第137回フリーワンライ さよならと言えなかった


#深夜の真剣文字書き60分一本勝負

お題:さよならと言えなかった

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 電車が走る。線路のうえを踏みつけていく金属音と轟音に耳をふさぎながら、高架下にもぐると隙間から差し込む陽の光が淡くゆらめいた。

「うるさいなあ」

どうせその音で彼女が発した言葉は誰にも聞かれやしない。通る車も、反対側を歩くサラリーマンも、電車の通る音が彼女の愚痴をかき消す。

 高架下を通り抜け、町並みが広がる。彼女は耳にあてていた手をはなし、まだ明るい昼間の空を見上げた。冬は終わり、緑色の若葉が春を告げていた。

「…………風、気持ちいいな」

強風なんて吹いた日には髪型はおろかすべての形が崩れるから疎まれるものだが、今日は頬を撫でる程度でどちらかといえば心地良いものだった。
そんな彼女の心の中には、先程のとある場面が何度も繰り返されていた。

『なんで捨てたの』
『なんで聞かないの』
『なんでやらないの』

先輩面した役立たずたちの言葉にうんざりしていた彼女はついに言ってしまった。

『そんなに言うならやってみせてくださいよ』

無論、誰もできなかった。できないことを他人にやらせるくせに、自分がしろといわれたらできなかった。本来であれば、そうしてしまったことを恥ずべきことだ。彼女とて、誰もが心から悪い人間だとは思っていなかった。だが彼らは結託して責めた。

『生意気な口を聞くんじゃない』

結局は課長が止めに入り、彼女は責められない代わりに営業に出るように指示された。つまりは、もう帰りなさい、ということだ。そのことが不満で仕方なく、そして彼女のフラストレーションの元にもなっていた。

 誰も自身を見ていないことを確認すると、ポニーテールにしていた髪留めを外し、手にしていたペットボトルを持つ方の腕を振り回した。手から放たれたそれは、ゴミ箱に乾いた音を立てて沈んだ。そして近付くと蔑むような目でペットボトルが入ったゴミ箱をにらみつける。

「さよなら」

一人呟き、手櫛で髪を軽く整えると駅へ向かい歩き出した。本当は今の言葉は会社に、自身を責めてきたあの人たちに言いたかったことだ。人間関係にとらわれ、感情にとらわれ、さよならと言えなかった過去の自分の代わりに未来の自分が別れを告げる。

そのときの彼女は、さよならと言ってしまえば、そのときを境に何かが変わるような気がしていた。

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