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吾奏の妄想力③シン・ゴジラの何がどう鑑賞に値するか/映画館に足を運ぶ気構えとしての「芸術的意義」

映画「シン・ゴジラ」が大盛況です。そして、その盛況ぶりを耳にして「じゃあ観てやろう」という方も大勢いるように感じます。気をつけてほしいのは、大袈裟な賞賛を耳にいれてしまった結果「むしろ気に入らない」「みんなが言うほどのものじゃない」といった落胆に陥りやすく、映画館に支払った代金や費やした時間を「損失計上」してしまう事。それを避けてほしいがため(……というのも、私自身この映画に感銘を受けたので)「シン・ゴジラのどこがどう鑑賞に値するか」について、ぜひ摂取してほしい良質なワクチンを、おせっかいにも処方しようというわけです。もちろん、このエントリを見ずに鑑賞していただいて何も問題はない。ですが、この文章ではシン・ゴジラの「芸術的価値」にあえて言及し、「よいものを観たのだ」と実感できるよう促すことを試みます。ポイントは二つあって、1点目は「ストーリー」、2点目は「製作技法」となります。
(以下、ネタバレは極力含まないよう工夫してあります。未鑑賞の方にもお読みいただけますので、ご安心を……)


1)庵野秀明という作家の謀(はかりごと)たる「文脈の価値」

シン・ゴジラの製作を担ったプロデューサーの一人が、以下のようなニュアンスの興味深いコメントを発表しています。

「情報量が100倍、200倍とあるんです。少なくとも1回見ただけでは絶対理解できない。庵野さんが埋め込んでいる全部の情報を理解することは不可能」(エグゼクティブ・プロデューサー 山内章弘)

映画の企画がスタートした頃、脚本を依頼された庵野氏は製作を担う東宝へ「G作品メモ」なる資料を提出したといいます。そこに書かれていた「原案」のすべてを知る製作陣の、ネタバレを避けた発言。つまり本作は「膨大な情報が埋め込まれているにもかかわらず、映像化されたのはヒントばかりで、回答はまるで欠落した状態で提供されている」のです。

作家・庵野秀明は文脈に秀でている

そもそもシナリオライターとしての庵野氏は、頭の中のすべてを世に開示するタイプの作家ではありません。執筆前に膨大な量の設定情報を練りあげておき、その上で「情報を意図的に欠落させた作品」を観客に提供する。当方もいちおうクリエイターですが、なかなか真似出来る態度ではないと思います。考えたことをすべてひけらかしたくなるのがクリエイターの性(さが)だからです。庵野氏はこれを「サービス」と位置付けています。「こういうのが好きでしょ?」というわけです。

庵野氏自身、ウルトラマンや仮面ライダーといった変身ヒーローもののテレビ番組に対し、欠落した(というより存在しない)設定を補って楽しむことをよしとする、典型的なオタク第一世代です。子供向けのコンテンツをけなすことは簡単ですが、「実は大人が驚くような事情が内包されているかもしれない」といった邪推をして二度三度楽しむ。これはオタク道の本質といえます。だから作家となった庵野氏がメタ的なミステリーを作中に仕掛けておくことは、観客としての自らを意識する氏にとって間違いなく「サービス」なのです。

と同時に「マニア(いわゆるオタク)が楽しめる余地を作り、ふところを開けておいて飛び込ませる」といった演出手法は、20世紀末から21世紀のネット文化と非常に親和性が高いものでした。庵野氏が名を馳せたエヴァンゲリオンシリーズはちょうど90年代後半に登場、まさにWindows95やInternetExplorerの隆盛と歩みをともにした傑作ですが、作品本編中でミステリアスな展開をみせる一方、物語の真相は伏せるだけ伏せられました。それが2ちゃんねるなどの掲示板やブログに火を点け、膨大な書込みを促す結果となった。「私はこう思った」「あなたはどう考えたか」という謎と回答が猛烈なBUZZ(バズ)を産み出した。こうしたネットユーザーに紐付く世界観の「広がり」がエヴァの大ヒットにつながり、庵野さんはヒットメーカーとして名を馳せます。しかし、その演出手法自体はヒットを目的としたものではなく、むしろ「深い文脈を構築しつつ埋め込んで見えなくする」という、言い換えれば「作品をわかりにくくするスタイル」であって、「わかりやすくしなければエンタメにはなり得ない(わかりやすいものはヒットする)」という発想とは真逆。エヴァのヒットは、いわば非エンタメ=芸術的価値に紐付く作風の帰結であると言えます。

