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きみに伝えるヒストリー㉖

北伐の開始

 孫文の死後、その念願である国民党の手による全国統一を成し遂げるという思いが、蒋介石の大目標でありました。そして1926年、蒋介石は「北伐」の号令を発しました。「北伐」とは、南方より軍を動かして北方の勢力と戦っていくことを言います。

 この時、華北から華中にかけては、ほぼ五つの有力な軍閥が割拠しておりました。そのなかでも特に勢力を伸ばしてきていたのは、満州の奉天(今の瀋陽)の軍閥である張作霖(Zhang Zuolin)でした。彼は関東軍と手を結んでおり、日本から得た軍事援助で北京に攻め入り、大元帥に就任しました。そして自らを北京政府、つまり中華民国の大総統と称しておりました。

 一方破竹の勢いで進軍してきた北伐軍はこの年の11月には長江流域に達し、徐々に蒋介石の権威が強まってきておりました。

上海クーデター

 この蒋介石の動きを快く思わないコミンテルンからの派遣者であるボロディンは、国民党顧問という立場を利用して武漢国民政府内の共産党員の発言力を増すように画策いたしました。

 そして中国共産党は上海で労働者や市民による武装暴動を計画します。

 この武装行動は1度目と2度目は失敗しますが、3度目で成功を収めました。そこで中国共産党の勢いに不安をいだいていた欧米諸外国や資本家は蒋介石を支援して暴動の鎮圧を要求いたします。これに後押しを受けた蒋介石は武力を持って抗議行動をしている労働者や市民を弾圧いたしました。これにより、上海の多くの労働者及びその幹部、共産党員が殺害されることとなりました。

 そして最終的には労働運動は地下に追いやられることとなりました。これが、後に上海クーデター(四・一二事件)と呼ばれるものです。

 このころソビエトでは、レーニン死後の党の指導権をめぐって、スターリン派とトロツキー派とが熾烈な争いをしておりました。

国民党政府の樹立

 コミンテルンは国革命への指導という面においては、スターリンの指導方針に基づいておりました。その方針とは、「国共合作」です。まずは、帝国主義との戦いを遂行している勢力を味方とし、蒋介石をそれを遂行できうる軍事力を持った人物と見て、彼を利用することを有益と見ておりました。ソビエトから見れば、この時点で共産党がそれに代わることができるとは考えられませんでした。

 蒋介石は諸外国からの支援とブルジョワジーとの妥協をもとに、華中の実験を掌握していきます。そして南京に正式に国民党政府を樹立いたしました。

 そして汪兆銘率いる武漢の国民党政府は共産党の独自兵力が増大していくのを見て反共へと転じていきます。国共合作で何とか存立していた武漢政府はこれにより崩壊していきます。

 ただこの崩壊の中、国民党の反共化に抗議した幹部がおりました。孫文未亡人の宋慶齢です。この後彼女はソビエトに亡命します。

 国共合作が決裂したことのより、武漢と南京は和解いたします。1927年、蒋介石は中央政治会議の首席に就任し、名実ともに軍・政の実権を掌握いたしました。そして、国民革命軍は北伐を再開いたします。

大正から昭和へ

 大正デモクラシー下にある日本では1925年には普通選挙法が公布され、同時に治安維持法も制定されました。これは、ロシア革命による共産主義の流入という「脅威」によるものから来ておりました。1922年に開催されたコミンテルン世界会議の決議に君主制の廃止が盛り込まれました。これは、皇室の廃止あるいはその廃絶を意味します。このテロ思想の流入を防ぐために制定されたのが治安維持法でした。

 1926年、加藤高明首相が在任中に死去したことにより、憲政会総裁の若槻礼次郎が第一次若槻内閣を組閣いたしました。蔵相は浜口雄幸、外相は幣原喜重郎、陸軍大臣は宇垣一成という緊縮財政協調外交路線内閣でした。

