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隷属状態からの解放は最高の徳とされるが…:聖典クルアーン「町章」11節をめぐって

(11:سورة البلد){وهديناه النجدين}
《さらに、われら(アッラー)は二つの道(ナジュド)にかれ(人間)を導いたではないか》

《聖典クルアーン》「町章」第11節

岐路に立った時

人間論一般として、上の聖句を読んだとき、何が教えられているのだろうか。人の生きざまは様々とも教えていたアッラーではあるが、ここでは、2つのナジュドに導いたとしている。アッラーズィー(*)によれば、アラビア語の専門家たちは、ナジュドとは、「高地の道」であるとし、それを根拠に、眼に明らかに見えるような高い場所にある道がナジュドであり、さらにそこから、その二つの道が、善の道と悪の道であるという、注釈学者たちの通説につながったとしている。これについてはさらに、アブー・フライラからの伝承もある。ムハンマドは『その二つは二つのナジュド、善のナジュドと悪のナジュド。悪のナジュドはあり得ない。あなたがた皆が好むのは善のナジュド』と言ったと伝えられている。そして、この箇所は、《人間には、なにものとも呼べない、長い時期があったではないか。本当にわれは彼を試みるため混合した一滴の精液から人間を作った。それでわれは聴覚と視覚をかれに授けた。われは人間に(正しい)道を示した。感謝する者(信じる者)になるか、信じない者になるか、と。》(人間章1-3節)とも重なっているとする。この聖句に言う「道」の語には「サビール」が用いられている。これは、比喩も含め広く「道」を指す言葉である。手段や方法の意味も持つ。この聖句との整合性から言えば、ナジュドを道の意味で理解するのもわかる。

しかしながら、ナジュドには不定名詞の用法として「ナジュド高原(サウジアラビア中東部の高原地帯)」があり、また「ナジュド・イーラーナ」と言えばイラン高原のことであることからもわかるように「高原、高地、大地」の意味の方が今日では一般的である。そうであるならば、ナジュドは「道」から想起されるような線のイメージの言葉ではなく、「原」から想起されるような面のイメージの言葉かもしれない。善と悪の二つのプラットフォームを「高原(ナジュド)」という言葉で人々に示し、導けるよと言ってはいるけれど、実際に信者が降りるのは善のプラットフォームであって、悪のプラットフォームには降りない。ところが降り立ってみると、高原。パミール高原ではないけれど、高原とはいえ、空気は薄いし、路も険しい。そして《人は山の中の険路(アカバ)を突き進もうとはしない》につながっていく。

二つの奴隷解放

こうして空気が薄いかもしれない「高原」に、アカバがある。山中の険路、悪路である。そして《アカバが何かを知らせるものは何か?》と「高原の険路」の何たるかが問われるのだ。善のプラットフォームの中の、険しい道である。まずは《ファック・ラカバ》だと言う。

アッラーズィーによれば、「「ファック」とは、禁を解く分離のこと。たとえば、「足枷を解き、首枷を解く」のような。「ファックッラカバ」とは彼が奴隷であることと彼の奴隷としての属性とを、自由を付与し隷属を無効化することによって、分離すること。同様の例として、人質の分離がある。それは、人質の縛りを除去すること。あなたが解放したすべてのことを「ファカクタフ」という。「本をファッカ」したと言ったら、本の扉を結ぶ紐をほどく?こと」である。

そこでアッラーズィーはハディースを引用する。しかしそれは、それぞれに「奴隷解放」の章に関連ハディースをまとめている『2大正伝』からではなく、『ダールカットニーのスナン』というハディース集の中の正伝ハディースである。「楽園に入れてもらえる行いを教えてほしいというベドウィンからの質問に対する答えである。『イトカッ=ナサマティ・ワ・ファッカッ=ラカバティ』 عِتْقُ النَّسَمَةِ وَفَكُّ الرَّقَبَةِ

そのベドウィンは、その二つは同じものではないのかと質す。ムハンマドは、答えて『いや、別のものだ』と答えたのである。『イトカッ=ナサマティは、それを一人で行うことであり、ワ・ファッカッ=ラカバティは、お金を援助して共同で解放を行なうことだ』と言った。さらに補足しておけば、『ダールカッニーのスナン』の注釈によれば、「ナサマ」とは(霊とか、息とか、自身とかの意味なのだが)ここでは、誰かに所有されている男女の奴隷のこと。それを「イトク」するとは、「その奴隷の解放を単独で、自らの財産から(の拠出で)完全に行うこと」になる。「ファッカッラカバ」については解放の対価の支払いの一部を担って支援すること」と解されている。つまり、奴隷解放と一口に言っても2つの種類があって、単独で身請けを行ない解放する場合と、身請け金等の一部の支払いを担って解放を行なう場合である。本節の《ファック・ラカバ》はその両方を含む。

