案外語られないジョブズの出自
スティーブ・ジョブズ。言わずと知れたアップルの創業者。彼の生涯、生き方、業績、ことば、影響などを語る書物や、ネット上の情報は数知れず。まさに影響力の大きさを見る思いだ。
それほど多くの情報があるにもかかわらず、案外触れられていないし、知られていないのが、彼の出自である。
まず、生みの親と育ての親がいることを知っていたか?関心がないのかもしれないが、これがほとんど知られていない、次に、ジョブズの誕生は、出産後ただちに里子に出すことが、ジョブズの母親の父親からの出産許可の条件だったこと。
さらに、出産場所はアメリカで、生みの母親はスイス人留学生。父親はシリア人留学生。つまり、留学生カップル。シリア出身のこの留学生との結婚を、スイス人留学生の父親が認めなかったというのだ。
このようにジョブズには生みの親が別にいて、それがシリア人とスイス人のカップルであった点については、それでも、少し詳しい情報ならば言及がある。
シリア人だということは…
シリア人と聞けば、次に気になるのは、信仰である。シリアでは、全人口の20%をキリスト教徒が占めるからだ。キリスト教の様々な宗派が、迫害を逃れシリアに安住の地を見出したケースも少なくない。宗派ごとの信者のコミュニティの結束が固い土地柄ということもできる。したがって、キリスト教徒であったとしても、そして、スイス人の彼女の家族もまたキリスト教徒だとしたならば、信仰が理由で、反対される可能性がある。
しかし、彼がもしもムスリムであったとするならば、そして、イスラーム法が、啓典の民の女性との結婚は認めていたとしても、父親が、拒絶反応を示すのは、想像に難くない。
ウィキペディアは、ジョブズの生みの父の信仰も明記している。それによれば、生みの父親の信仰はイスラーム。それも、ホムス出身のムスリムだという。
ホムスという町は、シリアの2大都市圏、首都ダマスカスと商都アレッポの中間に位置する第3の都市圏を形成。2011年から17年の間は、体制派との包囲戦にも耐え続け、多くの犠牲者を出しながらも、都市を維持。「革命の拠点」と称され、政府側からも最大限に警戒されるゆえんである。
一方で、かつては外国機関のある世界の都市で、外国人派遣者がもっとも住みやすい都市ランキングでトップに輝くほど、寛容で開放的な土地柄でもある。
ジョブズの生みの親の彼が、実際のところ、どの程度にホムス人であったのかは知る由もないが、シリア人とはいえ、ダマスカスともアレッポとも違う空気の中で育ったことは確かで、かつ、ベイルートのアメリカン大学で学んだとなれば、優秀で進歩的---おそらく信仰の面においても――な若者像が浮かんでくる。そういえば、個人的に交流のあったシリア人で、成人してから自覚的にイスラームに入信しなおしたと屈託のない笑顔で話す、エンジニア志望(当時)もホムスの出身だった。
「フィトラ」は消えない
ジョブズの生みの父親がムスリムであることが気になるのは、アッラーから人間に与えられる「本然の姿(フィトラ)」の何たるか、そして行方の見極めに、またとない範型を示してくれているからだ。
この聖句について、アブー・フライラが、ムハンマドの言葉を伝えている。
素朴に疑問が生じる。ムスリムの両親のもとに生まれ、本人の意志を確かめるまでもなく、ムスリムになってしまい、しかもそれが非アラブ圏の(つまり聖典の意味を理解することができない)信者の場合、果たして、本然の姿のまま育つことになるのだろうか。むしろ、「その両親がムスリムにしている(ユダヤ教徒やキリスト教徒はマニ教徒ではないとしても)」のではなかろうか。
尚、フィトラについては、アブー・ムアーウィヤからの伝聞としてアブー・バクルが伝えたハディースにこうも言われている。
言語の獲得によるフィトラの対自化により本然の姿以外のものが生じる可能性が示唆されているようにも読めるが、フィトラそのものが失われるという言及でない。
いずれにしても、多くの人々は知らないままでいる、本源の姿の存在自体に気付き、「教え(アッディーン)」に向き合うことが、求められている。それは親の問題ではない。たとえどのような親に育てられようが、アッラーによって埋め込まれたフィトラは、損なわれることがない。
ジョブズという若者
生みの親は、育ての親が大卒の学歴を持つ人物であることを熱望したというが、それはかなわなかった。ジョブズは、「フィトラ」との接点には乏しい子供時代を過ごすことになる。但し、このことは、ムハンマド(彼の上に祈りと平安あれ)においても同じである。啓示が降りたのが、彼が40歳の時なのだから、両親と早くに死別し、親族や乳母に育てられたとその子ども時代に、ムスリムもいなければ、アッラーのフィトラという考えもない。それにもかかわらず、彼は、アッラーからの預言者として啓示を受け、人々に教えを広げていく。そしてそのムハンマドに、アッラーは、創造に際しては、本源の姿が基になっているのだから、それに則って、教えに向き合えと教える。
ジョブズは、かつて人がユダヤ教徒やキリスト教徒やマニ教徒やあるいは、ムスリムとして育てられたように、それこそ今風の若者として育てられたのであろう。ただ、「本源の姿」という言葉を知っていたかどうかは定かではないものの、求道者的な、そして時にファナティックで、周りにお構えなく、あたかも本源の姿を探るかのような行動に溢れていたことは、彼の発言からも間違いがなさそうだ。
ジョブズは語る
ジョブズの名言から見えること。
1.ディーン(教え、宗教)と向き合う
2.フィトラ
3.思考の技術
最良の出来事
ジョブズを読む
人生最後の日を意識し、毎日、今日がその日のつもりで生きること。それは、アッラーの定めなり裁きなりを意識することに等しく、アッラーの教え、すなわち「アッディーン」に向き合っていることを意味する。また、自分自身の中に、何か、本源的な自分があると信じて生きること。ジョブズの場合は、組合せとしての創造と好きなことへの熱中であったと見受けるが、それは、まさに、習慣的な意味でのムスリムではなく、ある意味、そのレベルを超えた真正的なムスリムの姿と言えなくもない。
それは、100%、つねに完璧な人生を歩むことではないし、それが約束されることでもない。失敗しても折れることなく、めげることなく、愚直に情熱を傾け続けること。
ムハンマドは借金を残して亡くなったけれど、ジョブズは、そんなこともない。墓場に持っていくつもりなどさらさらなかったし、お金のために仕事をしたこともない。
言語により様々にそして幾重にも植え付けられた宗教なり、習慣なり、善悪なり、正邪、美醜があったとしてもなお、フィトラの持ち主であるという意識を持ちながら、日々を過ごす。そうすれば、おのずと、様々なしがらみが脱ぎ捨てられて、日々新しい自分自身を生きることができるというものだ。ジョブズに限らず人はみな唯一無二の存在ではあるが、いわゆる宗教2世、いや、人生に迷ってしまっているすべての人たちへのエールを読み取ることができそうだ。アッラーフ・アアラム。
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https://meigen-ijin.com/stevejobs/#meigen