」劣っているなどとは言われないだろう。
 そういった評価する者へ、そして自分の心への予防線があの襤褸布や汚れようとするところなのである。

『どうせ写しには、すぐに興味が無くなるんだろう。わかってる』(特・本丸(放置))
『何を期待しているのやら』(特・結成(隊長))
『……ふん。どんなに強くなっても、所詮は写しとか思っているんだろう?』(特・ランクアップ)
『このまま、朽ち果ててしまっても、構わなかったんだがな』(特・手入(中傷以上))
『山姥退治なんて俺の仕事じゃない』(特・出陣)
『化け物切りの刀そのものならともかく、写しに霊力を期待してどうするんだ?』(特・本丸)
『何を期待しているのやら』(特・結成(隊長))
『ああ。そいつの今後に期待すれば良い。俺なんかじゃなくな』(特・修行見送り)

 山姥切国広はよく「期待するな」と発言する。これは「期待するな。俺も期待しない」と自分に言い聞かせているのかもしれない。
 どうせ正しく評価されないのだから、劣っていると思われているのだから、なにを言われても信じない。期待しない。常に最悪を想定してショックを軽減しようとする。
 これも全て自分を守るための予防線なのである。

 しかしこれは自己防衛であると同時に自分への”呪い”でもある。
 自分が劣っている存在であるかのように振る舞うというのは要するに自己否定に他ならない。例え演技でもそんなことをしていればどんどん本当に劣っているような気がしてくるものだ。
 また誰彼構わず疑いの眼差しを向けていたら、偏見を持たない真っ当な相手とも信頼関係が結べなくなる。写しを偏見の目で見たりしていないのに、写しは偽物だと思っているんだろうと疑われたら誰だっていい気はしないものだ。

『いい加減、写しとは何かということは広まっただろうか……』(特・刀剣乱舞一周年台詞)

 そう言うぐらいには写しがなんたるかを理解してほしいと思っているのに、自ら襤褸布を被ってみすぼらしい写しを演出する。
 こういった自己矛盾、自家中毒を察して南泉一文字は回想で『なんだか呪いよりも厄介な気がするなぁ……。』(回想・其の54『呪い仲間』・一部抜粋)と表現したのではないだろうか。

南泉一文字『おーおー、ホントに顔隠してんだなぁ』
山姥切国広『……何だ。文句でもあるのか』
南泉一文字『オレと同じ、呪い仲間さんかと思ってさぁ』
山姥切国広『……呪い? じろじろと顔を見たがるやつが多いからだ……』
南泉一文字『んぁ? なんだか呪いよりも厄介な気がするなぁ……。オレはこの呪いさえ解けりゃ、自由の身だけどよぉ……お前はどうするんだ?』
山姥切国広『……知るか』
(回想・其の54『呪い仲間』)

 南泉一文字の猫の呪いは南泉一文字の意志とは全く関係ないもので、それゆえに彼は頭を悩ませている。だが、山姥切国広の写しコンプレックスの半分は彼が自分で自分にかけている呪いでもある。
 自分の意志ではどうにもならない呪いを抱えている南泉一文字から見れば、自分で自分を呪っている山姥切国広のそれはまさに『呪いよりも厄介』であろう。


 ただそうやって全方位疑う一方で、山姥切国広の言葉の端々には期待が滲んでいる。

『俺で、いいのか?』(特・結成(入替))
『うっ……直す気は、ないのか? それはそれで構わんがな』(特・つつきすぎ(中傷))
『……四周年を迎えた今も俺を使うというのは、……信じていいのか』(特・審神者就任四周年)

 そもそも山姥切国広が厭っているのは「日本刀における写しという概念に対して無理解な人間」である。
 写しの意味を正しく理解し、偽物などと言わない人間に対してなら、あのような態度を取る必要は全くないのである。

『霊剣山姥切の写しと言われ、性格は少しひねくれ気味。
本当は自分を認めてほしいという一面も。
磨けばとてもきれいなのに、自らを汚すことで隠しています。原石というやつですね…!』(公式Twitterの紹介)

 台詞の端々に見える期待感は、審神者は写しの意味を正しく理解してくれる人間なのではないか、そうであってほしいという祈りの表れではないだろうか。

 実際、審神者就任記念ボイスでは山姥切国広が審神者のことを「刀の本質を見ることのできる人間だ」と信頼していく様子が分かる。

『……あんた、今日で就任一周年なんだってな。……まあ、頑張ってるじゃないか』(特・審神者就任一周年)
『……就任二周年か。あんたも、写しの傑作を評価できるようにはなったか?』(特・審神者就任二周年)
『……就任三周年なんだってな。写しの俺でも気兼ねなく使うのは、経験ということか?』(特・審神者就任三周年)
『……四周年を迎えた今も俺を使うというのは、……信じていいのか?』(特・審神者就任四周年)
『……ふん、五周年を迎えた主の目利きを疑うつもりはないさ。これからも頼む』(特・審神者就任五周年)
『……就任六周年だな。今のあんたなら、刀の本質を見ることにも慣れているだろうな』(特・審神者就任六周年)
『……就任七周年か。ああ、あんたは今まで数多くの刀を従えてきただろう。……だからこそ、今後も頼むぞ』(特・審神者就任七周年)

 極になると更に分かりやすく、審神者に全幅の信頼を置いていることが見て取れる。

『俺は偽物なんかじゃない。あんたのための傑作。そうだろう?』(極・本丸)

