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【Log】 Dumb Type 新作「2020」上映の超主観的感想

先日観に行った、Dumb Type(ダムタイプ)「2020」上映の感想を超主観的に書いておきます。深読み迷い込み勘違いし過ぎかも知れない内容ですが。

Dumb Type 「2020」とは

「2020」は今年3月に上演予定だったが新型コロナ感染拡大防止のために公演中止になったダムタイプの新作を、無観客で収録・編集した映像作品。

ちなみに、僕が観たのは10/16(金)19時からの回。アフタートーク出演は古舘健氏、薮内美佐子氏でした。

感想①

全体的には、ダムタイプがダムタイプ自身をリミックスしたような感覚。セルフオマージュ(orパロディ)のように自己サンプリングとブリコラージュを重ねた印象。

過去作からの引用のようなアクションや佇まい、都現美での展覧会「ACTIONS+REFLECTIONS」での展示作品、池田亮司氏の既存曲が再利用/再構成されてるようにも思えて、そのように感じたのかも。

また、(多分ダムタイプのパブリックイメージになってて、アフタートークで司会の方も少し触れていた)テクノロジーの扱いがかなり肉感的に見えるダンサーのパフォーマンス(特に「演劇っぽい」テンションの絶叫)に高解像度のまま潰されてるような歪なバランスは、ひょっとしたらダムタイプの原点に近いのかも、と思った。(※1)

※1…かつて自分が生で観た唯一の舞台作品「OR」(個人的に、今まで観てみたライヴや舞台の中でも三本の指に入るほどの衝撃だった作品)に肉感的な部分はかなりあるのに徹底的に無機質に濾過された印象があったのと、その他過去作の映像やインスタレーションを観てもどこか無機質なイメージが強かったから、今作により肉感とか歪さを感じるのかも。

感想②

思えば、「2020」というタイトルで、しかし制作期間が新コロナ騒動の手前まで行われてたという事で、(アフタートークでも藪内さんが言われてたが)「コロナ後の要素が含まれていない」ので、新型コロナまでの有象無象、もっとざっくり言えば「平成」時代の空気感、「平成」時代からの未来展望がパッケージされてるようにも思える。
世界が一変した現在(2020年秋)に観ると、非常に過去感が強くも感じる。

そのせいか「『2020』というタイトルを冠して何かを提示する現時点のダムタイプ」と思っていた(思い込んでいた)観る前の憶測より、「これがダムタイプです」とも見えるなあ、と。
そして鑑賞した今となっては「年」なのか「4桁の数字」なのか「ただの文字列」なのか…一体何だろう?とも。
(アフタートークで古舘さんが「(個人的に)タイトルへの思い入れなどは特に無い」と言われてたのにも通じる部分)

それにしても、始まるなり「ああ、これはやっぱり生身の『上演』として観たかったなー」という気持ちが湧いた。(※2)
あと、自分を含めて過去作品をそれなりに知ってる人以上に、ほとんど初見な人の感想を知りたいとも思った。

好みだったポイント

・冒頭のソロパフォーマンス、池田亮司氏ならではの音響/ノイズが響く中、舞台の大穴を囲むように皆既日食で見えるコロナみたいな円が回転しながら描かれるシーン。(※2)

・オールディーズ(曲は聴いた事あるけどタイトルがわからない)で二人が踊るバックに歌詞の頭文字からたくさんの単語が次々と現れ、オールディーズ曲の終わりが段々と溶け出してドローン的音響に変化するシーン。

・「わたしの中に●●があるならー!▲▲したいー!」という絶叫を繰り返しながらぐるぐる走り回るシーンの最後のセリフ、「わたしの中に始まりがあるなら、最後の最後まで始まりでいたい」。

・最後のシーン、単語の高速回転(「TRACE/REACT II」の発展型?)や標高地形図のシンメトリー(「Voyage」の引用?)と池田亮司の楽曲「data.matrix」をバックに展開される、アオイヤマダさんのソロダンス〜中央への落下(「S/N」や古橋悌二氏のソロインスタレーション「LOVERS」の引用?)。(※2)

気になったポイント

全体として。
「上映作品」として編集されているから見所があらかじめピックアップされているので仕方ないかも知れないけど、例えばダンサーがアップになる事でバックの映像が観てる側からは切れてしまうので、座席という定点から舞台を観てる時の没入感から度々切り離されて覚めてしまうのは残念だった。
※2…冒頭に書いた「上演」を観たかった、に通じる部分でもある。

……だけど、「強制的な視点の切り替えられ」をカットアップみたく捉えると、例えば「試聴しては次のチャプターやタイムラインまですっ飛ばしたり、次々と検索したり、或いは脱構築や自己編集みたいにも思えるかも?」とも。
もっとも、それは能動性なので、指定席以上に視点の選択を奪われる受動性とは大きく違うけど。
こういう印象自体も狙いや意図に含まれてたらちょっとおっかないくらい凄いなー…等と想像する(何だか深読みし過ぎてる気もする)。

あと、バックや床の映像/残像をもっと鮮明に観たいと思った瞬間が度々あった点から、映像パッケージになった事で本来の解像度が幾分か落ちてるかも知れないと思い、例えば本番時のバックスクリーンサイズでの上映でも良かったのに、と感じた(機材や技術面の制約に関してはわからない上で)。

あと、2019年に行われたワークインプログレスの公開は、本番までに内容が相当入れ替わる可能性があるとわかった今となっては、必要でもなかった気がする。

締め

「上映」という形であっても観る事が出来て良かった。だから「生で観たかった」し「もっと没入したかった」と思う。と同時に、没入し切れなかった感覚は覚えておきたい。
特に現代の状況や情勢と密接な感じもするので。

そういえば17日のアフタートークに出演されたアオイヤマダさんが、ステージの大穴をスマホと捉えられてたと言われてた…というのをtwitterで見かけて興味深かった(うろ覚え)。
アフタートークの文字起こしして欲しいなあ。

というわけで長々と書きました、Dumb Type 「2020」上映の感想でした。



電子音楽や諸々を創作しつつ、反射された記録(活動、思考、日記など)を概ねランダムに残しています。もし何かの拍子に気に入っていただけたら幸いです。