☆おっさん骨肉腫(肺転移)闘病記 〜その23〜

現在、私はまたも腰の再発を抱えています。今回は一ヶ所でなく散在し、範囲もだいたい左の臀部全体になります。

今まで抗がん剤などもほぼ限界量まで行っていたのもあって、ついにDrから「もう打つ手がない」と言われました。

やはり今までああだこうだと言って理由を探したり納得したような素振りをしていましたが、そう言われてからしばらく気持ちは荒れました。1人で山奥の神社に行ってみたり、子どもにキレて家を飛び出したり…。どうしていいかわからなくなっていたんですね。

今こうしてnoteを書いているということは、気持ちは落ち着いたからです。今回はあまりああだこうだと言って理由を説明したくありませんが、結局良い悪いの判断を手放して、あるがままに受け入れる心づもりが出来たからです。

私を含め、特に家族、また関係する人のほとんど全ての人が病気に負けてしまう、またなること自体が悪い事だと内面では感じていると思います。「あなたがんでーす!若いのにお気の毒〜!」と明るく言う医者はいませんね?だからこそみんな難病と闘う私を「かわいそう」と思うわけですしまた自分でなくて良かった、と安心するわけです。また、「負ける」という表現を使うことが既に勝ち負け、つまり良い悪いの判断をしている事になります。ですがそれは真実でしょうか。病気になっちゃいけないんですか?障害があっちゃいけないんですか?親より先に死ぬ事は悪い事ですか?生まれてすぐ死んでしまう赤ちゃんは自分達よりも劣っているのですか?老人は死んでも良くて、子どもは死んではいけないのですか?という事は魂に重みの違いがあるということでしょうか?

そう考えると簡単な事なのに、こと自分の事となるとすぐにみんな損得やその他刷り込まれた考え方、自分がどう見えるかなどになびいてしまいます。真実はどうですか?もし子どものうちに死ぬことや障害を選んだ魂よりも自分が優れていると感じるならば、勘違いもはなはだしいと言わざるを得ません。そういう考え方自体がたくさんのアカが自分に付いてしまっているという事の証明です。

死というものに良いも悪いもありません。

また私の場合経験からよくわかるのですが、毎日朝起きたら健康で一日を過ごせる、というのは決して当然の事ではありません。私たちはみんないろんな環境がある中で、仕事や家事や余暇・趣味など自分なりに上手にやりくりしながら、自分はまあまあうまくやっている、自分はそんな病気になるはずがない、自分は人生を切り開いてがんばって生きている!、と思っていると思いますが、私がここで言いたいのは、決して私たちは自分の力で生きているのではなく、「生かされている」という事です。自分の体からいきなりじゃがいもがはえてきて、水も自分で作れます、光を生み出して浴びれます、もう1つ口があって、必要な時に勝手に自分に気持ちいい言葉をささやきます、なんて人間はいないですよね?みんな自然の力、つまり地球の力、宇宙の力、周りからの愛を頂いて生きているわけです。自分が自分の力で生きている、と感じるのはただ今の環境にうまく適応しているというだけのことで、そういった力によって生かされている、という事実は揺るぎません。ですから環境が激変した時にその人の真価が試されますね? そう考えると、全てが奇跡です。目の前の米1粒すら奇跡的に極めて理路整然とした、全く無駄がなく調和された自然の力というものが存在します。いろいろな研究分野でその根本を突き詰めていけばいくほど、神がかったエネルギーというものを信じざるを得ないそうです。そういった事が今次第に解明されつつあるようです。そういった今までかえりみてこなかった事に思いを馳せて欲しいと思います。何が言いたいか、といえば、私たちは生かされている、という事を認識して、毎日健康でいられる事や自分の周りにある物や出来事に感謝して欲しいという事です。決して当たり前ではないのです。