 また山姥切国広は(刀剣男士含め)人間不信ではあるが、さりとて(刀剣男士含め)人嫌いではないらしいことが以下の台詞からも窺える。

『俺なんかより、遠征連中の世話をしてやれ』(遠征帰還(近侍))
『……もっと、刀のことをよく見ろ』(重傷時行軍警告)

 『俺なんかより、遠征連中の世話をしてやれ』というのはもちろん卑屈発言である。しかし卑屈であると同時に、遠征部隊を労ってやってほしいという発想があることが窺える。
 山姥切国広は写し絡みとなると大変視野狭窄になる刀だが、他の男士のことを思いやれないわけではないのである。
 重傷時行軍警告台詞も同様である。この台詞を聞くと、その口調から彼が苛立ち、怒っていることが分かる。
 山姥切国広は重傷の部隊員がいるにも関わらず進軍を命じた審神者に対し、「ちゃんとしろ」と憤るのである。これは必要とあらば怒りをもって抗議するほど、仲間のことを想っているということではないだろうか?
 あるいは審神者に対して「あんたなら正しい判断ができるはずだ」という期待の表れとも解釈できるだろう。
 以上のように、山姥切国広は他者に対して疑いの目こそ向けるものの、他者への(ゲーム上は主に仲間に対しての)優しさを忘れたわけではないのである。

 そもそも無理解に直面してショックを受けるのが嫌だから予防線を引くという行為は、相手への期待値が高いからこそ発生するものと考えられる。
 出会い頭から全方位疑うという極端さは、裏を返せば以前は全く疑っていなかったということではなかろうか。
 人間の善性に期待し信頼する純粋無垢さ。山姥切国広が元々持っていた気質は、そういったものだったのかもしれない。

 こういった根の素直さが子供っぽさを感じさせるのだろう。
 三日月宗近が子供扱いするのも頷ける。

山姥切国広『歴史を守る。それが刀剣男士の使命だからな』
三日月宗近『そうだな。心強いぞ』
山姥切国広『……馬鹿にしているのか?』
三日月宗近『……ふむ。ははは、すまんな。こども扱いが過ぎたか』
(大侵寇・其の29『同じ月を』・一部抜粋)

 最も山姥切国広に限らず、刀剣男士は大なり小なりこういった純粋無垢さを備えているように思える。
 これは彼らが道具で、語り継がれる物語(一文字則宗が言うところの愛)から生まれた付喪神だからこそなのかもしれない。


(4)「己を肯定したい」という意志

 さて、全方位疑ってかかることで己の心を守ろうとする山姥切国広であるが、期待を滲ませていたり写しの意味が周知されているか気にしたり、そもそも自分は偽物ではないと主張したりとこのままでいいとは思っていないことが分かる。

『俺は山姥切国広。足利城主長尾顕長の依頼で打たれた刀だ。……山姥切の写しとしてな。
だが、俺は偽物なんかじゃない。国広の第一の傑作なんだ……!』(特・刀帳説明)
『俺は、偽物なんかじゃない』(特・本丸)
『俺は偽物なんかじゃない』(特・会心の一撃)
『……とうとう五周年か。俺はこれからも歩み続ける。俺自身のために……』(特・刀剣乱舞五周年)
『……六周年か。……いや、くだらん考え事をしてもはじまらない。俺は俺のできることをするだけだ……』(特・刀剣乱舞六周年)

 特に『俺(写し)は偽物なんかじゃない』に至っては、同じ台詞を三回も口にしている。
 「写しは偽物(≒劣る存在)ではない」は無理解への反発であり、己を肯定したいという強い意志が感じられる主張である。
 ただ問題は、山姥切国広は気質的に全くもってプレゼンに向いていないということだ。

 同じく世間に訴えたい事項がある蜂須賀虎徹は虎徹真贋について次のように言及している。

『蜂須賀虎徹だ。蜂須賀家に伝来したことからこう呼ばれているんだ。
銘入りの虎徹はほぼ全ては贋作と言われているが、俺は本物。一緒にしてもらっては困るんだよ』(特・刀帳説明)
『俺たち虎徹の兄弟と名乗り出る不届き者が多くてね……困ってしまうよ』(特・本丸)

 写しの正しい意味を周知したいなら、山姥切国広もせめてこれぐらいは説明的に語ってほしいところである。
 とはいえ、山姥切国広本人も自分がプレゼンに向いていないのは理解しているようだ。
 そこで彼は自分なりにできる方法で写しが偽物ではないことを証明しようとしていることが以下の台詞から分かる。

『……三周年か。俺は浮かれて騒ぐ気はないぞ。戦いはまだ続く。そちらの方は任せておけ』(特・刀剣乱舞三周年)
『……六周年か。……いや、くだらん考え事をしてもはじまらない。俺は俺のできることをするだけだ……』(特・刀剣乱舞六周年)
『……強くなりたいと思った。
修行の理由なんてのはそれだけで十分だろう。
誰よりも強くなれば、俺は山姥切の写しとしての評価じゃなく、
俺としての評価で独り立ちできる。』(特・手紙一通目・一部抜粋)

 自分なりにできる方法とはずばり、「強くなること」である。
 具体的に言うと「強くなって刀剣男士として戦功を挙げる」あたりだろうか。誰もが認めるような偉大な業績があれば、写しは偽物・劣っている・価値がないとのたまうような連中も自分(写し)を認めざるを得ないだろう、という発想である。
 山姥切国広は己の美術的価値だけではなく武器としての性能にも誇りを感じている台詞がある。戦は嫌いではないようだし、言葉によるプレゼンテーションよりかはずっと適性のある方法ではあると思われる。

