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奮起したいときの引用録

 ぼくは”しあわせ反対論者”だ。
 つまりね、簡単に言ってしまえば、人間がしあわせと思っているときは、死がいちばん遠ざかったときだ。それは生きがいを失ったこと。そんなしあわせは、ぼくはほしくない。
 いま、ほとんどの人間は毎日なんらかのむなしさを感じていると思う。そのむなしさはどこからくるのか。それは、まあなんとなく無難に、惰性的に過ごしているから、生活が保障されて、安全だからだ。
 逃げ出さないで、死と対決すればいいんだ。そうすれば燃えあがって生きることができる。人間である以上、そういう確固たる姿勢がほしい。
 死んだっていいじゃないか。死ぬことが怖かったらほんとうに生きることはできない。ただこの世の中に生まれてきたから、惰性で生きているというやつは、生きている意味なんかないよ。
 いいかい、怖かったら怖いほど、逆にそこに飛び込むんだ。やってごらん。

岡本太郎『自分の運命に楯を突け』

想像力を抹殺せよ。人形のように糸にあやつられるな。時を現在にかぎれ。君、または他人に起こってくる事柄を認識せよ。君の眼前にあるものを原因と素材とに区別し分析せよ。最期の時を考えよ。人が過ちを犯したら、その過ちは、これを犯した人のもとに留めておくがよい。

マルクス・アウレーリウス『自省録』(訳 神谷美恵子)

そこで師は言った、「今日、仏法を修行する者は、なによりも先ず正しい見地をつかむことが肝要である。もし正しい見地をつかんだならば、生死につけこまれることもなく、死ぬも生きるも自在である。至高の境地を得ようとしなくても、それは向こうからやってくる。
諸君、いにしえの祖師たちはみな、超え出させる導き方を心得ていた。今わしが君たちに言い含めたいことは、ただ他人の言葉に惑わされるなということだけだ。自力でやろうと思ったら、すぐやることだ。決してためらうな。このごろの修行者たちが駄目なのは、その病因はどこにあるか。病因は自らを信じきれぬ点にあるのだ。もし自らを信じきれぬと、あたふたとあらゆる現象についてまわり、すべての外的条件に翻弄されて自由になれない。
もし君たちが外に向かって求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖仏と同じである。君たち、その祖仏に会いたいと思うか。今わしの面前でこの説法を聴いている君こそがそれだ。君たちはこれを信じきれないために、外に向かって求める。しかし何かを求め得たとしても、それはどれも言葉の上の響きの良さだけで、生きた祖仏の心は絶対つかめぬ。取り違えてはならぬぞ、皆の衆。今ここで仕留めなかったら、永遠に迷いの世界に輪廻し、好ましい条件の引き廻すままになって、驢馬や牛の腹に宿ることになるだろう。
君たち、わしの見地からすれば、この自己は釈迦と別ではない。現在のこのさまざまなはたらきに何の欠けているものがあろう。この六根から働き出る輝きは、かつてとぎれたことはないのだ。もし、このように見て取ることができれば、これこそ一生大安楽の人である。」

『臨済録』

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