海風
朝、目が覚めると自分が別の何かに変わっていた、なんて話はゴロゴロしている。昔話や童話だけでなく小説やマンガでもときおり見かけるテーマだ。中には名作と言われるものだってある。
とはいえ、だ。
目が覚めると自分の体の一部だけが思いも寄らぬものに変わっているのを実際に体験してみると、昔話なんて呑気な話にしか思えなくなる。
目の前に広がる暗い海にときどき反射する小さな光を眺めながら、古庄はぼんやりとそんなことを思った。海風が吹き始めた。
翌日は休日だからと明け方までダラダラと飲んでいたせいで、古庄が起きたときにはもうとっくに昼を過ぎていた。
目を開けてからしばらく茫然としていたが、やがて古庄は横になった身体を転がすようにしてベッドから足を下ろし、左腕を動かさないように気をつけながらそっと上半身を起こした。
「痛たたた」
左の肘をベッドにつけたまま体を起こしたので、上半身が妙な形に捻られた。こんなことなら普段からもっとストレッチをやっていれば良かった。引き攣るような痛みを堪えながら古庄は左側にそっと目をやり、そして大きな溜息をついた。
「なんでこんなことになったんだ」
同僚と二軒目までは一緒だったことはぼんやりと頭の片隅にあるが、どうやって帰ってきたのかはまるで記憶になかった。ましてや、どうしてこんなことになったのかは、まったく見当もつかなかった。
古庄の左腕の肘から先はタワーマンションになっていた。あまりにも近すぎでどんなマンションかはわからないが、とにかくこれがタワーマンションであることだけはなぜか本能的にわかった。
古庄はマンションを見上げようとしたが、首が上がりきらず二階あたりまでしか見ることができなかった。不思議と重さは感じなかった。元の腕の重さと変わらない。
「古庄さん、ちょっと古庄さん、いるの?」
誰かが玄関を叩く音が耳に入った。
「はい」
返事はしたが動くことはできなかった。動いてもいいのだが、うっかり動いた場合にこのタワーマンションがどうなるのかがわからないのだ。
「井塚です。古庄さん、あんた何やったの? 部屋からマンションが飛び出してるんだけど」
アパートの管理人さんだった。
「すみません。起きたら腕がマンションになってたんです」
「ちょっと、そういうの迷惑なのよ。おかげで二階の部屋も前の駐車場もぜんぶなくなってるんだから」
それはそうだろうと古庄は思った。腕が巨大なマンションになったのだ。当然のことながらこの近所はマンションの下敷きになっている筈だ。
「俺もどうしたらいいかわからなくて」
玄関に向かって大きな声を張り上げた。
「いいから早くそのマンションを片づけてちょうだい。四十階くらいあるでしょそれ。ジャマなのよ」
気軽に言うなよと思ったが、もちろん口にはしない。
とにかく体勢を整えたかった。ずっと上半身を捻ったままなのだ。
古庄はマンションの水平を保ったままゆっくりと腕を動かし、身体の正面へ持ってきた。バリバリと大きな音が鳴り響き天井が崩れてきたが気にしてはいられない。体のほうが大切だった。ようやく上半身がまっすぐになったので、少し楽になる。
視界はマンションの壁で完全に覆われていて、右を見ても左を見てもどこまでも壁だけが続いていた。
マンションが傾かないように水平を保ったまま上半身を反らすように下げると、かなり上まで見ることができるようになるが、それでも五階あたりまでが限界だったし、同じ面しか見られなかった。
せめてこちら側にエントランスがあれば、出入りする住人を眺めることくらいできただろうが、どうやら古庄の腕がついているのは裏側のようで、見上げても窓しか見えない。
「なんでこんなことになったんだ」
古庄はさっきと同じセリフを口にした。
目が覚めたら自分が別の何かに変わってしまうのは構わない。たとえそれが体の一部だけでもいい。ただ、タワーマンションはダメだ。うっかり俺がおかしな動きをしたら住人たちに迷惑がかかってしまうじゃないか。それは困るのだ。俺だけで、俺一人だけで完結できるものでなきゃ困るのだ。
まいったなあ。右手で頭をかく。
また玄関からドアを叩く音が聞こえた。
「すみません、古庄さん? 古庄敏夫さんですか?」
今度は男性の声だった。
「はい、そうです」
「シノブ署のものですけどね、このタワーマンションあなたのですよね?」
警察官か。ややこしいことになったぞと古庄は身を強張らせた。
「えーっと、俺のっていうか、俺です」
「これすぐに撤去してもらえますかね。ご近所から通報が入ってましてね」
「いや撤去と言われても」
「ちょっとドア開けていただけますか」
警察官の声が硬くなった。
「いや、無理です」
「どうして無理なんですか。開けなさい」
ドンドンとドアを激しく叩き始めた。
「今すぐ開けろッ!」
「動けないんですよ、腕がマンションなので」
古庄がそういうとドアを叩く音が止まった。
「どうする」
耳を澄ますと玄関の外で会話をしている声が聞こえてくる。
「破ろう」
「いいんですか」
「構わん」