 が、これは山姥切国広の潔癖な0-100思考を踏まえるとなかなか不毛な戦いだと言わざるを得ない。
 現実問題として、いかに写しとして実力を示そうとも「写しは偽物(劣るもの)」という考え方は永久になくならないだろうと考えられるからだ。
 実力を示せば偏見がゼロになるのなら、人間世界の差別や偏見だってとっくになくなっている。ある一定の効果は見込めるかもしれないが、根絶するのは無理だろう。
 そんな永遠になくならない偏見のために、他者との間に予防線を引く作業を続けるべきなのだろうか?
 また写しを偽物扱いせず、信頼してくれる審神者や刀剣男士相手に疑いの目を向けて自虐してみせるというはっきり言って非常に失礼な言動をいつまでも続けるべきだろうか?

 山姥切国広の写しコンプレックスは「日本刀における写しという概念への無理解」からなる呪いである。
 しかし同時に人間不信から誰も彼もを疑い、写しがなんたるかを理解してほしいと願いながらも自ら襤褸布を被ってみすぼらしい写しを演出するという、自分自身にかけた自己否定の呪いでもある。

 加えて、他者(ゲーム上は審神者)を信じたい、期待したいという欲求もあるのだから、山姥切国広の第一課題は「人間不信、自己否定という呪いを解くこと」ではないだろうか。


(5)写しとしての考え方の違いと自己肯定という願い

※2023年6月8日追記:2023年5月23日のソハヤノツルキ極実装により、筆者のソハヤノツルキ解釈に一部誤りが含まれることが分かったが、本項の結論には影響しないため一部文章を修正するに留める。

 この人間不信、自己否定という呪いを解くにあたって必要になってくるのはやはり「自己肯定」であろう。それに言及した回想がある。
 同じ写しであるソハヤノツルキとの回想である。

山姥切国広『俺は、コピーではない』
ソハヤノツルキ『コピーでいいじゃねえか』
山姥切国広『なん、だと』
ソハヤノツルキ『写しから始まってもいいじゃねえか。問題はその後だ。生きた証が物語よ』
ソハヤノツルキ『お前の物語をつくりな』
山姥切国広『…………』
(回想・其の29『写しの悲哀』)

 山姥切国広とソハヤノツルキは同じ写しだが、写しであることに対する考え方はまるで違う。
 山姥切国広は写しは本科に劣るなどとは全く思っていない(だからこそ悩んでいる)し、自分は本科の代わりになるものだとも思っていない。だからこそ『俺は、コピーではない』と言うのである。
 しかしソハヤノツルキは写しであることを山姥切国広以上にマイナスに捉えている。

『くそっ! 写しじゃ霊力が足りねぇのか!』(特・中傷/重傷)
『くっそ……霊刀といっても写しじゃこのザマか……』(特・手入れ(中傷))

 ソハヤノツルキは『写しだからってなめんじゃねえぞ』(特・勝利MVP)と矜持こそ見せるものの、根底には「写しは(本科に)劣るもの」という考え方が見え隠れしている。
 これは山姥切国広以上に「写しは偽物」という考え方を内面化してしまっているせいであろう。
 そんなソハヤノツルキが言う『コピーでいいじゃねえか』は前向き発言というよりも、諦念からくる開き直りであったのではないだろうか。
 だが、ソハヤノツルキはこれをただの諦念では終わらせなかった。
 だがその一方でソハヤノツルキは「写しは本科に劣っていたとしても、代替品であったとしても、今までとこれからを生きてどうするかの方が大切だ」と主張したのだ。

 これは少々後ろ向きなところはあるものの、まごうことなき自己肯定である。
 劣っているという自己認識が正しいかは別として、劣っていてもいいじゃないかというのは自己の承認なのだ。
 これが空元気や強がりなのか、本当にそう思っていて励ましのために伝えたのかは彼については不勉強なため判断しかねるところだが、このソハヤノツルキの自己肯定と「どう生きるかが大事」という発言は、現状から脱却したいと思っている山姥切国広に響いたはずである。
 山姥切国広とソハヤノツルキは同じ写しなれど対称的な性格だが、根底には自らの生き方で自らの生まれを肯定したいという気持ちは共通しているようだ。


(6)克己

 さてこの人間不信と自己否定の呪いを解き、いよいよ自己肯定に至るための作業が山姥切国広の修行である。
 「強くなりたい」と思い修行に臨んだ山姥切国広を待っていたのは「山姥切伝説は曖昧なもの」という真実だった。
 なお、両山姥切伝説の信憑性については現実で色々と語られているが、実際の学説はここでは無視する。
 刀剣乱舞は最新学説、創作、真偽曖昧説のごった煮なので、「どれが公式設定として採用されているか」が重要だからである。

『主へ
……すまんな。この間は動転して、要領を得ない手紙だった。
正直なところ、俺もまだ混乱しているんだ。
俺は、山姥を斬った伝説を持つ刀、山姥切の写しであって、
山姥を斬ったのは俺じゃないと記憶している。
だが、俺が会った人々は、俺が山姥を斬ったから、
そのもとになった長義の刀が山姥切と呼ばれるようになったという。
これでは、話が全く逆だ。
写しの俺が、本科の存在感を食ってしまったようなものだ。
どう、受け止めていいかわからない。』(手紙二通目)
『主へ
前の手紙のあと、長い年月、多くの人々の話を聞いて、わかったことがある。
俺が山姥を斬ったという伝説、本科が山姥を斬ったという伝説、
そのどちらも存在しているんだ。
案外、どちらも山姥を斬ったりなんかしていないのかもな。ははは。
人間の語る伝説というものは、そのくらい曖昧なものだ。』(手紙三通目・一部抜粋)