奴隷の臓器が身代わりになる不条理

なぜ、アッラーズィーは、ブハーリーとムスリムの2大正伝から引かなかったのであろうか。ここでは、『正伝ブハーリー』に収められているハディースに、その原因を探ってみよう。「奴隷の解放」と題された書の冒頭には、「奴隷を解き放すことと、その功徳」とあり、まず町章の13から15節、すなわち、神の言葉《奴隷を解き放すこと。飢饉のときに孤児や縁者に食べ物を与えること》が掲げられている。

そしてアブー・フライラからの伝承から始まる。「預言者は『ムスリムの奴隷を解き放した誰のためにも、アッラーはその体の各臓器を奴隷の体の臓器によって地獄の火から守られる』と言った」とした後に加えて、「これをサイード・ブン・マルジャーナがアリー・ブン・アル・フサインに伝えると、彼は、以前アブドゥ・アッラー・ブン・ジャウファルから一万ディルハムあるいは千ディナールで買った奴隷のところへ行き、彼を解き放した」その効果にまで言及している。

それに続くのが、どのような奴隷を解放するのが最もよいかという問いに対する答えである。預言者は『価が最も高く、その主人にとって最も大切な奴隷だ』と答え、それができないときには、『奴隷の仕事を助けるか、または、それが不器用の場合、代わりに働いてやるがよい』とし、それもできないときには、『人々を悪から遠ざけよ。これは汝自身に対して行う一種の施しだから』と答えたという。』

ブハーリーの最初のハディースには、驚かされる。解放された奴隷の臓器が、解放した元所有主の臓器を火獄の火から守るというのだ。死んでもなお、しかも、審判後もなお、この主従関係が元奴隷を縛るのかということだ。そう聞けば、地獄の火にはさらされたくない、あるいは、地獄の火にさらされても生き残りたいと思う輩は、奴隷を解放することではあろう。アッラーは何でもできるし、ムハンマドは誤謬から最も遠い預言者なのであるから、その言葉を疑うことはできないが、その日、友人とも親戚縁者とも配偶者とも関係なく審判を受けるはずなのに、それ以降もなお、そうした主従の関係が残るとは信じがたい。 

奴隷制度の温存⁈

次に、ブハーリーの二つ目。解放するのであれば、主人にとって最も大切な一人。それができなければ、奴隷を解放するのではなく、代わりに働いたり、手伝ったりせよとなっていて、それもできなければ、人々を悪から遠ざけよとなっていた。これでは、2番手3番手の奴隷の解放はもちろん、すべての奴隷の解放にまでなかなか至らない。奴隷の解放は、おそらく、奴隷に依存していた当時のクライシュ族にあっては、それこそ、空気の薄い高地で、それでもあえて行うような善行だったのかもしれないし、そうした社会的状況の中で、ムハンマドの言葉も、あるいは、それを集めたハディース学者たちも奴隷の所有者たちに一定の理解を示し、彼らの利益を確保したうえで、あえて、イスラームの教えとは矛盾するような言葉を発したのかもしれないと、奴隷制の根深さを思わずにはいられない。

これに対し、『サヒーフ・ムスリム』の奴隷解放の書の冒頭は、『共同で所有している奴隷を解放しようとする者は、もし奴隷の値に相当する十分な資金のある場合、奴隷の正当な値を決めた後、共同所有者にそれぞれの負担金を払わねばならない。このようにして奴隷は解放されるが、それ例外の場合には、解放しようとする者の負担分だけ奴隷は解放されることになる(注:共有の奴隷を解放する場合には、他の共有者の負担相当分の償いをすれば個人でも開放することは許される。共有者全員によって解放されない場合は、奴隷自身が不足分を払って自ら自由を買うことになる)』から始められている。つまり、ムスリムは、奴隷解放の具体的な成立の基準とその手続きを示していた。

なお、奴隷解放者の身体の器官が秘所も含めて、業火から守れられるというハディースは、ムスリムにおいては、奴隷解放の最後部に置かれている。『信仰を持つ奴隷を解放した者に対しては、アッラーは、その奴隷の身体の器官(イルブ)に相応する解放者のすべての器官を業火の中から放免される』(アブー・フライラからの伝承)。『信仰を持つ奴隷を解放した者に対し、アッラーは、その奴隷の身体の器官(ウドゥウ)に相当する彼のすべての器官を業火の中から解放なされる。彼の秘所も解放されるのである。』(アブー・フライラからの伝承)[1]と、ブハーリーにも引用されていたハディースも採録されている。そして、奴隷身分の父親の解放が、息子が父親の恩義に報いる唯一の方法であるとして、その書を閉じている。 

『汝らは皆それぞれの群れの責任者』

このように、二つの正伝の奴隷解放の書は、解放する側に奴隷解放を促す内容が中心になっている。当時、奴隷制度が当たり前に社会に根付いていたことをよく示している。古代アテネでは人口の4割、スパルタでは8割が奴隷身分であった[2]とされるが、アリストテレスは、『政治学』の中で「ポリス市民が完全な人間であり、奴隷は支配されるように生まれついた不完全な人間であるから、市民が奴隷を所有することは当然のこととしている。またそのような奴隷を獲得する戦争は、狩猟で獣を捕らえるのと同じ自然な行為だ、と言っている」[3]という。奴隷の解放は、農奴や南北戦争を例に引くまでもなく、そして、社畜と呼ばれるような現代社会のサラリーマンたちも含め、人類全体にとっての課題とみることができる。現在なお続く問題であるからこそ、この啓示の意味はとても大きいし、一方で、ムハンマドの時代にはまだ、全面的な奴隷解放にはとても至らなかったという現実もこれらのハディースは突き付けてくる。

