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ポリアンナは何故よかった探しをしなければならなかったか


世界世界名作劇場がだいすき

私は子供の頃から世界名作劇場が大好きで、日曜日の定刻は必ず見ていたし、平日夕方再放送も必ず見ていた。大人になってからは定額見放題のサービスを利用して(具体的にはHULU やアマゾンプライム)暇さえ在れば見返している。

名作劇場は基本的に全て流れが同じである。
まず第一に、不幸な少年少女が主人公。ふがいない大人のせいでいきなり1話目から不幸に見舞われた子供が、その後もろくな大人に出会わずさらに不幸になっていく。しかし、徐々に仲間や良い大人に恵まれて、生きる希望を見失わず、数々の困難を乗り越え、やがて幸せをつかむ。というストーリー。(例外・フランダースの犬はやりきれないラスト。本当に大人たちが屑オブザ屑。)
こういった展開を責めたいわけではない。どうしても主人公をかわいそうな目に遭わさなければ、話が展開しないことは承知している。(でも母を訪ねて三千里においては、あそこまで幼児を痛めつける必要があったのだろうかと疑問を持たずには居られない。)
私は、出てくる大人が皆、未熟で身勝手であることに注目したい。

愛少女ポリアンナ物語

さて、1986年に放送された「愛少女ポリアンナ物語」をご存じだろうか。題名よりも、「よかった探し」というワードで有名なのかもしれない。あるいは、「ポリアンナ症候群」と言う言葉を聞いたことがあるかもしれない。

ポリアンナ症候群(ポリアンナしょうこうぐん、: Pollyanna syndrome)は、直面した問題に含まれる微細な良い面だけを見て負の側面から目を逸らすことにより、現実逃避的な自己満足に陥る心的症状のことである。別の言い方で表すと、楽天主義の負の側面を表す、現実逃避の一種だと言い換えることもできる。

ポリアンナ症候群 - Wikipedia

例に漏れずこの物語でも、少女はいきなり両親を亡くして遠い親戚にもらわれていくところから始まる。そして親戚のおばさんは想定通り冷たい人だ。そしてどうやらその冷たさの原因にポリアンナは関係が無い。おばさん自身の昔の出来事に執着し、それをポリアンナに当てつけている。ポリアンナは、そうして冷たく当たってくるおばさんを慈愛の目でみつめる。「おばさまはどうしてそうんなにおつらいの・・?」「おばさまがもっと笑ってくださったらうれしいのに」それができないおばさんは、さらに意地になってポリアンナに冷たく当たるのである。

大人がしっかりしていれば、よかったを探す必要がない

ポリアンナはおばさんや、街に住む挨拶もできない大人をみるにつけ、挨拶はした方が気持ちがいいわよ?とアドバイスをしたり、病気で引きこもる近所の人に「あらあなたはこの窓から景色を見れるんだもの幸せだわ」と言い切ってカーテンを開けたりして最初は反感を買うが、確かに挨拶はした方が気持ちがいいし、確かに締め切ったカーテンを開けて風を入れてみればとても気分がいいのだ。彼らは何らかの過去の出来事から意固地になり、挨拶なんかしません!とか、病人だからひきこもります!とかいって心を閉ざし、それを他人に強要させてきたのである。

ここでアルプスの少女ハイジについて考えてみたい。ここにでてくるアルムおんじ(アルプスのおじさん)は、社会不適合者であると言わざるを得ない。かれは手先の器用さから木工品を作ったり、山羊をかってその乳からチーズを作り、アルプスの麓の村へそれを売りに行き、パンと交換して生計を立てている。物語序盤の彼は大変気むずかしい性格で、小屋の周囲の人たちは彼を変人扱いし、遠巻きにしている様子が描かれている。ある日おんじがチーズを売りに行くと、いつもよりも安値で買い取ろうとしてくる村人に腹を立て、おんじは気分任せに二度とおまえたちにチーズは売らないと息巻いてしまう。村人の背後には他の人から買ったチーズが山と積まれていて、やれやれまたか好きにしろと言った体である。また、隣人の女性は屋根と窓が壊れて冬が来る前に修理が必要だが、男手がいないのですきま風を我慢して暮らしている。隣に手先の器用な男が住んでいるのにもかかわらず、である。

