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何も言うことがない

 さて、長野へ行ってきた。もちろん訪問したのは松本市にある〝わけのわからない印刷ならお任せ〟の藤原印刷。目的は印刷の立ち会いである。

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 普段、僕が本をつくるときには印刷所から届いた校正刷りをチェックして、修正箇所があればお伝えし、あとはお任せすることが多いのだけれども、今回の『ラブレター』は、なにせ写真がたっぷりと入っている本だし、しかもそのたっぷり入っているのは単なる写真ではなく、写真家・幡野広志による写真だから、微妙な色の出具合を最後までちゃんと自分で確かめておきたかったのだ。
 こういう場合、写真家本人やデザイナーが印刷に立ち会うことが多いのだけれども、気鋭のデザイナー吉田さんは「少し気になったところに赤を入れておきました」とだけ言い残して校正刷りを戻し、当の写真家・幡野広志は「うん、いいと思います。吉田さんが気になるところを直してもらえればそれで大丈夫です」と断言するしで、これはやはり僕が行かねばと思ったしだいである。あと、ちょっと長野へ行きたかったってのもある。

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 ところが、この日は夕方からテレビ番組の収録があって、なんとしてでも夕方には都内へ戻っていなければならないスケジュール。午前7時のあずさ1号で旅立ち、あずさ30号で戻ってくるのだ。弾丸出張ってやつだ。前日も遅かったので、新宿駅から松本駅までの三時間弱、僕は爆睡した。発車前にはもう寝ていて、終点で車掌さんに起こされたので、ほとんどワープのようなものである。

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あずさかどうかわからないけど、とりあえず電車がいたから撮った写真。

 さあ、着いたぞ藤原印刷。抗原検査もPCR検査も前日にばっちり済ませて陰性だし、問題なし、なのである。実は、ここへ来るのは二回目で、前回は発酵デザイナー・小倉ヒラクさんが写真集『発酵する日本』(2020年・青山ブックセンター)をつくるときに、ノコノコと立ち会いについて来たのであった。あれがもう二年も前のことだとは、月日の流れは早いものである。

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 10時過ぎに工場へ入るとすでに準備は終わっていて、一台目の刷り出しを始めていた。本をつくるときには大きな紙に複数ページを同時に印刷する。順番を考えて割り付けてあれば、両面に複数ページが印刷された紙を決められたやり方で折るだけで、ちゃんとページが順番に並んだ小冊子ができあがるのだ。この小冊子を折丁と呼び、折丁は一台、二台と数えることになっている。一冊の本はそうやってできた折丁を数台重ねてつくられのだけれども、説明がちょいと難しいので興味がある人は、検索するといいかも。
 さて、今回『ラブレター』の本文印刷に使うのはUVインキである。そしてそのUVインキで印刷する印刷機がこれである。

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ハイデルベルク社のスピードマスター

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すごいスピードでガンガン印刷されていく

 細かいスペックについて書き始めると切りがないので割愛するけれども、様々なセンサーだけでなくクラウドまでを駆使した最新テクノロジー満載のマシンなのだ。なんたってスピードマスターだ。世界的に有名なオメガの時計やレースカー用のエンジンオイルと同じ名を冠している印刷機である。

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なんと、ベルトを使わず空気の力だけで紙を印刷機へ流していく

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こっちが僕のよく知っている紙送り。ベルトで送るヤツ。スピードマスターには、このベルトがないのだ。

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紙に空気を吹き付け摑みやすくして、一枚ずつ送り出す仕組み。

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奥の青く光っているところで紫外線を当てて、UVインキを固めるのだ

 あっ、いかんいかん、刷り出しの立ち会いの話を書くつもりだったのに、印刷機の話ばかりになっている。ともかくそれくらいこの印刷機がカッコよいのですよ、ええ。
 このスーパーマシンはいろんなことが自動化されているし、すごい性能を持っているのだけれども、それだけではダメなのだ。けっきょくの所、やっぱり印刷には人の手と目が必要で、ここで登場するのがプリンティングディレクター、製版担当者、オペレーターといった印刷のプロフェッショナルたちである。黒インキだけで印刷される文書であれば、それほど気を遣う必要もないのだけれども、今回は写真がたっぷり入っているから彼らの技術なしには成立しない。
 もともとデジタルカメラで撮られている写真は、簡単に言えば光で描かれている。これをインキという物質で置き換えると、どうしても色が変わってしまうのだ。元々のイメージ通りに印刷するために、プリンティングディレクターが紙とインキの特性から全体的な方向を設計し、製版担当者がその設計に合わせて色味を調整したものを、印刷オペレーターが実際の紙で再現するのである。