ただし、奴隷制を温存する根拠となってしまうようなハディースが存在することも事実である。ブハーリーの奴隷の解放の書に含まれるハディースがそれだ。

『汝らは誰もが羊飼いで、その群れに対して責任を負っている。民の長は人々を指揮するもので、彼らの責任があり、男はその家族を養うもので彼らの責任があり、妻は夫と子供を世話する者で彼らの責任があり、また奴隷はその主人の財産を預かるものでそれに対して責任がある。このように、汝らは誰でも羊飼いで、その群れに対して責任があるのだ』と。このハディースが言葉どおりの意味で真実とされてしまえば、男性が家族を養う義務から解放されることも、女性が夫や子供の世話から離れて外で働くことも、あるいは奴隷を解放することもしなくてよい、あるいはするべきではないということになってしまう。 

奴隷解放は最高の善行(アブー・ハニーファ)

只働きをしてくれる人がいればこそ、物事はうまくいくのだ。支払われない主婦の働きがあってはじめて、彼女の旦那も子供も仕事や勉学に集中できるというものだ。しかし、それは妻として母として当然の務めだ言っても、上にあげたハディースやそれと同様の思想を信じる者たちにとって、そのことに何の違和感もない。男女の役割は原則として固定されているとして何の疑問も持たないであろう。何しろ、その昔アフリカ大陸から、アメリカへ奴隷を輸出していたのがムスリム商人たちだ。奴隷解放、黒人解放の運動がアメリカで起こらなければならなかったのは、このハディースがあったからだということさえできそうなのだ。文明の陰には只働きを厭わず、むしろ喜びとして行う人々の存在がある。だからこそ、ここにこの啓示の意義が見出される。それにもかかわらず《奴隷の解放》がくだされているのだ。それにかんするハディースは、当時のアラビア半島で、この至上の命令を実現するための時限的な運用原理に過ぎない。大原則はあくまでも奴隷の解放なのだ。

そんな中、アブー・ハニーファは、奴隷の解放が、「様々な自発的な善行(サダカートゥ)の中でも最高のものであるとした」とアッラーズィーは注釈の中で言及していた。《ファック・ラカバ》にかんして、彼は、上にあげたようなハディースに言及しながら、ここでの解放は、限定的なものに過ぎないと注釈をつけることもあるいは可能だったのかもしれない。しかし、彼はそれを行なわず、むしろ奴隷解放をできるだけ広い意味に捉えようとはしていなかったか。彼は、奴隷の解放がまさに至上の命令であることを正視していたとは言えないか。つまり、アブー・ハニーファも、アッラーズィーも、優秀な奴隷だけが解放の対象でそうでない奴隷は、そのままにとどめておくべきだとするのではなく、奴隷全体の解放を目指していたのではないか、少なくともこの二人は、奴隷がいない頼りのない状態の高地にあって、自らは薄い空気に苦しまされながらも、なお、頼りの奴隷を解放するという善行にあえて尽くそうとしたということだったのかもしれない。

 


脚注

(*)アッラーズィーは、12世紀のイスラーム学者。イランのレイで生まれアフガニスタンのヘラートで死去(1209年)فخر الدين الرازي「シャイフ・ル・イスラーム」にして「イスラーム神学の大権威」。関心領域は実に多岐に及び、彼の「理性主義」は従来の啓示と理性の調和の議論に現代にも通じる問題提起となっている。(https://en.wikipedia.org/wiki/Fakhr_al-Din_al-Razi) 本稿では彼の『大注釈書』(التفسير الكبير アッタフシールッカビール)の該当箇所を参照している。
[1] “من أعتق رقبة مؤمنة، أعتق الله، بكل إرب منها، إربا منه من النار”.

22 – (1509)

“من أعتق رقبة، أعتق الله بكل عضو منها، ععضوا من أضائه من النار. حتى فرجه بفرجه”.

23 – (1509)

https://muslim.lna.io/1445/

[2] 「アテネでは市民とその家族が半数以上を占め、奴隷が4割程度だった。一方スパルタでは市民とその家族、および在留外国人が支配者でありながら少数者で、被征服民のヘイロータイ(隷属農民)が7割以上を占めた。」([4]アテネとスパルタ[4]①アテネの人口構成[4]②スパルタの社会構成(『山川詳説世界史図録』p.19)YWH1304200

提供元:山川出版社 https://ywl.jp/content/C6R2b

[3] https://www.y-history.net/appendix/wh0102-042.html

タイトルページの画像:サウジアラビア ナジュド
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tuwaiq_Escarpment-14h38m25s-k.jpg#/media/Fil:Tuwaiq_Escarpment-14h38m25s-k.jpg

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