 山姥切伝説について、山姥切国広は自分の号は本科由来のものであって、自分は山姥を斬っていないことを散々主張している。

『化け物切りの刀そのものならともかく、写しに霊力を期待してどうするんだ?』(特・本丸)
『山姥退治なんて俺の仕事じゃない』(特・出陣)

 「山姥切の名は長義由来」という説から生まれたと認識している山姥切国広にとって、霊力がないというのはただの事実である。それなのに写しのことをよく知らない人間に山姥切なら山姥を斬ったのと勝手に期待され、勝手に失望され、「なら偽物じゃないか」とでも言われてしまったらたまったものではないだろう。
 だからしっかり「斬っていないから期待するな」と主張するのである。
 ということは、「山姥を斬っていないのに本科に倣って山姥切と名付けられている」ことは、山姥切国広からすれば写しの象徴であり、それに付随する自虐の象徴のようなものであるはずだ。

 ここで注意したいのは、山姥切国広自身は自分が山姥切長義の写しであることを厭っているわけではないということだ。
 なにしろ自身のことを「写しの傑作」と称しているからである。

『……就任二周年か。あんたも、写しの傑作を評価できるようにはなったか?』(特・審神者就任二周年)

 山姥切国広にとって写しであることはなんらマイナスなことではない。
 むしろ「俺(写し)は偽物なんかじゃない」と主張する程度には重要なアイデンティティである。
 しかしその一方で、無理解な人間に勝手なレッテルを貼られる悩ましい属性でもある。
 その悩ましさの象徴である山姥切伝説がなんとも非常に曖昧なものだったというのだ。
 そりゃあ手紙を挨拶も前置きもなしで始めて途中でぶっつり切るような書き方もしてしまうだろう(単に口下手なのと同じくらい手紙を書くのも下手なだけという可能性も高いが)。

 もちろん曖昧だと分かった時点で更に時間遡行して真偽を確かめることだって可能である。しかし山姥切国広はそれをしなかった。
 つまり自分が山姥を斬ったか斬っていないかという事実よりも、人間がその伝説をどう語って来たか(すなわち自分が人間にどういうものとして見られてきたか)の方が重要だったということだ。

『人間の語る伝説というものは、そのくらい曖昧なものだ。
写しがどうの、山姥斬りの伝説がどうので悩んでいたのが、馬鹿馬鹿しくなった。』(手紙三通目・一部抜粋)

 山姥切国広は「写し=偽物」というレッテル貼りに苦しんできた刀剣男士だ。
 しかしそのレッテルを貼ってくる(者が一部含まれる)人間の言うことなど実に曖昧で確かなことはない、いい加減なものだと分かったわけである。
 つまりは「写し=偽物」というレッテル貼りも同じく実に曖昧でいい加減な言い種で、こんな発言を真に受けて自分を否定するなんて馬鹿馬鹿しいことであると、山姥切国広はここでようやく気付いたのではないだろうか。
 偏見は押し付けてくる側が悪いのであって、押し付けられる側はそれをまともに取り合って自分で自分を貶める必要はないのである。

 さて人間の言うことなど実に曖昧でいい加減なものであると気づいた山姥切国広であるが、では彼はこの後なにをよすがとしていくのか?ということがその直後に書かれている。

『俺は堀川国広が打った傑作で、今はあんたに見出されてここにいる。
本当に大事なことなんて、それくらいなんだな。』(手紙三通目・一部抜粋)

 「堀川国広の傑作」は刀帳で言及されている通り、山姥切国広が初めから宣言している重要なアイデンティティである。
 「今はあんた(審神者)に見出だされてここにいる」は現在進行形の事実である。
 刀剣乱舞に好感度システムはないが、極全般を見るに修行に出す=審神者が対象の刀剣男士を大切にしている・目を掛けている・期待しているという前提があるようなので、「あんたに見出だされて」というのは「審神者に愛されて」と言っていいだろう。

 刀剣男士は物語という曖昧で不確かで、説も解釈も多様で、人間からは好き勝手言われるものから生まれた存在である。
 だからどう在りたいか、どう在るべきかは自分で選ぶ――それが極修行ではないだろうか。
 故に修行を経て人間の言うことなど曖昧だと知った山姥切国広は、
「堀川国広が打った写しの傑作という事実・現在まで傑作だと評価されて来たこと」
「現在の持ち主である審神者に見出だされ愛されていること」

 こそが大切なことであると悟り、それこそが己が在りたい姿であると再確認し、無理解な第三者によるレッテル貼りに振り回された結果自分自身にかけてしまった自己否定の呪いをついに解いたのである。

 本当に大切なものに気付いたことで、自分自身を否定する弱かった自分に打ち勝ったのだ。

『写しがどうとか、考えるのはもうやめた。俺はあんたの刀だ。それだけで十分だったんだ』(極・修行帰還台詞)



【山姥切国広・極~未完であることが完成形の刀~】

(1)劇的ビフォーアフター?

