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ユニバースを読む:マルチバースとタウヒード

神は一つ、宇宙は一つ⁉

「マルチバース Multi-verse」、なんて魅力的な言葉であろう。ほころびが隠せなくなっている「ユニバース  Universe」論、「ユニ」でなければ「マルチ」。いや、「ユニ」を前提にしたときの科学的なほころびを繕う理屈を集めてみると「マルチ」だったということかもしれないが、一つのビッグバンから始まり、その宇宙が膨張し続けているという単一的宇宙論から、ビッグバンがいくつもあったとか、幾重かの膜の上にあるとか、紐であるとかなどといった多元的宇宙論。創造主の唯一性を奉じ、ややもすれば、単一的宇宙論に閉じこもりがちなイスラーム的思惟、タウヒード的思考にとっては、一度は整理をつけておかなければならない問題だ。

ラテン語の「ユニバース」

「マルチバース」と「ユニバース」を並べたときに、「マルチ」と「ユニ」の対比が着目され、「~バース」は自動的に「宇宙」だということになっているけれど、「マルチ」と「ユニ」は、ラテン語の語源にまでさかのぼって理解の助けにするのならば、「バース verse」についても、語源をさかのぼりたくなるが、実は、「ユニバース」には、一語としてラテン語の語源に遡ることができる。
「万物」を意味する universum である。この語はさらに「すべてを含んだ」を意味する universus に由来し、さらにそれは 「一」を意味する unus と 「~になった」を意味する versus からなるとされる。したがって、語源を踏まえると、 universe は、「一つ(unus)になった(versus)、存在する全てが合わさって一つになっていること」となるという[1]。

「バース」とは?

ところが、どうも「ユニバース」では用が足りなくなったというのが、「マルチバースという造語の登場の科学的背景だ。multiverse はラテン語の語源にも遡れそうな言葉だが、「多数 multi になった versus 」では、「宇宙の全体、存在するすべて」というニュアンスが、希薄である。マルチバースとはそういう宇宙観だと言えばそれまでだが、この「マルチ」のおかげで、「ユニ」から切り離された「バース」という言葉が浮かび上がってくる。
verse は、印欧祖語 wert- (回す)に遡ることのできるラテン語 vertere (向きを変える)に起源を求めることができる。この語はさらに「土をすき返した」を意味する完了分詞 versus となり「すきで耕した畝」「詩の一行」(畝のように一定のリズムが保たれていることの比喩か)をも意味するようになった。この語はさらに古期フランス語で、「詩の一行」を意味する vers となり、それが、たとえば英語に引き継がれて、「韻文、詩歌、詩の一行」などの意味になったのである[2]。

世界は韻文でできている

イスラームの唯一神信仰を一言で表せば、タウヒード、つまり、すべてを「一」に帰する考え方である。たとえば、人間について言えば、唯一神アッラーによって創造され、この世に生を享け、亡くなり、アッラーの許へ帰っていく。ユニバースを「全存在が合わさって一つになっていること」とするのならば、まさにアッラーの創造があればこそのユニバースともいえるかもしれない。
では、「マルチバース」は?多神教の世界のことなのか?いやいや、そんなに単純な話ではない。ヒントは「バース」にある。バースをあえて訳せば、ユニバースは、「一つの韻文」。宇宙が、一つの科学的な法則に支配されているという近代的なイメージと重なる。マルチバースは、多種多様な韻文。人間たちが紡ぎ出す生活のリズムを思う。

徴しを知る

verse のことをアラビア語で「アーヤ آية 」と訳すことができる。アーヤには、アラビア語特有の意味がある。アッラーの言葉の一節一節のことである。アッラーから大天使ガブリエルを通じてムハンマドにくだされた言葉の数々である。総数6348(112のバスマラ(=ビスミッラーヒッラフマーニッラヒームのこと)を数える[3]。聖典クルアーンが書冊として残されているため、1400年を経てもなお読み手に届けられている。6348は、いわば、創造主アッラーの存在の徴しである。そして信者たちはそれぞれの状況の中でそれらのアーヤを読むため、その解釈は読み手の数だけありうる。
さらに創造主アッラーの存在の徴しとしてのアーヤはそれだけにとどまらない。アッラーが刻一刻と創造を続けている限り、創造の数だけ、あるいは、被造物の変化の数だけ、アーヤが存在することになる。それこそ、一なる創造主アッラーの存在の徴しが織りなす多種多様なバースの世界とは言えまいか。

《読め》

ユニバースとマルチバース。二つの対照は、両者の間の「バース」、すなわち「アーヤ」の存在を明らかにしてくれた。クルアーンという書物に読むことのできるアーヤとその解釈だけでも「マルチ」の名に恥じないと思われるが、そこには、啓示によって下されてはいないが、森羅万象の中に読み取ることのできるアーヤも存在する。そう考えると、イスラーム的なユニバースは最初からマルチだったということもできそうだ。
ラテン語 verse の元の動詞 vertere も示唆するように、「向きを変えて」、宇宙の、世界の、アーヤを読み続けること。それが、もはや世界観の押し付けになりかねないユニバースを抜け出して、タウヒード的にマルチバースを生きる生き方ではなかろうか。
アッラーが最初の啓示を降ろしたとき、そこには、礼拝も、斎戒も、喜捨も、ハッジも、ジハードも定められてはいなかった。「もう一度「読む」ところから始めてみよ」と、ユニバースに言わせているようでさえある。
アッラーフ・アアラム

脚注:

[1] https://gogen-ejd.info/universe/

[2] https://gogen-ejd.info/verse/

[3] アーヤの詳細

タイトル画像:

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:CMS_Higgs-event.jpg


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