使わなきゃ
駅の改札を出ると、目の前には田畑が広がっていた。そのすぐ先に見える山脈は、ゆっくりと弧を描いて町をぐるりと取り囲んでいる。
甲斐寺はバックパックを片方の肩だけに掛けて、線路沿いの何もない道を歩き始めた。
電話局の角を曲がってしばらく進めば小さな商店街に出るから、喫茶店でひと息つくつもりだった。
「それにしても変わらないな」
二十年ぶりに故郷へ戻ってきたのは父からの電話があったからだった。
「お前を使いたいんだけど、いいな?」
父は電話口でそう言った。
「俺に仕事をしろってこと?」
「そうじゃない。さっさと使わないとダメなんだ、お前を」
甲斐寺は小さな広告会社に所属するカメラマンだ。何かの撮影をさせたいのならわかるが、それ以上は父親が自分に何をさせたいのか思いつかなかった。年も年だから、ものごとがわからなくなっているのかもしれない。
「使いたきゃ使っていいけど」
「ああ、よかった。助かる。使えなかったら大変なことになるところだった」
父はそう言って安堵の声を漏らし、電話を切った。
「なあ、母さん。父さんは大丈夫なのか? 俺を使いたいって言ってるんだけど」
「そうなのよ。父さんったら、あなたに相談もしないで使うなんてね」
「いや、まだ使われてないだろ」
「使われてるわよ。それより井間賀さんところの俊哉君、覚えてる?」
「覚えてる何も、いま一緒に会社やってるよ。俺を使ってるのは父さんじゃなくて俊哉だよ」
「あら、そうなの? じゃあ拓也君だっけ?」
「飯尾のこと?」
「そうそうそうそう。拓也君」
「拓也がどうしたんだ?」
「拓也君って背が高かったわよね」
「ああ」
「高かったわよねぇ。中学までは小さかったのに高校でどんどん伸びてたわよね」
「そうだけどさ」
「あの子、何て名前だっけ」
「誰?」
「ほら、犬に噛まれた女の子がいたでしょ」
「わかんないな。誰だろう。彩かな? 街野彩」
「違うわよ。彩ちゃんはあれでしょ、ほら、吹奏楽部」
「あいつはバレー部だよ」
「そうじゃなくて、吹奏楽部の砂原君とつきあってたのよ。砂原君モテてたわよね。傅もちょっとは砂原君の真似をすればよかったのに」
「そんなの知らねーよ。なんで俺の同級生なのに母さんのほうが詳しいんだよ」
「そうそう。ねえ、今年の秋トマトはもう食べた?」
「え?」
「すごく甘いのよ。送ろうか?」
「いいよ。トマトくらいこっちでも買えるから」
「そりゃそうね。でも、帰ってくるんでしょ」
「え?」
「父さんが傅を使ってるのよ」
「それ、さっきも聞いたよ。だから使われてないって」
「じゃあトマト用意しておくわね」
母はものごとがわからなくなっているわけではない。昔からずっとこうなのだ。
晩秋なのに夏のような陽射しが照りつけて、しばらく歩くうちに汗ばんできた。
今日は涼しいはずだったのに。
甲斐寺は厚手の黒いジャケットを脱いでバックパックと一緒に片方の肩に掛けると、再び歩き始めた。
気がつくと商店街に差し掛かっていた。いくら寂れた町とはいえ、商店街にはそれなりに人がいる。甲斐寺が商店街の出口にある喫茶店を目指して歩く間に、何人かの男女とすれ違った。彼らはそのたびに驚いたように目を丸くして甲斐寺の顔を見つめた。
「なんだお前。俺の顔に文句でもあるのか」
去って行く彼らを振り返りながら睨み付け、甲斐寺は言葉を吐き捨てた。
喫茶店の前に立った甲斐寺は、ガラス壁に内側から貼られたポスターを見て、通りすがりの人々がどうして自分の顔をまじまじ見つめたのかを理解した。
「これって、俺?」
甲斐寺の顔が大きなポスターになって貼り出されていた。真剣な眼差しで何かを凝視する甲斐寺の顔写真がアップになっていて、その上に白く太い文字で甲斐寺傅と書かれている。いったい何のためのポスターなのか、見当もつかなかった。
「あれ?」
店から出てきたカップルが甲斐寺を見てから顔を見合わせた。クスリと笑いながら肩を寄せ合って、早足で店から遠ざかって行く。
「あれって本物じゃん?」
「だよね」
弾んだ声が聞こえた。
「これは俺なのか?」
ガラスのポスターを見直してから、もう一度つぶやいた。
気にしながらよく見ると、商店街のあちらこちらに甲斐寺の顔写真が貼られている。笑っているものもあれば、泣き顔にも見える複雑な表情のものもあったが、とにかくどれもがまちがいなく甲斐寺のポスターだった。
店に入るのを思いとどまった甲斐寺は、そのまま実家へ帰ることにした。
何一つ変わっていないように思えた町は、それでもしっかり二十年の歳月を経ていた。
立ち並ぶ家はすっかり古くなり、同時に人もずいぶん古くなっていたが、なぜかトラクターやコンバインは新しく、銀色のパーツが陽の光を反射してキラリと光った。
畑と畑の間で案山子のように立っている木製の電柱はボロボロに朽ち果てていて、ぽっかりと空いた洞には小さな動物が住んでいそうに見えた。
昔ながらの家や蔵は土塀に囲まれていて、そしてその土塀には、ときおり甲斐寺のポスターが貼ってあった。
「なんで俺のポスターが」
いくら考えてもわからない。甲斐寺は首を拈るしかなかった。
実家に近づくにつれて、あたりに貼られているポスターの数が増えていく。
甲斐寺はついに実家の前に立った。
重なり合うようにして土塀にも家の壁にも甲斐寺の顔写真を使ったポスターが貼られている。
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