大人のローマ速報 11月号②『その名はパストーレ』
現代に蘇りしファンタジスタ
ハヴィエル・パストーレは、全ての攻撃ポジションを高いレベルでこなせる控えの切り札であり、試合を変えるクラックだ。しかし、この称賛の言葉を屈辱と感じる人物がいた。
パストーレ本人である。
控えの切り札?試合を変える?愛されてはいるが、必ずしもスターターであることを望まれない彼は、昨シーズン主役になるためにローマへやって来た。しかし、蓋を開けてみれば加入当初の信頼はトリゴリアにはなかった。ディフランチェスコのプリンシパル・オーディションに落選したエル・フラーコは、原因のハッキリしない故障で長期離脱を繰り返して、チーム低迷のスケープゴートにされてしまう。
2019年の夏、多くのロマニスタが彼の放出を望んでいた。遅れてきたファンタジスタ、ガラスの貴公子、モダンサッカーの落伍者、不良債権、財政圧迫の高級取り。そのうちひとつだけローマ速報は首を縦に振る。そう、奴は本物のファンタジスタだ。
メッシやクリスティアーノ・ロナウドに慣れた今のサッカーファンは、ファンタジスタがどういったタイプを指すのか、その業の深さを知らない。彼らの閃きは戦術を一瞬で超越する。誰かが入念に用意したものを台風のように吹き飛ばす。ファンタジスタはフィールドの芸術家。かつてロベルト・バッジョは言った。「ファンタジスタはピッチで最も難しい選択をするんだ」
この夏、パストーレはローマ残留という最も難しい選択をした。これが彼の今季ひとつめの閃きである。そして、その真価を発揮し始めている。このインタビューを読めば、ぼくたちが見ているのは天才が努力をした姿であると判るだろう。
ハヴィエル、サッカーへの目覚め(1989-2009)
──若い頃のサッカーとの繋がりは?
パストーレ「たくさんの思い出があるよ。4,5歳からはいっつもサッカーばかりでね、その頃の写真もあるんだよ。学校でもストリートでもいつもサッカー漬けさ。まだテレビゲームなんてなかった時代だから、ぼくたちはとにかくサッカーの事ばかり考えていた」
──最初はどこでプレーを始めたのでしょう?
パストーレ「地元コルドバに町のサッカー大会があって、近所の人やいとこ、友人なんかと一緒にチームを作ってプレーしたのを覚えてるよ。みんなそれぞれ誰かの父親が監督を務めたりしてね」
──始めた頃から技術的に上手かったのですか?
パストーレ「今でも覚えてるんだ。ガレージで叔父とテニスボールを使ってサッカーをしていたことを。叔父に言われたんだよ。「お前がこのボールを上手く使えるなら本物のサッカーボールはもっと簡単になるぞ」って。ぼくはテニスボールでリフティングを練習し続けた。本当に毎日練習したんだ。それがぼくの情熱だったから」
──プロになりたいと考えていましたか?
パストーレ「常に頭のなかにその思いはあった」
──その頃のアイドルは?
パストーレ「その頃大好きだったのはガブリエル・バティストゥータ。これは疑う余地がない。アルゼンチン代表でも、イタリアでも彼はたくさんのゴールを決めて、当時は誰もがバティストゥータの話をしていた。部屋にはポスターを飾ってたよ。バティがローマに加入したとき、父はぼくにバティのユニフォームをプレゼントしてくれた。あれ、本当に嬉しかったな。もう少し成長するとリケルメが好きになった。ぼくにとっては、10番と言ったらリケルメで決まりって感じの選手だったね」
──キャリアのスタートはどのようなものだったのでしょうか?すべてが順調に進んだのでしょうか?
パストーレ「実際には簡単とは言えなかったね。まずはコルドバにあるタジェレスの2部チームに入った。
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