しかし、ハイジが来てみるとそれを純粋な目で、「あらなあぜ?おじいさん」といわれてしまう。「おじいさんは窓が直せるんだもの、直してあげなきゃいけないわ。すぐによ。今日にもよ。」
渋々と修理にやってきたおんじは、こんにちはも言わず修理を始めるので、家の中の女性たちは戦々恐々としている。あの変わり者が、突然やってきて家を修理してくれている・・。そしてお礼を言うまもなく帰って行く。ハイジは大喜びである。「ありがとうおじいさん」おんじは、思いがけなくハイジと女性たちにありがたがられ、気分は悪くない。あれも、これもとお願いされるようになり、そのたびにお礼を言われてハイジも喜ぶから、だんだんと村の人に親切になっていく。村の人たちは驚きながらもそれを受け入れていく。

おんじが何故そんなに人嫌いになってしまったのか、一切描かれていない。どうやらハイジの母親とも何か一悶着あったらしい。ハイジを連れてきた女性にも、だいぶ喧嘩腰であった。でもそれらの過去はハイジに関係が無い。

自分を否定する場合、他人も否定せざるを得ない

ハイジとポリアンナに共通することは、そういった理不尽な大人の態度に反応をしなかった、ということである。あなたは不機嫌なので、私は大人しくしています。というメッセージを送りかえさない。
あなたは何故そんなにかたくななのだろう?もっと楽しく生きたらいいのに。と考えている。

意地悪な人は、意地悪をされて自分を否定的に見るようになってしまっていると思う。故に、他人に対しても否定的に見ざるをえない。たとえば、ある人はちびと言われて馬鹿にされてきた。そしておれはちびだからさ。と卑屈になってしまった。そうすると、おまえもちびだもんな、あいつは背が高いもんなと身長で人を判定してしまうようになる。

ちびと言われた悪意を受け取らなかったらどうだろうか。

さかなクンはさかなクンと呼ばれて嬉しかった

さかなクンは、小学生のころ、魚の絵を描いたり魚の話ばかりするので魚博士と呼ばれていたそうだ。しかしそれを変わり者だと馬鹿にしてくる生徒も居て、一部の子たちは「おい、さかな!」と彼のことを揶揄するようになったらしい。しかし、さかなクンは大好きな魚と呼ばれたことを嬉しく思い、「なあに!うん、ぼく、さかなだよ!」と笑顔で答えたそうだ。大人になってから「あれは馬鹿にされてたのかもしれないですね」と話している。

ポリアンナはなぜそまらなかったか

ハイジとポリアンナ、そしてさかなクンは、周囲に染まらなかった。彼らの機嫌や、彼らの意地悪に反応をする代わりに、相手のことで心を痛めたり、気の毒に思ったり、喜んだりしたのである。

世界名作劇場の不幸な少年少女は、ふがいない大人たちに囲まれて、それに順応したってよかった。たとえばポリアンナは嫌なおばさんに意地悪されて、意地悪し返してやってもよかったし、いつも不機嫌で嫌な人ね!と怒ってもよかった。ハイジは、むっつりとしたおんじに習って、隣の人に挨拶もせず冷たくしてもよかったし、チーズを高く買ってくれない村人をにらんだってよかった。でも、そうしなかった。何故か。

彼女らは「考えるこころ」を持っていたからである。考えずに周囲に染まるということは、誰もがつい飛びついてしまうほど、簡単なことなのだと私は考える。
多くの大人がこの簡単な方へなびいてしまう。そしてさらに、周囲の人にそれを押し付けてしまう。もし「考えるこころ」を持つ余裕があるのならば、子供によかった探しなどさせる隙をあたえず、今日も空が綺麗でしあわせだなあ。という当たり前の感動を共有できるのだろう。意地悪な大人も不機嫌な大人もそこには存在せず、子供はいっそう空が綺麗なことを素直に享受できる。それ以上に幸せなことなんか、あるのだろうか。
大人にこそ、考えるこころを取り戻して欲しいと思っている。そしてそれを取り戻すには、何度も繰り返し自然に触れることが必要だと感じている。人は元来、それが気持ちいいと感じる動物だと思うからだ。それで私は何度も空を見に行き、感動するのである。


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