 修行で病的な人間不信と自己否定を克服し、山姥切国広は象徴的だった襤褸布を脱いで帰ってきた。
 そんな山姥切国広・極は特の頃とは違い、開戦時高らかに名乗るようになる。

『参る』(特・開戦(出陣))
『山姥切国広、参る!』(極・開戦(出陣))

 山姥切国広にとって名前とは、「”山姥切長義の写しだから”山姥切と名付けられた」という自分のアイデンティティの一つを表すものである。それは極になっても変わらない。

『霊力があるかはわからんがな。斬れ味の冴えは保証しよう』(極・本丸)

 霊力があるかわからないと言うのは、逸話の存在こそ知っているものの自覚はないからこそ出てくる台詞であろう。修行で自分にも山姥を斬った逸話があると知ってなお、山姥切国広は山姥切伝説を重視していないのである。

 山姥切国広はあくまで「長義が山姥を斬ったという物語」から誕生した付喪神である。
※20221127追記・修正
 刀剣界では長らく「山姥切という号は本歌の長義に付けられたもの」という説が定説として信じられてきたという。それはつまり山姥切の号について長義由来説ばかりが有名になり、国広由来説を信じる人間の数は少なかったということだ。
 今剣や岩融が刀剣男士として存在し、かつ修行前は自身を実在する刀剣であると認識していたように、刀剣男士は逸話が事実かどうかよりも、人間に”そうである”と信じられてきたか、語られてきたかが刀剣男士の存在と認識を左右する。
 すなわち本来は国広説・長義説が並列しているはずだったのに、長らく長義説だけが信じられ、国広説は忘れられた状態であったせいで、山姥切国広は自分は山姥を斬っていないと認識していたのだ(山姥切国広の写しコンプレックス=人間不信は、山姥切伝説が本科だけのものとされ、自分の伝説は忘れられてしまったことを無意識下で引きずっていたせいなのかもしれない)。
 そしてこれまでずっと山姥を斬っていない(斬ったという経験・記憶を持たない)と思っていたのだから、山姥を斬った逸話を自分のものとは思えないのも当然だ。自分がやった覚えのない功績を自分のものとして誇れと言われても、真面目なものほどそんなことはしないだろう。

 また、修行で判明した通り山姥切伝説は真偽不明な酷く曖昧なものである。自分にも山姥切伝説はあるといっても、(研究の場で根拠をもって判断される場合を除き)結局は人間の気分で本科のものにも写しのものにも変わってしまう恐れがあるものだ。
 山姥切国広本人に山姥を斬った記憶がない。すなわち山姥切伝説は自分のものだという確固たる認識がないのに『俺にも山姥切伝説はあるから、俺も正当な山姥切だ』という方向性でアイデンティティを確立してしまうと、「山姥切伝説は本歌のものだ」「いや写しのものだ」という人間の気分に振り回されることになってしまう。それでは「写しは偽物」という偏見に振り回されていた頃と変わらない。
 それに、山姥切国広には「国広第一の傑作」という特の頃から掲げていたアイデンティティと、修行を経て見出した「主の刀」という新しいアイデンティティがある。人間に振り回される曖昧な伝説に己を託す必要はない。
 「自分にも山姥切伝説がある」という事実を受け入れないわけではない。否定するわけでもない(実感に乏しいことは間違いないようだが)。ただそれを自分のアイデンティティ・自分の大切な価値観には選ばない。
 それが山姥切国広が修行を通して出した結論である。
 修行前は人間に付けられた物語に振り回される受動的な”物”であった山姥切国広は、修行を通じて自分の大切なものを自分で決めるという能動的な存在になったのだ。

 そんな山姥切国広にとって「山姥切」とは、山姥を斬った証というよりも山姥切長義の写しである証だという認識の方が強いだろう。
 本科と同じ山姥切の名は、写しという自分のアイデンティティの一つである一方で、修行前の山姥切国広にとっては煩わしい悩みをもたらすものであったはずだ。
 その名を堂々と名乗るということは、「写しは偽物」という他人の勝手なレッテル貼りにも揺るがない、強い自己肯定を得たという証だろう。
 写しコンプレックスを克服し、他者の視線に臆する必要がなくなったからこそ、「山姥切長義の写しである山姥切国広」という名を胸を張って名乗れるようになったのである。
※追記・修正終了


 そんな変化が見受けられる山姥切国広であるが、実のところ、彼は大きく変わったように見えてさほど変わっていない。

『俺は山姥切国広。足利城主長尾顕長の依頼で打たれた刀だ。……山姥切の写しとしてな。
だが、俺は偽物なんかじゃない。国広の第一の傑作なんだ……!』(特・刀帳・一部抜粋)
『俺は山姥切国広。足利城主長尾顕長の依頼で打たれた刀だ。堀川国広の第一の傑作で、今はあんたのための刀。大事なことはそれくらいだな』(極・刀帳)

 そもそも前項で述べたように「国広第一の傑作」は特のころから主張していることである。
 口調が自信を感じさせるものに変わっただけで、主張内容自体は変わっていない。

『俺は、偽物なんかじゃない』(特・本丸)
『俺は偽物なんかじゃない。あんたのための傑作。そうだろう?』(極・本丸)
『俺は偽物なんかじゃない』(特・会心の一撃)
『俺は、偽物なんかじゃない!』(極・会心の一撃)