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人が細かく確認し、微調整することでマシンの実力が発揮されるのだ 

 まずは折丁の一台目を片面だけ少し刷ったところで、抜き出した紙を台に乗せてチェックを始める。「少し刷ったところ」といっても印刷がきれいに安定するまでにはかなりの枚数を刷る必要があり、ぜんぜん少しではないので、ご家庭では不可能な作業である。
「どうでしょう? デザイナーさんからの指示も反映させています」
 大きな紙は、まるごと全部を同じインキの割合で刷っているわけではない。青っぽくしたい部分、少し色味を落としたい部分、鮮やかにみせたい部分など、場所によって少しずつインキの割合を変えて色を再現している。
「えーっと、そうですね」
端から端までじっくりと見るが、どの部分も想定通りの色味になっている。いや、むしろ元々僕が想定していたものよりも、きれいに出ているところさえある。これはもう特に言うことがない。

 余談だが、CMの制作現場などでは意見を聞かれると何か言わなきゃと思ってあれこれ適当なことを言い出す人がいるけれども、言うことがないときには別に何も言わなくてもいいのだ。あの人たちは何か言うことを仕事だと勘違いしているようだけれども、そうじゃない。良ければそれで良いといえばいいのだ。広告を発注する立場にいる人は、ぜひ覚えておいて欲しい。

「影の黒い部分もちゃんと潰れずに出ているし、何の問題もないです」
僕はそう答えて、チェックした紙に僕の名前を書き込む。これで責任者がOKを出したことになる。一台目の色味が確定である。あとは刷るだけだ。

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 予定の部数をぜんぶ刷るまでは特にやることがなく、しばらく待つことになるが、そこはさすがのスピードマスターである。ものすごく早いのだ。 「それじゃ、次のチェックお願いします」
 これが一台目の裏だったか、二台目の表だったかは忘れたけれども、とにかく次の色チェックを始める。
「この写真は、ほかに比べると元々少しだけ赤いんですが、この赤みって抑えられますか?」
「確かにそうですね。やってみましょう」
 プリンティングディレクターとオペレーターが何やらやりとりをして、巨大なコンソールパネルにいくつかのデータが打ち込まれていく。このあたりのハイテク感がカッコいいのだ。
「どうでしょう?」
 刷り出された紙を見て、おお、と僕は驚いた。具体的なことはたぶん企業秘密だろうから書かないけれども、その色のインキをそんなふうに加減すると、こういうふうに色が変わるのか!と驚いたのだ。
「完璧です!」
こうして僕は再びOKのサインを書き入れた。

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紙とインキと印刷を知り尽くしたプロフェッショナルたち

 せっかくなので、次の刷り出しを待つ間に工場の中をウロウロしてみる。
天井に設置されたパイプからは水蒸気が放出されている。紙は温度によってかなり特性が変わるので、こうやって一定に保つ必要があるのだ。

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 もちろん湿度だけでなく温度管理も重要だ。インキは温度が変われば粘度が変わるから印刷の仕上がりに影響する。常にスピードマスター本来の能力を発揮させるには、温度と湿度の管理が欠かせないらしい。さらにこの空気を守るため、たとえ扉を開け閉めしても外の空気が入ってこないように、工場内の気圧を外部よりも高くしてあるらしい。

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気圧を常にコントロール

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カーテンの中央が少し膨らんでいるのは内側の気圧に押されているから

「どうでしょう?」
もう次の刷り出しが出てきた。
「えーっとですね。わざわざ東京から松本まで来ているので、せっかくなら何か言いたいんですが、何も言うことがありません」
本当に言うことがないのだ。ただOKのサインするしかない。

 ちなみにサインしながら「サインは事務所を通して欲しいんですよね~、一人にサインするとみんなにサインしなきゃダメになりますから~」という、本当にくだらないギャグを言って大いにスベったことは末代までの恥としてここに記録しておく。

 本文の印刷立ち会いはこれで終了。あとはここで刷り上がった本文が、何回か折られて、いくつも重ねられて、そして活版で刷られていた表紙と合体する「製本」の過程に移るばかりである。いよいよ紙が本になるのだ。

 こうして僕はあずさ30号に乗り込み、テレビ収録の待つ東京へ戻った。松本駅から新宿駅までの三時間弱、もちろん僕は爆睡した。

 さあ、次はいよいよ「製本」だと思いきや、その前にもう一つ、大事な印刷が残っているのである。

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