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きみに伝えるヒストリー⑰

乙末事件、そしてロシアの南下

 朝鮮にとって日本の勝利はたいへん大きな意味を持つことになりました。この下関条約により、清はようやく朝鮮を一つの独立国として認めることになったのです。藩属関係の破棄により、ここに朝鮮は独立し、1897年に大韓帝国が誕生いたしました。朝鮮国王が韓国皇帝となり、初代皇帝は高宗です。ただこの大韓帝国誕生にいたるまでに大きな事件が起こっております。

 日清戦争後、日本からの後押しもあり、大院君派の勢力が強まってきておりました。これに対抗する閔妃派は親ロシア政策を取り、ロシア軍の助力を得て権力の奪還を試み、見事成功いたしました。以降、親ロシア政策に舵取りをしていきます。

 これにより大院君や反対派勢力からは強い反発を買うことになりました。そして日本など諸外国が警戒する中、事件が起こりました。

 王宮に日本公使館の守備隊や警察隊と大院君派の朝鮮人が侵入し、閔妃を殺害してしまったのです。1895年10月のことです。これを乙末(いっぴ)事件と呼びます。

 計画立案は日本公使の三浦悟楼です。閔妃の殺害に実際に手を下したのは大院君派の朝鮮人です。これは大院君の指示によるものとも言われてます。しかしこの王宮侵入をクーデターととらえるなら、計画時点で閔妃殺害も予定されていたと考えるのが自然でしょう。閔妃殺害はあってはならないことであり、国際法違反ということもありますが、なによりも日本の権益にとっては大きな失敗といえます。

 この後、大院君による親日政権はすぐに倒されます。そしてロシアは朝鮮にさらに介入していくこととなりました。実際のところ、閔妃の夫の高宗はロシア公使館に逃げ込んでおりました。

 日清戦争に勝利することによって、日本が望んでいた朝鮮独立はかないましたが、結局ところ朝鮮は清の藩属国からロシアの保護国同然となってしまったと言わざるを得ません。朝鮮の独立、つまり清の藩属国からの開放が日清戦争の発端です。日本からみれば、清に勝利することによってこれがかなったのです。ところが朝鮮独立を望むその奥にある事情、つまりロシアの南下を防ぐという大いなる目的は、かなわないどころか、逆にその南下を促進することになりました。

 閔妃は亡くなってからは明成皇后の称号を贈与されます。韓国には明成皇后を扱った映画やTVドラマがたくさんあるようです。私は見たことはありませんが、これらの映像による物語が今の韓国の反日感情を促進するひとつの要因となっているようです。たいへん残念なことです。

蝕まれる清

 三国干渉を行った列強各国が本性を現してきました。ドイツは膠州湾と青島、フランスは広州湾をそれぞれ清から租借しました。ロシアはこともあろうに、日本に返還させた遼東半島の旅順と大連を租借しました。

 そして、イギリスもはいってきて、威海衛と九龍半島を租借します。これが1898年です。きみは覚えていますか。本書の冒頭にお話ししておりますように租借期間は99年間でした。そうです。この租借の年は香港返還の99年前のことでありました。

 清は日清戦争で負けたために、列強に国土を蝕まれることとなっていきます。清は「眠れる獅子」と呼ばれていましたが、実は獅子は眠ったままだったのです。

 この獅子は眠っていたがために、藩属国たるベトナムや朝鮮の宗主権を奪われることとなり、さらに、列強からは帝国主義的な清における分割競争が始まりました。

 日本も台湾の割譲により、分割競争にはいっていくこととなりました。そして、諸列強は租借地の確保と借款供与及び鉄道施設を進めていきました。ロシアは満州とモンゴル、ドイツは山東地方、イギリスは長江流域と広東東部、フランスは広東西部と広西地方、そして日本は台湾の対岸にあたる福建地方の利権の優先権を清に認めさせました。合わせて列強それぞれの利権を獲得した地域の鉄道の権利を獲得していきます。

変法運動

 日清戦争の結末は帝国主義の躍動のきっかけとなりました。かような分割競争は、いうまでもなく清の社会に甚大な影響を及ぼしました。

 日清戦争にあたり、西太后と李鴻章を軸とする皇派と光緒帝と翁同龢(Weng Tonghe)を中心とする帝派によって、中枢権力の争奪とともに政治情勢が動いておりました。そして、その動向の中で対日戦争に敗北したのです。

 このことは、対日強硬路線の帝派にとっても、大きな痛手以外の何ものでもありませんでした。一方和議派であった后派は、特に李鴻章は北洋軍の体たらくを導いた責任もあり、批判にさらされておりました。このことから、もはや李鴻章グループが推す「洋務」ではなく、「変法」でなければならないとうい論法が大きくクローズアップされてきました。