 特と極で共通の台詞がある刀剣男士は多数いるが、山姥切国広の場合、主張内容は全く変わっておらず、自信がついただけである。
 「俺(写し)は偽物なんかじゃない」と訴えることもやめてはいない。自分を肯定できたから、写しの意味が正しく周知されていなくても構わない、とはならないのである(相変わらずプレゼン向きの性格ではないが)。

『綺麗とか、言うな』(特・本丸)
『綺麗とか、言うな……!(極・本丸)
『そんなにじろじろ見るな』(特・つつきすぎ(通常))
『そんなにじろじろ見るな……』(極・つつきすぎ(通常))

 また特のころは失望から心を守るための予防線であったこの台詞も、極ではすっかり照れて狼狽えているニュアンスになっている。
 「国広第一の傑作」と自分で言うくらいには自分に自信を持っている山姥切国広であるが、褒められるのには弱い素直で照れ屋な気質が窺える台詞である。

 更にこれら以外にも、特・極で内容自体はほとんど変わらず、ニュアンスだけが自信あるものに変化している台詞が多い。
 これらの台詞から山姥切国広は特・極で感じ方や考え方は大きく変わっていないことが分かる。

『俺で、いいのか?』(特・結成(入替))
『俺でいいのか?』(極・結成(入替))
『血で汚れているくらいで丁度いい』(特・中傷/重傷)
『血で汚れているくらいで丁度いい』(極・中傷/重傷)
『俺なんかより、遠征連中の世話をしてやれ』(特・遠征帰還(近侍))
『せっかく帰ってきたんだし、遠征連中の世話をしてやれよ』(極・遠征帰還(近侍))
『菓子か』(特・一口団子)
『菓子か』(極・一口団子)
『花見は、ひとり静かな方がいい』(特・お花見)
『花見は、今日のこれぐらいが丁度いい』(極・お花見)
『花火は……綺麗だ』(特・花火(通常))
『きれい、だったな』(極・花火(通常))
『病も……斬って見せよう』(特・花火(願い))
『ああ、病も斬って見せよう』(極・花火(願い))
『……七周年、随分とこの戦いも長く続いたものだ。……だが、ここに在ることは悪くない。……そう、思っている』(特・刀剣乱舞七周年)
『七周年……、随分とこの戦いも長く続いたものだ。だが、ここに在ることは悪くない。それは嘘偽りなく言える』(極・刀剣乱舞七周年)
『……就任三周年なんだってな。写しの俺でも気兼ねなく使うのは、経験ということか?』(特・審神者就任三周年)
『就任三周年なんだってな。写しだろうが気にせず本質を見ようとするのは、経験ということか?』(極・審神者就任三周年)

 また山姥切国広・極は自信家とも取れる発言の割に謙虚さも窺える台詞がある。

『俺で良ければ、手合せ頼む』(極・内番(手合せ))
『新年か。正月早々俺の相手をしてくれるとは、ありがたいな』(極・正月)

 自身が優れていると表明するプライドの高さと謙虚さは一見すると相反する性質ではある。しかし、これらが同居したときに見えてくるのは「自分はすごい。相手もすごい」精神である。

『相手は名だたる名剣名刀。相手に不足なし!』(極・開戦(演練))

 自分の実力にプライドを持つのと同時に相手を立てる(実力を讃える)のはいわば事実を事実として受け入れる「素直さ」である。

 前項で山姥切国広には人間の善性に期待し信頼する純粋無垢さがあったのではないか、それ故に「写し=偽物」という心ない言葉を真に受けて極端な人間不信に陥ったのではないかと述べたが、これを踏まえると山姥切国広は根が素直であり、それ故に他人の言葉を真に受けやすく、それが自責・自虐に繋がりやすい性格ではないかと考えられる。
 過度な自虐や人間不信は極で改善されたが、素直な気質は極でも変わらず読み取れることから、山姥切国広の基本的な性質は修行前後で変わっておらず、負の側面のみを清算したと言えるだろう。
 山姥切国広は修行で劇的ビフォーアフターしたように見えて、「国広第一の傑作というプライド」と「素直さ」は特・極で全く変わっていないのだ。

 しかしながら、だからといって負の側面を全てなかったことにしたわけではない。
 山姥切国広は極になって脱いだ布を内番ではなお身に付けている。容姿を隠し、みすぼらしく見せる襤褸布はいわば山姥切国広の自己否定――弱さの象徴だといえるだろう。その布について、図録三には「常には使わなくなったけれど 変わらず、大切なもの」と記されている。
 山姥切国広にとって弱かった修行前の自分は決して否定するべきものではない。大切なものだと受け入れるものなのである。この弱さも、確かに自分自身なのだから。


(2)飽くなき向上心

 山姥切国広は写しコンプレックス克服のために強さを求めていたが、強さへの探究は極になっても変わっていない

『あいつの今後に期待だな。……俺も負けられない』(極・修行見送り)
『就任七周年か。ああ、あんたは今まで数多くの刀を従えてきただろう。だからこそ、他の刀には負けてられないな』(極・審神者就任七周年)

 写しコンプレックス克服のための強さは修行経て必要なくなった。
 しかし山姥切国広は元来プライド高い刀である。
 主の信頼に応えるために刀として強く在りたいから、そして自らの誇りである「国広第一の傑作」にふさわしい刀であり続けたいから、より高みを目指すために、これからも強さを追い求めよう。この台詞はそういう志の表れではないだろうか。