シン・ゴジラで注目すべき「謎」

というわけで、隠された文脈を意識しておくことはシン・ゴジラの作品価値を高めてくれるに違いありません。以下で注目すべき二つのポイントに言及しますが、ネタバレになってしまわないよう、箇条書きで簡潔に晒すこととします。

①シン・ゴジラはなぜ東京に二度来るのか
②シン・ゴジラそのものは何のメタファーになっているのか

この2点は議論の余地が深くとってあり、大変味わい深いものがあると感じられます。他にも謎は沢山あります。もしもあなたがシン・ゴジラを観た後で「わからないことだらけだぞ」という感触を得られたならば、明らかに、本作が持つ芸術的価値に触れた帰結といってよい。ぜひ劇場へ足を運び、まずは単純なディザスター・ムービーとして鑑賞、見終わってからはネットに情報を求め、庵野という作家が持つ文脈の豊かさに触れていただきたいと思います。

2)媚びない映画が放つ「リアリティの価値」

2点目として、会話劇の持つ魅力に言及しておこうと思います。当方はCMの監督・プロデューサー業を営んできた事情もあり、映像技術の変遷を目の当たりにしてきました。特にここ20年における「CG(コンピューターグラフィックス)」の台頭は著しい。またCGがもっとも活きる表現といえば「ジュラシック・パーク」に代表されるモンスター映画であり、映像技術はひたすら「リアリティ」を求め続けてきました。ところがその一方で、誰にも言及されてこなかった問題点が根を下ろしていた。「映像はどんどんリアルにすべきなのに、どうして会話劇はリアルにすべきでないのか」という自己矛盾です。

「自己矛盾」をかかえた映画文化に
叩きつけた「本質的回答」

架空のモンスターが登場する映画……すなわち怪獣映画は、映画の中でもかなり極端な「フィクション」です。それ故、リアリティがないといって大人から敬遠されがち。特に着ぐるみを使った特撮は怪獣映画嫌いにとって格好のエサでした。「人間が中に入って怪物を演じている。それを怖がれという演出がくだらない。子供向けだ」という意見。その反動から、ハリウッドを中心にCG表現はリアリティを磨いてきました。一方で「台詞」のリアリティはどうでしょうか。たとえば水族館を舞台にした映画があるとします。飼育員同士の会話は、一般観客に理解できるでしょうか。本来なら専門用語が飛び交う筈。しかし映画屋は脚本を丁寧に改稿し、専門用語を減らす努力を行っています。舞台が大企業であろうと、大学であろうと、おおむね専門用語は排斥の対象。観客が理解しやすいよう「噛み砕いた表現」に徹してきたのです。しかもモンスター映画のシナリオでは、ファミリームービーとしての仕上げを目指すあまり、子供が理解できるぐらいの難易度に抑え込むことが目標におかれました。つまり映画における台詞は、おおむね観客に「媚びて」きた、そして「リアリティはないがしろにした」のです。

かつて映画は総合芸術と呼ばれていました。芸術というだけに難解な映画も数多く産み出されていた。ところがエンタメを目指すあまり映画文化は堕落の一途を辿った。背景には20世紀に台頭した「テレビ」の影響が色濃く出ているといえます。テレビは無料放送が常であり、数千万人へ向けて「同じ内容」を提供します(全員に同じ内容を放つというのは、特殊かつ異常な状況です)。そして「理解できなかった不特定多数の人間から浴びせられるクレーム」に対応するのがテレビ屋の基本的な態度となる。内容が理解されなければそのプログラムは悪。非道。そうやってテレビは「媚びる」ことを主眼において制作されてきたといえるのです。

そのテレビがメディアの頂点を極め、多額の予算をハンドリングし、映画へもかなりコミットし始めた。特に日本では邦画の製作者に名を連ねることが多くなった。結果として映画のシナリオはリアリティを追求するのではなく、わかりやすい、ありえない会話でお茶を濁してきたのです。

本作「シン・ゴジラ」における会話劇は、とことんリアルです。だから登場人物が多い。たった一人の卓越した主人公……名探偵や変身ヒーローがすべてを解決するというストーリーラインを拒絶した。徹底した取材をもとに丹念に編まれたシナリオは、あらゆる立場を持つ人間が画面狭しと右往左往する様子を描き出します。中には災害対策の一環で登場人物の役職が変わっていく……といったディテールまでが含まれている。ここに本作の「映像芸術」としての存在意義があります。すなわちテレビ文化の影響によって会話のリアリティを喪失する一方、映像技術だけがリアルに進歩したという「自己矛盾」をかかえた映画文化に対し、シン・ゴジラは「本質的回答」を与えているのです。

