母がクモ膜下出血で倒れた話

結論から言ってしまうと母は無事で、奇跡的に何かの後遺症すらも残っていなかったわけだけど、だからこそ何らかこの件について残しておいた良いのではないかと思ってまとめてみる。

多分、無事でなかったのなら書かなかったお話。

クモ膜下出血とは

自分に語れるほどの医療知識はないので、Wikipedia参照。

母が倒れた日

父から電話が入ったのは2020/4/11 18:57。夕食を食べ終えてリビングとソファで子どもたちと戯れていた頃だった。

この歳になると実家から入電する度にあまり良い知らせではなさそうで身構えてしまうとこあるんだけど、そもそも最近の実家との連絡はLINE覚え始めた母とする事が多く、珍しく父から電話でかかってきた時点でもうなんかちょっと嫌な予感はあった。

「大変なことになった。お母さんがクモ膜下出血で倒れた」

よりにもよって「クモ膜下出血」と聞いて、一瞬で絶望的な気持ちになった。

もともと自分が中高生くらいのとき、母方の祖母がクモ膜下出血で亡くなってる事を知ってるし、その後も母方の親戚の何人かが脳の血管詰まりで手術した、とかの話を以前に母から聞いている。

なので、かなり前から無くはない話だとは思っていて、まず最初に「家系か……」って頭をよぎり、これはあかんやつや、と察した。

ひとまず土曜だったのと、運良くその日晩酌とかしてなかったので、とりあえず適当に2泊分くらいの着替えを詰め、同日19:34に車で一人で実家に出発した。

当時の日記

以降の経過は、少し時系列が空くけど当時メモった日記が一番リアルかなと思ったので、そのまま貼り付けてみる。

4/12

今日は2020年4月12日。23時過ぎたところ。
場所は気仙沼市立病院。

母がクモ膜下出血で倒れたのが昨日4/11の夕方と聞いているので、発症から24時間以上経過したことになる。

庭で草刈り中だったそうだ。

昨夜の時点では非常に重篤で脳にも損傷があり、このレベルでは検査も治療も進められず、一晩持つかどうか、という医師の見解だった。

ただ、今日1日の様子を見ると、目線を追ったり話しかけようとしてきたりといった所見があり、状態としては良くはなっていて、最初の発症がそのまま死に至るという状況は避けられた、つまり、ひと山越えることができたらしい。

状態がよくなったことで改めてCT検査できるようになり、その検査結果を受けて手術も受けれるようになったのは、今日の大きな前進。

ただし、あくまで動脈瘤を無くす手術であって、脳の損傷を回復させる手術ではないとのこと。これが何を意味するかをちゃんと考えないといけない。

ひとまず手術は明日。

昨日は病室の机に伏してただけでほとんど寝れてないので、今日は病室のソファでちゃんと寝よう。

4/13

昨夜は病室で付き添いだったが、自分が何でここにいるのか不思議に感じている様子で辺りを見回したり、目が合うと「何でここに居るの?」みたいな事を話しかけて来たりするようになった。

ただ現段階ではまだ手術前なので脳の血管の再破裂の恐れがあり、とにかく安静にしてもらう必要があったので、同じ部屋にいながらも目線が届かない場所に隠れ、でも呼吸器外したりしないように見張るという、なかなか難度の高い一夜だった。そりゃ寝不足にもなる。

手術は午後からで、手術には6時間くらいかかるということで、朝に父と付き添い交代してから1度仙台に帰った。

寝不足での運転はやっぱり眠気がツラくて、3回くらい休憩入れて何とか帰った。

家に帰ったら風呂に入って仮眠、子供と戯れてから再出発。身も心もだいぶ回復したようで運転は快調。仙台から気仙沼まで休憩無しで1時間半で着いた。

ちょうど手術も終わったということで、先生からの説明を受けた。

・手術は無事成功。再破裂など含む直近の危険な状態は脱した
・肺がやや肺炎気味。また一般的にここ1、2週間くらいは脳の血管が収縮して脳梗塞のリスクありなので引き続き入院
・以降は一般的なクモ膜下出血患者と概ね同じ対応になる
・これまでは重篤だったので付き添いできたが、今後は他の患者さんと同じルールに則り、コロナ対策で面会禁止