 これは兄弟刀の山伏国広が修行を通じて己を鍛えることに注力しているところを連想させる。
 山伏国広は主家再興のために打たれた「祈りの刀」である。山伏国広・極は『筋肉さえあれば、大抵のことは何とかなるのである。無論、衆生を済度することも』(極・本丸)と述べているが、この台詞から彼が鍛えようとしている強さは単なる腕っぷしだけではなく、肉体的・精神的(宗教的)な要素を包括したものであろうと推測できる。悩み苦しみからの救済、悟りへの導きは、腕力だけで行えるものではないからだ。

 また刀工堀川国広が山姥切国広と同年に足利で鍛えた布袋国広も「祈り」が込められた刀であるという。
 布袋国広は刀身に眠り布袋が彫刻されていることがその名の由来だが、布袋とは弥勒菩薩の化身とされ、仏教の教えである殺生を諫めるはたらきがあるという。また、布袋国広には「夢香梅里多」という文字も彫られており、中世では夢で見た事は実現すると信じられていた。殺生の道具である刀に布袋と夢の字を彫ったのは、刀工国広が殺生のない世界の実現を願ってこの刀を鍛えたからではないか、という解釈である(足利市制100周年記念特別展「戦国武将 長尾顕長の武と美――その命脈は永遠に――」カタログ・2022.2.20・p83-84)。
 仕えていた伊藤氏が滅び、後に山伏となり、流浪中に山伏国広を鍛え、更に足利で布袋国広を鍛えた刀工堀川国広の根底には、鍛治を通した「祈りの心」があったのかもしれない。
 「祈り」とはすなわち、誰かのため、何かのために心を傾け、自らがすべきことを取り組むこと。それができる精神的な成熟、強さの表れであろう。
 そんな兄弟刀や刀工の志を踏まえると、山姥切国広が目指す強さも肉体的・精神的の両方なのかもしれない。

 また、修行見送り・審神者就任記念日というシチュエーションからこの強さへの探究は主のためでもあるだろう。
 『期待には応えるさ』(特・結成(隊長))を始めとして、極は特時代の人間不信から打ってかわって審神者の信頼・期待に応えようとする様子が多数見られる
 不信には(極端なやり方ではあるが)不信を返すが、信頼と期待には同じかそれ以上の信頼と期待を返す。この性質は刀剣男士全体に見られるものではあるが、山姥切国広はそれがより顕著に見られる刀剣男士であると感じている。


(3)俺は俺だ

 特・極に共通する台詞として『俺は俺だ』(勝利MVP)がある。
 個人的に、山姥切国広の代表的にして象徴的な台詞と考えているフレーズである。これについても深掘りしていきたい。

 この台詞には2つの意味が込められているのではないかと考えている。
 まず一つ目はアイデンティティの肯定である。
 特の山姥切国広は人間不信から来る自己否定が常態化していたのだから、自分を見失わないためにも自己を肯定し鼓舞する言葉が必要だったはずだ。
 どんなに「写しは偽物」と言われようと、「俺が俺(国広第一の傑作)であることは揺らがない」という自己肯定である。
 極めた後は『俺は、俺だ。分かっただろう?』(極・勝利MVP)と自信に溢れ、どこか挑戦的なニュアンスに変わっている。極めてからもこの言葉が彼の指針であり、揺るぎない主張であることが窺える。

 そしてこの台詞のもう一つの意味が、「俺は本科でない」という主張なのではないだろうかと思うのだ。

 日本刀(日本芸術)における"写し"とは模作のことで、復元品、再現作、刀派・刀工の作風模写、特定の作品の模写と様々な種類があるが、一言で言えばオマージュであると理解している。
 現代の三日月宗近写しや燭台切光忠写しは複製・再現作としての写しだが、山姥切国広は「オマージュとしての写し」と考えるべきだろう。

 山姥切国広と山姥切長義(本作長義)は素人目に見てもそっくりではない。
 研ぎが異なる(本作長義は江戸時代の研ぎ方、山姥切国広はおそらく近代か現代になって研がれている)ので刃文や地鉄の見え方が全く違うということもあるだろうが、
 長さは本作長義の方が0.6センチ長い
 反りは山姥切国広の方が0.4センチ大きい
 反りの配分が違う
 切っ先の形状が異なる
 といくつも相違点がある。
 単に違うのではなく、形状の美しさ・バランスのよさのためにアレンジしたのではないか、ということらしい。
(参考 https://togetter.com/li/1085192

 刀工国広にどんな意図があってこう作ったのか(あるいは偶然こう出来上がったのか)、注文主の長尾顕長がどういう目的でオーダーをしたのかは不明だが、少なくとも姿形に関しては山姥切国広は山姥切長義(本作長義)のコピーではなく、刀工国広独自のアレンジが加えられたオマージュと言うべきだろう。
 本歌の由来である和歌の本歌取り(有名な和歌の一~二句を取り入れて作歌を行う)はまんまこれだし、音楽でいうなら原曲とカバー曲の関係だ。

 大切なのはオマージュとはリスペクトはあれど、オマージュする側とされる側で作品の出来・不出来以外に優劣はないし、代わりにもならないということである。
 極端な例にはなるが、漫画ゴールデンカムイは名画オマージュorパロディシーンがいくつもある。レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐とゴールデンカムイの最後の晩餐オマージュシーンを比べて「ゴールデンカムイは(オマージュする側だから)レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐には劣る作品」などと言うのはナンセンスだし、ゴールデンカムイのオマージュシーンを最後の晩餐の複製品として飾ると言ったら正気を疑われるだろう。

