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Summer Sonicと一つの時代の終焉について

サマーソニックの二日目に参加した。PinkPantheressの不参加は非常に残念だが、終わってみれば例年以上に楽しめた。唯一例年と違ったことは、「今年は○○を見た!」というようなこの瞬間でしか味わえない何か、とんでもないものを目撃したという突出したものが無かったかもしれないということだ。裏を返せば何もかも素晴らしかったのだが、サマソニの歴史でいう03年のレディオヘッドの様な音楽ファンの共通項に成り得そうなものは無かったのではないかという感覚があった。自分が見た中でも、Christina AguileraもTylaもBring Me The Horizon(以下BMTH)もハイライトと言えるほど素晴らしかったし、人気を考えるとBE:FIRSTやIVEを挙げる人がいるのも納得できる。全てが並列に成り立っていて、最早そこに上下など存在しなかったとも言える。それは会場に詰めかけるファンの多彩さが物語ってもいた。しかしその多彩なトライブは正直混ざりはしなかったとも言えるだろう。私が目撃した中では海外の動向を追いかけている所謂「洋楽ファン」と同性である女性から「かわいすぎる!」と言われていたTylaにはその混淆と可能性を感じた。その後急いで向かったBMTHのライブにはロックTやグッズを身に着け、ヘッドバンキングするロックファンが大挙していて非常に驚いた。YVES TUMORのライブではほぼ見かけなかったし、それ以外でも出会わなかったから余計に目を丸くしたのである。00年代~20年代の総決算とも言えるライブを彼らと共に見るのは非常に特別な体験だった。彼らのライブを見ながら「新しい事象やトレンド」から距離を感じたことは無かったとも思った。事前の下馬評から言えば、見るべきアーティストにChristina Aguileraを挙げる媒体や言説は非常に少なかったと思う。だがパフォーマンスと舞台の完成度は圧倒的だったし、生ドラムの立体的な音像とプレイはこの日目撃した全てのアクトの中でも随一だったことは特筆しておきたい。去年のKendrick Lamarに続いて、スネア、タム、キックの音の粒立ちと金物の奥行きの鳴りが余りにも凄く舌を巻かざる負えなかった。アルバムアーティストとして最前線からは離れていると認識されていそうな彼女でさえ、ノスタルジックではない今日的な形で凄いライブをやってのけた事は自分には衝撃だった。「ムーラン・ルージュ」「バーレスク」といった映画の引用やHR寄りのギターの歪みは確かに古かったが、自身のデビューからの轍を踏まえたライブは部分的にはTaylor Swift「The Eras Tour」的でもあり、過去の人というレッテルは到底張れなかった。当然のように国内アーティストのCreepy Nutsや新しい学校のリーダーズも人を集めていた。批評による比較や分析、歴史性がすっかり消え失せた今においては、スノビズムはあり得ない場になっていた。00年代的ピッチフォークの姿勢程遠いものもない。


今回のサマソニでの体験で一つ明確に感じたことは、自身の趣味性に溺れることは心底退屈ということだった。自分は今までは英米の音楽を最優先に追いかける洋楽ファンだった。それも今年のサマソニの中では恐らく少数派だったと思う。自分が英米の音楽をまず追いかけていたのは、それらの音楽が歴史的に先行していたからである。英米の発展がまずあり、それが徐々に波及し世界で解釈されるという営みが存在した。しかし、今ではその優位性、信頼性はフェスの現場ではあまり関係ない。昔だったらBMTHに対してでさえ「50s~80sの音楽的要素がほぼ無いし、ブラックミュージックの咀嚼が無さすぎる」と感じて乗り切れなっただろう。だがヴィジュアルと音楽、AuroraやBabymetalを呼び00年代~2024年のカルチャーを総括して見せたステージは圧巻で、中音域を最大限解放した音像とも相まって見事だったと思うし、それが00年から出発したサマソニの最終日のヘッドライナーともなれば、この場に居れて良かったと思うしかなかった。最早アイドル(の要素)を馬鹿には出来ないし、寧ろそれこそがこの夏フェスを駆動させているのは間違いない。
 だからこそ、これからはさらに自身に視点に固執することなく「他者の視点で対象を見てみる事」が重要になってくるだろう。楽しむ上でのヒントを探す行為が重要とも言えるかもしれない(勿論自分を無碍にしない程度に)。それでも理解できない、分からない時はフェスと同様に別のアーティストに足を向ければよく、ただ黙ってその場を立ち去ればよいのだと思う。最も危険なのは(現在洋楽ファンが置かれている状況やファンダム問題にも近いと思うが)、自分の趣味性に近い人とばかり繋がる事なのだなと肌で感じた。雑誌のように表紙から最後のページまで重要度に序列をつけ共通認識を促しても、結局読者は自身の関心のあるページを切り抜きするだけになってしまった現在においては、ただ盲目性に拍車を欠けるだけにしかならないし、隣に更に面白いものがあるかもしれないのに、自分からその可能性を捨て去ることになるからである。総じて100以上のアクトが出演するイベントで、見たいのが片手で数えられるだけというのは少なくとも自分が望む事ではないからだ。新しいアーティスト、もしくは新しい魅力を見つけるのは我々リスナーの主体性であり、だからこそアジカンの「NANO-MUGEN FES.」や「星野源のおんがくこうろん」のような作家がファンを啓蒙するという姿勢は偉大な試みながらも少し過去になったのかもしれないとも感じた。リスナーが求める事とそのダイナミズムがフェスを作っているということを最も強く感じることができた年だった。








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