非常識な「厚み」のシナリオ、その恩恵は……

さらに、映画制作の「常識」を打破する試みがシン・ゴジラには含まれていることに言及しておきます。本作の長さは119分。映画用のシナリオは1分が1頁に相当するよう執筆されるものですから、台本は120頁程度に収まっていなければならない。ところが(噂によると)シン・ゴジラの台本は200頁を超えるそうです。分厚い台本を目の当たりにして「2時間に収めてください」と主張する製作サイドに対し、庵野監督は「早口で喋らせるから大丈夫」と啖呵をきったとか。彼はシナリオ開発の段階で政治家や行政に取材を重ね、その際、難解な法律用語などを猛スピードでまくしたてる様に驚嘆したそうです。「早口で喋らせる」演出がリアリティ追求の第一歩。膨大なシナリオは確信的な犯行でした。しかも結果は119分。見事な手腕です。

しかし……こんな台本を青写真として最初に与えられたスタッフはどう感じたか。当方は撮影現場を良く知るだけに「弱り顔」が目に浮かびます。というのも、撮影のプロたちは「何頁が何分相当だから一日に撮れるカットは何カット」といったノウハウをベースに、何週間もの撮影スケジュールを隙間無く構築しなければならないからです。スケジュールは予算に直結する。まさに食い扶持です。一歩間違えれば自分たちの責任問題にもなる。なのに今回は最終的な仕上がり尺と頁数の相関関係が読めない。独特かつ斬新な演出手法を目の当たりにして、役者・プロデューサーよりも、むしろ演出部・制作部・撮影部・照明部・美術部・衣裳部……といったコアなスタッフたちが(おそらくプロ中のプロだけが集められたが故、)盛大に戸惑ったことでしょう。

当然のごとく現場は不穏な空気をはらみ、やがて反発につながっていく。あのアニメ屋は正気か。あいつに何がわかるのか。段取りが成立しない。実写のプロとして培ってきた「ノウハウ」が通用しないとは、どういうことだ……樋口監督のコメントによれば、撮影が進むにつれ、庵野氏は現場のスタッフ「ほぼ全員」を敵に回したそうです。ところが蓋を開けてみればこの大ヒットぶり。噂によると反発したスタッフも手のひらを返すように喜んでしまっているとか……本作の舞台裏では、映画(のヒット作)を産み出す手法そのものに革命が及んでいたのです。

逆に「邦画がつまらない」と叫ばれ続けてきた理由が、ここに色濃く表れている……という言い方もできます。馴れ合いで培ったノウハウを打倒してでも表現をリッチにしたい、という勇気ある映像作家が邦画業界には現れなかった。いたとしても予算を提供しようという製作者が現れなかった。皆、業界で長いものに巻かれながら業界人として生きることを選択してきた。そこへアニメ畑で名を上げたヒットメーカーの庵野氏(と、それを支えた樋口氏)が風穴を開けた。この所業はいわばアートの本質です。そもそもテレビに代表されるエンタメはある種のポピュリズム=数的優位に立とうとするものであり、裾野を広げるためマニアではなく一般人の意見に耳を傾け、従ってイレギュラーな奇策を好みません。一方でアートは常識を破壊することに主眼を置くものであって、本質的には「多数が受け入れないもの」「浸透したスタイルを覆すもの」を目指すべきです。不思議なことに本作は「まごうこと無きエンタメ」でありながら、その資質(産み出されたプロセス)は「まごうことなきアート」の流儀なのです。従って、もしもあなたがシン・ゴジラを鑑賞した後で「こんなの観たことないぞ」という感触を得たならば、それは「アートして映画の価値を体感した結果」に他ならないのです。


……以上が、吾奏の考える「シン・ゴジラを鑑賞する上で必要な態度」です。つまり本作を味わうには「1.一回観ただけではわからないし、わからないことは他人の解釈を見たり聞いたりして楽しもう」「2.エンタメは斬新さを拒む分野だけど、この作品の技法はエンタメとは言い難いほどチャレンジングです」という、すなわち<アートとしての存在意義>を意識すべきだ、ということ。そう考えてれば、おそらく1800円をまるごと損失計上することはない。むしろ2回、3回観てみたいと思えるのではないでしょうか!

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