さていろいろな人生がある中で、人生(今生)、また魂の目標とは何でしょうか。私の経験、見たり聞いたり学んだ事からお伝えしたいと思います。

今生、すなわち1つの人生に関しては一概には言えないでしょう。それぞれに果たしたい役割があり、目標は違うからです。ですがそれらいくつもの人生を通した魂の目標としては思うところが1つあります。それは真実に気付く、近づくことだという事です。いったい自然はどのようにして成り立っているのか、人間とはどういう存在なのか、私たちの真のエネルギーは何なのか、見ている世界はどのようにして現実となっているのか、人生、魂の目標についてもその1つでしょう。1つキーになるのは見えない世界をどう捉えるか、です。個々人によって考え方は自由ですが、私たちは日々感じて知っています。「見えている物よりも、(感情や空気感などの)見えない物の方が重要だ。」また、「見えない物にこそ(人を動かす)パワーがある。」と。

1つ話したい事があります。私が最近感じた事ですが、真に素晴らしい人間は本当にニコニコしている、という事です。私たちが頭に描く素晴らしい人間像と真に素晴らしい人間とは、少しズレがあると思います。これは頭ではなく、見ている感じでわかります。本当に一瞬一瞬を楽しんで生きている感じが伝わります。苦しみやプライドなど、余計なものは感じません。病気で苦しんでいた私はそのように努力する事は出来ても、何故そのように出来るのかがやはり実感として掴めませんでした。ですが最近わかったように思います。それは、良い悪いの判断を手放して、全てを受け入れているからだ、と。これは言葉で見ても共感できないかもわかりません、ですが今私はこのような状況になっていろいろな事象に思いを馳せようやく、その感覚が理解できた気がします。これまでの人生いつからかずっとギスギスした感じを私は内面に抱えていました。それは実は何かに傷ついたりした経験が元で常に良い悪いを判断していたからに他なりません。人や事象に良い悪いのレッテルをつけて、必死で自分や周りは良い方にしよう、損はしないようにしよう、また周りから良く見えるようにしよう、と自分の周りに保護壁を作っていました。もちろんこれは私だけの話ではありませんよね!病気になってからも常にそういう見方で見ていたわけです。あの考え方は自分の味方、あのやり方は自分の敵、というように。そう文字通り必死で工夫して〝生きて“いたわけです。でも本当は受け身なんですね。この状況にきてようやくそれがわかりました。私たちは日々生かされていて、例え難病であっても戦争している相手の国の兵士であっても、敵なんかこの世の中に存在しないのです。それは全て自分の中の判断基準だけの話です。

全ての物事には理由があり、真実の中には罰という発想はありません。明日死ぬとしても、それを受け入れられますか?

周りから見たら不幸でしかない人生にも、理由があり、無駄なことは自然界が教えてくれる通り、この世の中にありません。20で死んだっていいじゃない⁈、40で死んだっていいじゃない⁈、逆に105まで生きたっていいじゃない⁈。早かったら早いで文句を言い、遅かったら遅いで文句を言う。私たちはまだまだ赤ちゃんのような存在です。「足るを知る」この言葉は大切な教訓をふくんいると思います、特に今のような物質主義の社会では。少し話がそれましたが、1つの人生だけを見たら不公平に思えても、トータルのレベルで見たら不公平などなく、また実は不自由な人生であればあるほど、気付かせてくれるものが多く、実り多き人生でもあるのです。これは自分だけに限らず、親や子ども、近しい人物に大きな試練があった時もその通りです。気付く、つまり経験として体得できる事が必ずあるはずです。

ではこれから私は日々どのように生きていくのでしょうか。また皆さんはこれからどのように生きていくのでしょうか。

それはもちろん、ご自身で見つけていくものです。そして私からは今私が日々頭の中に入れている文章をお伝えしたいと思います。

「信じていれば、与えられる。」


最後に、というのは人生の最後という意味ではないですからご心配なく。この記事の最後に、もちろん、私はあきらめたわけではありません。病気の克服を信じ、日々歩んでいます。ただ、このタイミングでこの人生を終える事が私にとって、また周りの人達にとって最適であるならば、喜んで受け入れます。今まで生まれてすぐに天に戻った魂や幼少のうちに戻った魂は、そう思っていたのではないでしょうか。


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