 よって写し(オマージュする側)は本歌(オマージュされる側)の代替品・コピー・複製にはなりえないし、作品の出来映えそのもの以外で優劣をつけるべきではないのだ。
 かつ山姥切国広と山姥切長義(本作長義)は「伯仲の出来」なのだから、優劣はないと言ってよい。

 また前述の通り、山姥切国広は山姥切伝説についても自分は山姥を斬っていない。斬ったのは本科であると主張している。

『化け物切りの刀そのものならともかく、写しに霊力を期待してどうするんだ?』(特・本丸)
『山姥退治なんて俺の仕事じゃない』(特・出陣)
『俺は、山姥を斬った伝説を持つ刀、山姥切の写しであって、
山姥を斬ったのは俺じゃないと記憶している。』(手紙二通目・一部抜粋)

 これは純然たる事実(少なくとも山姥切国広・特の主観からは)であり、期待するなという予防線であると同時に、「俺は本科とは違う存在である」という表明でもあるのではないだろうか。
 もし写しが複製品であるのなら、号に由来する力もまた複製されるはずだろう。
 しかしこの場合の写しは複製品ではないので、本科と同じ号がついているからといって本科と同じ号由来の力があるわけではない。
 写しは来歴も逸話も能力も本科とは異なる、コピーではない一つの個性を持った刀だと山姥切国広は認識しているわけである。


 クローンやアンドロイドが自分はオリジナルの代わりなのかと苦悩する物語はSF系作品の王道である。
 刀剣乱舞二次創作でも、二振り目が自分は折れた一振り目の代わりなのかと苦悩する展開はあるあるネタと言っていいほどよく見かける。
 己は誰かの代わりではなく独立した個なのであるという筋立ては非常に王道的なストーリー展開である。

 あるいは「偉大な親の存在に苦悩する二世」でもいいだろう。
 誰かの付属物ではない自分だけの価値を獲得するストーリーもまた王道である。
 そんなアイデンティティにまつわる命題に最初から『俺は俺だ』と解答を出しているのが山姥切国広なのである。

 極になった山姥切国広は『俺は俺だ。分かっただろう』(極・勝利MVP)と胸を張って堂々と宣言する。
 はっきりと解答を出しているにも関わらず、自己否定によってどこか頼りなかった表明は、修行によってより鮮明なものとなったのだ。


(4)未完の刀

 以上のように山姥切国広は本質的な部分では特・極でほとんど変わっていない。
 とはいえ写しコンプレックスを払拭し、人間不信と自己否定をやめたことは大きな成長と言って間違いないだろう。

 しかし、山姥切国広の成長はこれで終わりではない。
 山姥切国広は回想・其の57『ふたつの山姥切』で以下のように発言している。

『お前とこうして向き合うことで、またひとつわかった気がしたんだ……』
『俺もまだ考えている。……こうして戦いながら』
(回想・其の57『ふたつの山姥切』・一部抜粋)

 修行を経て一定の答えに辿り着きはしたが、だからといって己のアイデンティティと向き合うことを止めたわけではない。
 極めてからも、山姥切国広は考え続けている。
 強さへの探究を続けているように、己にとって大切なものは何かを考え、更なる答えを探し続けているのである。
 これはつまり、山姥切国広は未完成であり、まだまだ成長の余地があるということだ。
山姥切国広は「少年漫画の主人公」と例えられることがあるが、「特→極の分かりやすい成長要素」と「極後も感じられる伸び代」が主人公的だと感じさせるのであろう。

 極をキャラクターとしての完成形=キャラクターがどんな属性を持ち何を目指しているかの決定稿であるとするなら、山姥切国広は「未完=これからも成長し続けること」が完成形である刀剣男士なのである。


(5)これが素?

 本質は変わっていないものの、山姥切国広は特→極で明確な成長を見せ、自信をつけて帰ってきた。
 これは印象の話にはなるが、特・極両方を見比べていると、山姥切国広の本来の性格は極の方なのだろうと感じられるのだ。

 この理由として、山姥切国広は根本では自己評価が高いこと、特・極で根っこの部分は変わらないこと、状況から見て特の時は一時的にぐれていると考えるとしっくりくること、兄弟刀の山伏国広と堀川国広が特・極通して明るく朗らかな性格であることなどが挙げられる。
 この明るさとは「能天気」ではなく、自分の課題を前向きな姿勢で乗り越えようとする精神の健全さといった感じだろうか。
 刀剣男士は兄弟刀だからといって必ずしも性格が似ているわけではないが、共通する気質を感じることは多い。特に彼らの生みの親である刀工国広はとかくパワフルな逸話が多く、それが国広兄弟の気質に反映されているのではあるまいか、と感じることが多いのだ。
 それを踏まえて山姥切国広・極を見ると「素はこっちだろう」と思うわけである。
 彼の「極になって自信をつけた」は変わったのではなく本来の状態に戻ったのだ。

 ではいくら素直な気質だとしても、自虐に走るほど写しだなんだと気にする繊細さは一体どこから来たのだろうか?
 山伏国広や堀川国広は悩み事があるにしてもこういうウジウジと拘る悩み方をする印象が極めて薄い。もっと落ち着いたカラッとした悩み方をする印象がある。とすれば、山姥切国広のこの繊細さは刀派由来のものではない。
 であれば、このめんどくさい繊細さの出所はただ一つ。
 山姥切長義なのではないだろうか?


山姥切長義解釈まとめ~「山姥切問題」から極予想まで~

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