バコンと大きな音を立てて、ドアが蹴破られた。数人の警察官が飛び込んでくる。
「そこを動くなッ」
警棒を振り上げた小太りの警官が怒鳴った。
「だから動けませんって」
「黙れッ! 口答えをするなッ!」
「えーっと、これ、どうなってるんです?」
若い警官がキョトンとした顔で古庄の腕を見つめた。
「起きたら腕がマンションになっちゃってて」
「なんで?」
警官が首をゆっくりと傾げる。
「それは俺だって知りたいですよ」
「動かせんのか?」
そう言いながら小太りが警棒をしまった。
「うわあ、これは面倒ですね」
若手が肩をすくめた。
「本店に確認するか」
「シノ六からシノ」
「シノどうぞ」
もう一人の警官が肩につけている無線機に向かって何やら話し始めた。
「四四マルタイは本店指示を待つ」
「シノ了解」
「これって、賃貸なんですか? 分譲なんですか?」
しばらく黙ってマンションを見上げていた若手警官が不意に聞いた。
「わかりません」
古庄は首を振った。
「だってあなたなんでしょ?」
「俺ですけど細かい契約のことはわからなくて」
「じゃあオーナーってことですか」
「そういうことでもない気がしますけど」
「なんだ、新居探しか」
小太りがニヤニヤしながら若手を指でつついた。
「ええ、これわりといい物件かもって」
首を竦めて返事をした若手は古庄に顔を向けた。
「内見ってできますか?」
「え?」
「空き部屋はあるんでしょ?」
「いや、それもわからなくて」
古庄は申しわけなさそうな声を出したが、わからないものはわからないのだ。
「あんた、何もわかんないんだね」
無線で話していたもう一人の警官が割り込んできた。
「とにかくこれをすぐに撤去してもらわないとね、周りに迷惑がかかっているからね」
「はあ」
「はあ、じゃなくてね、わかるよね」
古庄は黙ってゆっくりと首を振った。俺だって何とかしたいのだ。お前たちなんかより、よっぽど俺のほうが何とかしたいと思っているんだ。
「それ、引っ張ったら抜けませんか?」
若手が古庄の腕を指差した。肘から先がタワーマンションになっているが、確かにちょうど肘までがマンションの壁にめり込んでいるようにも見える。そう見えるがあくまでもそれは見た目の話でしかない。
「よし、引き抜こう」
警官たちは古庄をぐるりと取り囲み腕を抱えるようにして掴んだ。
「行くぞッ」
「待ってください!」
古庄は慌てた。このマンションは自分の体なのだ。まぎれもなく俺の肉体なのだ。このままだと肘から先を引きちぎられることになる。
「なんだ?」
「腕が刺さっているわけじゃないんです! このマンションは俺の腕なんです! これは俺なんです! 俺がタワーマンションなんです!」
必死で叫ぶうちに思わず涙が出てきた。
警官たちは古庄の腕を抱えたまま困惑した顔つきになる。
「どうだ?」
「でもこのままじゃまずいですよ」
「じゃあ移動してもらおうかね」
マンションの水平を保ちながら歩こうとすれば、どうしても歩みは遅くなる。途中で休憩や僅かな仮眠を取りながらも殆ど休みなく歩き続けたが、それでも古庄が海沿いの埋め立て地に到着するまでに丸二日かかった。
できるだけ広い道を通れるようにとパトカーが誘導してくれたものの、タワーマンションがすんなり通れる道などない。古庄の通ったあとは広い範囲で建物が破壊されているので、上空から見ればどこをどうやって歩いてきたかは一目瞭然だった。
夕刻になってようやく辿り着いた埋め立て地に横たわり、左腕を地面にそっと下ろすと、背中の下にドスンと軽い振動が伝わった。
事務手続きを終えたあの三人の警官がパトカーに乗って去っていくと、しだいに実感が湧いてきた。
「ああああ」
腹の奥底から呻き声が漏れ出した。安堵と疲れと喜びと不安の入り混じった声だった。これでやっと終わり、ここからまた始まるのだ。
寝転んだまま見上げた空の左半分はタワーマンションに覆われている。右側に首を倒すと夕陽で紫色に光る海の向こうを大きな豪華客船が渡っているのが目に入った。たぶん俺のタワーマンションはあの船くらいの大きさだろうなと古庄は根拠もないままに思った。
やがて陽が落ちると、キラキラと紫色に輝いていた海は完全な黒い帯へと変わった。もう輝きはどこにも残っていなかった。
ふっと頭上で何かが灯った気がした。首を戻してマンションを見上げる。薄暗くなった空にポツリポツリと灯った窓の明かりが浮かび始める。
あの一つ一つに人が暮らしているのだと思うと、古庄はなんだか嬉しいような寂しいような不思議な気持ちになった。
そして、自分の左腕にあれだけの人たちの暮らしが乗っているのかと思うと、あまりいいかげんなことはできないぞと身の引き締まる思いがした。
窓からの光が海面に映ってキラキラと光る。目の前に広がる暗い海にときどき反射するその小さな光を眺めて、きれいだなと思った。海風が心地よかった。
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