 この年の12月には大正天皇が崩御され、「昭和」と改元されます。

 若槻内閣において、浜口蔵相の後任の片岡蔵相が衆議院予算委員会で失言をしたことにより、銀行や企業の連鎖倒産が始まりました。蔵相の失言とは、「渡辺銀行が破綻した」と言うことでした。実際のところ渡辺銀行は金策にすでに成功していましたが、こもの発言で預金者が殺到し、休業に追い込まれることとなりました。

 もとより、第一次世界大戦後の好況後の不景気に悩まされていたところ、1923年の関東大震災で東京・横浜の工業地帯が壊滅したことも信用不安につながっておりました。このような状況下での大失言です。

 特に台湾銀行は債権回収不能に陥り、深い結びつきのあった成金企業である鈴木商店も倒産の憂き目にあいました。この台湾銀行救済案が議会で否決されたことを受け、4月に内閣総辞職することとなりました。後を受けたのが野党政友会の田中義一でした。

 ちなみに「成金」とは、将棋用語から来ており、急激に富裕層となった人のことを言います。第一世界大戦直後にはこの「成金」が多数生まれておりました。

満州某重大事件

 1928年北伐軍が北京に迫ってくると、これと衝突して敗れた張作霖は北京を脱出して故郷の満州へ撤収いたします。

 そして、6月に張作霖の乗った列車が奉天付近に辿り着いたときに、線路に仕掛けられた爆薬が爆発しました。列車はあっという間に燃え上がり、重症を負った張作霖はまもなく亡くなります。

 蒋介石の反日政策に同調していた張作霖の息子である張学良は、この事件を機に蒋介石に投降し、国民政府の青天白日旗を満州全土に掲げました。蒋介石は戦わずして、満州を治めることができたのです。

 この事象は張作霖爆殺事件(満州某重大事件)と呼ばれており、この爆殺は関東軍の謀略と言われておりました。もともと、関東軍と張作霖は同盟関係にあったのですが、ここにきて不仲になったことによるものということでした。
 
 関東軍謀殺説は奉天付近の爆弾は、線路脇に仕掛けられていたということに重きが置かれていることから来ております。ところが、状況からみて、爆弾は車内にあったと見られ、つまり列車が北京を出発する時からしかけられていたと見ることができました。この状況から真相はいまだ藪の中となっております。

 田中義一内閣はその後半年経っても、この事件の説明を昭和天皇にできませんでした。関東軍によるものとの疑いが払拭できず、責任をはっきりさせることが出来ませんでした。これにより、昭和天皇から叱責を受けたことにより内閣総辞職となりました。事件からちょうど1年後の1929年6月のことでした。

浙江財閥

 蒋介石はほぼ軍と政治の実権を握っていたとはいえ、その基盤は盤石とは言えませんでした。党内には、武漢政府の首席だった汪兆銘一派がまだ勢力をもっておりました。

 そして、何よりも重要な問題は、諸々の軍閥がまだ割拠していたことです。南の「広西派」、華中の西北部の「西北派」、山西省の「山西派」、そして張作霖は亡くなりましたが、息子の張学良が「奉天派」として東北一帯を支配しておりました。蒋介石の実質的な地盤は江蘇と浙江の二省ほどでした。

 この状況下、蒋介石軍は次々と内戦に勝っていきます。反蒋介石軍が結成されますが、やはり寄合世帯であるため、常に足並みの乱れがあったことも蒋介石軍にとっては有利でした。ただ、何よりも浙江財閥との深く結びついていたことが大きかったと言えます。経済面での強力な支持が戦争を有利に進めていくことを後押ししていきました。

 浙江財閥とは、上海の貿易・経済の発展とともに生まれた階級で、金融資本家グループです。蒋介石の上海クーデターを支援しております。財閥の宋子文は南京国民政府の財務部長(大臣)となり、ついで中央銀行の総裁にも就任します。彼には三人の姉妹がおり、二女の宋慶齢は孫文未亡人で、三女の宋美齢は蒋介石夫人となっておりました。

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