見出し画像

その後のこと

8月11日夜、腹痛・吐き気・気分不良が我慢の限界を超え、のたうちまわった。 途中薬を飲んだが耐えられず救急車を呼んだ。

その後痛みは治まったものの、後日の検査によりある診断が出た。 今日手術してください、と言われた。

その時、腹痛はもちろんあったがピークを超えていた私は手術に乗り切れなかった。 誰しもが、医者も親も、手術を受けた方がいい、受けてくれ、と言う。 時間が経っても良い方に転ぶ可能性はないとは言わないが限りなく低いのに、そして放置するリスクも高いというのに …    誰しもがそう思っていた。

私は今までこう思う、全然自分の身体を信用していなかった、と。 自分の心の内に、問いかけはしなかった、と。 一体この病気は私に何を伝えようとしているのかを。 長い間私の身体の主導権をいつも他の誰かに委ねていた、と。 もちろんそんな心の余裕もなくただ言われるがままになるのは当たり前のことだ。 だがしかし、自分の意志なく生き続けることに意味はあるのだろうか。 大切な自分は、大切な自分のものなのに、やすやすと他人に主導権を受け渡すのか。

どうしても耐えきれない痛みがあり、自分から手術してくれ、早く切って治してくれ、という気持ちではないのに、どうなるかはわからない先の事を考えて他人に選択を決めさせるのか、そんな意味のない生き方は例え生きる時間を伸ばすものとしても、もうしたくなかった。 もう、自分をないがしろにしたくなかった。 生まれてからずっと付きあってきた自分なんだ。

私は思う、きっと生きている私たちが思うほどに、死ぬということは大したことじゃないんだ、と。 きっと死んだその瞬間に思い出すだろう、本当の故郷に帰ったことを、そしてただ意識の中に浮かんで泳ぐ自分を見るだろう。 そして色々な本で見た、死んだ人は残された人に、そんなに自分を責めたり、悲しまなくていいんだよ、と見えない世界から幸せそうに語りかけるのだろう。

今は病院の処置室で栄養補給の点滴を受けている最中。 ヒマだからネットフリックスでおもしろいのがないか探していたら、少し前に娘と2人で観た映画があって、少し感傷的になった。 そうは言っても私も弱い。 別に弱くてもいいんだ。 もうあんな楽しい時間は過ごせないのかと、涙がこみあげる。 息子との楽しかった時間を思い出す。 でも、最後まで私は真実を信じるんだ。 私の決定権は私にある。 そうして得た時間は私の真の財産になる。 案ずることはない、人生は演劇と同じ。 1つの役を終えても、中身の自分は変わらず、また別の役を演じることもできる。 魂に死はないのだ。


子どもたち、私の大切な息子よ私の大切な娘よ、幸せをありがとう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?