 「変法」とは、西洋文化の物質面だけを摂取した洋務運動ではなく、日本の明治維新に見習って、西洋の政治制度を取り入れた改革をしていくということです。

 1897年11月、下関条約に対して徹底抗戦を上奏していた康有為(Kang Youwei)は、明治維新に範をとって、「変法」を具体的かつ積極的に提案する内容の上奏を行いました。上奏とは意見を皇帝に申し上げることです。

 これは5回目の上奏でした。多くの官僚にこの内容は知れ渡ることとなり、そして翌1898年1月に6回目の上奏を行い、改革の全容を整理された形で提出いたしました。光緒帝はこの第六次上書で「変法」の決意を固めました。

 このとき親ロシア政策を取っておりました后派(西太后、李鴻章と恭親王など)は軍事同盟的な色合いを持つ清露密約を取り交わします。一方、イギリスは帝派に接近しており、日本も帝派に追随しておりました。これにより、一概には言い切れない面もありますが、后派及びロシア、フランスと帝派及びイギリスとその東アジアの尖兵としての日本との争いに直結する様相も出てきました。

戊戌の政変

 光緒帝は康有為を始め梁啓超(Liang Qichao)、譚嗣同(Tan Sitong)など若手の「変法」官僚を取り立てていきました。これら少壮官僚は次々と新令を発布していきましたが、旧官僚機構には手は入れられておらず、「変法」の根幹にかかわったものはまだ採用されませんでした。

 6月にはいり、西太后は帝派の翁同龢を免職させ、栄禄(Zung Lu)を直隷総督に就任させました。栄禄は、后派の満州人官僚の実力者でした。その栄禄は北洋大臣も兼務することとなります。

 9月、これに対して光緒帝は、6人の皇后派大官を免職にします。「変法」を進める官僚の行動を束縛したことによります。また李鴻章から総理衙門(外務)大臣の地位を剥奪しました。そして、李鴻章の後を継いで北洋軍の司令官となっている袁世凱を巻き込み、軍事的クーデターを行うというかけにでました。

 光緒帝の意を受けた譚嗣同は袁世凱を訪ね、軍事クーデターをおこして栄禄を殺し、頤和園を包囲するように求めました。ところが、その翌日に袁世凱は天津に赴き、栄禄にこれを密告いたしました。譚嗣同のかけは、失敗に終わったのです。

 その翌早朝、西太后は、光緒帝の寝所に馳せつけ、あらゆる文書を提出させ軟禁処分を科しました。そして、西太后自身が再び政務につくことを宣言しました。

 この後、変法派への弾圧が続きました。譚嗣同は日本側から亡命援助の手が差し伸べられましたが、亡命すれば運動が途絶え、光緒帝に申し訳ないとして、それを拒否しました。結果、皇后派に捕えられ、他同志5名の者とともに処刑されます。康有為と梁啓超は日本に亡命しました。これを戊戌の政変と呼びます。西太后は再び、いえ三度、垂簾聴政を開始し、光緒帝は幽閉され、亡くなるまで親政に戻ることはありませんでした。

 浅田次郎の作品に「蒼穹の昴」という小説があります。これは、まさしくこの戊戌の政変を取り扱った小説です。西太后の側近として仕えた宦官と光緒帝を支える若手官僚の架空の人物を主人公にして、そこに史実の人物を登場させてドラマを展開させています。この時代の中国を取り扱った日本の小説は珍しいですね。またNHKが日中共同制作でこのTVドラマを放送しています。面白いのは、西太后を日本の女優の田中裕子が演じていることです。中国の女優はこの役を演じるのを嫌ったため、キャスティングが難航したことによるようです。現代中国において西太后は良い評価を得ていないどころか、かなり嫌悪感を持たれているように感じます。

アメリカ参入

 ここでアメリカの動きにも触れておきます。きみも知ってのとおり、アメリカの歴史は入植者が東海岸から西へ西へと進んできて、領土を広げていくことによって創られてます。そして、西海岸に到達した彼らはそこから広がる太平洋に進出し始めました。1897年には、ハワイを併合します。翌1898年にはスペインとの戦争に勝利し、グアムとフィリピンを獲得いたします。そして次に目指すのは中国大陸となります。

 1899年、アメリカは清国市場の開放と機会均等の原則を列強に対して提唱しました。中国市場の門戸は諸外国に平等に開かれるべきというものです。これは、中国に対する帝国主義的収奪へのアメリカの参加宣言を意味したものでした。


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