とりあえず、一段落ついて良さそうだ。

手術後の母に一瞬だけ会えたけど、自分を認識出来ていて声も聞こえているように見えた。そして泣いてた。
手術直後で刺激与えちゃマズいそうなので、すぐに退散した。

これまであんまり食欲出なくておにぎりばっかりだったけど、今夜のコンビニ弁当はちゃんと食べれた。

まだこれからどうなるかわからんし、考えないといけない事がたくさんある気がするけど、ひとまず面会禁止ということで、明日仙台に帰る。

その後の経過

以降は仙台に戻って、今までの日常通りに生活した。

病院で話を聞いた限り、ひとまず直近で大きな何かが起こる可能性は低そうだったけど、またいつ緊急呼び出しがあるかわからなかったので、そこから1週間程度晩酌は控えた。

で、ちょうど1週間経過したくらいに父に電話し状況を確認。
予想していた以上に予後は良好で、普通に生活出来ているし記憶もはっきりしていて、「車のあの辺に△△しまってあるから持ってきて」みたいな指示が飛んだりするらしい。

というわけで、まぁたぶんこれは大丈夫だろうと父と話し、その夜久しぶりに晩酌をした。

その後、父には「電話だとびっくりするから特に大きな問題なければメールにしてくれ」とお願いし、慣れない感じのSMSで度々状況確認しつつ、入院から丸2ヶ月くらい経った6/17、ついに母は退院した。

退院後の対面

そしてこれを書いてる今日2020/6/27に気仙沼へ帰省し、退院後の母と会った。

話には聞いていたが、実際に話してみてもやはり何の後遺症も感じられず、記憶もしっかりしている姿がそこにあった。

それより、今まで「改めてちゃんと母を見る」ということをそもそもしてなかった事もあって「歳とったなぁ」っていう感想が最初に浮かんだ。

リハビリ生活が長かったのと、高次脳機能障害のためまだ車の運転が認められておらずあまり出歩いていないそうなので、前よりちょっと疲れやすいとは言っていた。まぁそれはしゃーない。

一応当時の事を覚えているか聞いてみたけど、そもそも4/11に草刈りをしていたかどうかの記憶から定かでなく、覚えているのは4/15からだそうな。

本人的には4/15に入院に気付いたので、前日の4/14とかに自分に何かあって手術とかしたのかと思ってて、実際には4/11から入院してたと知ったときにびっくりしたらしい。

また、コロナ禍のピーク期だったこともあって十分な面会が出来ておらず、当時の詳しい経緯を知ったのもちょっと後になってからだったそうで、当時親戚みんな呼んだと聞いて「何をそんな大袈裟な…」と言っていたらしい。

まぁ、無事だったからこそそんな話も出来るんだぞ、と内心思いながら、そんな感じで久しぶりに割と夜遅くまで母と話をした。

おわりに

正直なところ、本当に運が良かったとしか言いようが無い。

あの日病院で、医師からは「1/3が死に至り、1/3が意識無し寝たきり状態になる」と聞かされた。
この数字は昨今の感染症による致死率の比ではないわけで、当たり前だけど楽観的な思考でいられるわけが無い。

そんな中で残りの1/3、つまり33%の生存率を生き抜く、というのは容易なことじゃないし、これは何らか鍛えて上げられる数値でもない。

うちはそもそも、そんなに家族仲良しっていう感じの家庭ではない。

家族全員B型で、なんかとてもB型らしくお互いへの干渉はとても少なく、基本的には家族間で感情的になるような事もほとんどない、一見冷めたように見える家庭だ。

それでも、「孝行のしたい時分に親はなし」とはまぁよく言ったもんで、ホント急にこういう事が起きたりする。

これまで干渉が少なかった分、目に見える親孝行的なモノもそんなにしてこなかった事もあり、こういう事があった以上、今出来ることは今のうちにやっておこうかなと思った。

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