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最近心動かされたものたち(備忘録)

4月25日(月)違国日記9巻
そろそろ新刊出ないかな~と検索したタイミングでAmazonの予約ページを発見してから、2週間くらいずっと楽しみにしていた。夜に一気に読んで、良さがすごくて「なんかすごいものが書かれている…!」という衝撃しか残らず、細かいディテールが全部吹っ飛ぶくらいよかった。

まず、冒頭の槇生ちゃんの手のひらにたくさんの言葉があふれかえって、それが零れ落ちている描写はすごく身に覚えがあって、それがビジュアライズされていて、ぐっときた(仕事でキャパっていたとき、よく頭の中にイメージしているのはまさにあれで、槇生ちゃんのようにそれを拾い上げないと仕事にならないわけではないので先に進めるために取りこぼしながら前へ進めるのだが、結局、自らが支えにしていたこだわりや大事にしたいものを取りこぼすことになってボロボロになる)。Page42の、定点で描かれる表現も、漫画ってこういうこともできるんだ…と思ってびっくりしたし、ルビーがばらばらになってしまうのも、衝撃だった。何が衝撃だったって、あの深層心理的なイメージをが描かれていることが。
ただ、本当に9巻で私に刺さっていたのは、「どこにも行けない」と「なんにでもなれる」が扱われているという、そのテーマだ。しんどい。
カウンセリングに行き始めたころ、よく診察室で話していたのは、自分の空虚さのイメージについてだった。高校生のころからぼんやりと、自分のイメージは空っぽの箱だった。綿のないテディベアでもいい。とにかく中身がスカスカでみっともなく、早く中身を詰めないと、と思って躍起になっていたし、焦っていて、怖かった。それは人生の夏休みと謳われる大学時代には多少影を潜めていたものの、社会人になってぶり返し、わたしをがんじがらめにしたのだった。
9巻は、朝が軽音部で抱いた「自分には才能があるはず(なのにない)」「才能とはなんなのか」の先にある、拠り所になるアイデンティティの話だと思った。しんどい。けれど、こんなふうにしんどくさせてくれるフィクションは、得難くて、最高…。

4月30日(土)渋谷のクラブ
今夜クラブに行くよ、とシェアハウスの人に誘われて、よくよく話を聞いたら渋谷のContactだった。大学の先輩が道玄坂の再開発に巻き込まれて良質なクラブがつぶれてしまうのだ、と言っていたのがまさしくContactで、一度行ってみたいと思っていた箱だったので終電近くの電車で渋谷に繰り出して遊びに行った。
イベント自体は大盛況で、特に真ん中のフロアはめちゃくちゃ込み合っていた(キャパもすごく小さかった)。ラップにあまりなじみがないのもあって、しばらく聴いていると平坦なそのリズムに少し飽きてしまって、別のフロアへ移ってしまったのだけど、ドリンクの近くの音がバカでかいフロアの音が本当にデカくて衝撃的だった。強制的に身体に刻まれるビートのせいで、心臓の鼓動でさえもリズムが再編成されるような衝撃だった。心臓だけではなくて、身体が全部ビリビリするような空間で、あの衝撃を味わっただけで行った価値があった。(結局そのあとすぐ、同行人が「六本木の洋楽がかかっている箱がいい!」というので移動してしまったけど)

5月1日(日)「C’mon C'mon」
ゴールデンウィークだし、ファーストデーだし、なんか映画みたいなと思って、評価が高かったから選んだのだけど、今まで見てきた映画の中で指折りの好きな映画だった。序盤の時点で、(なんだ、この映画はすごく「好ましい」な…)と思っていたけれど、途中、本当に自然に落涙していて自分でもびっくりした。
ちなみに、泣いたシーンはいくつかあったけれど、「僕らは回復ゾーンから出てしまったのだから、大丈夫じゃないのは当然のことなんだ!」というシーンがすごく良かった。大丈夫じゃないってちゃんと言えて、受け止めてくれる人がいる、というのはすごく有難いことだと思う。
映画の冒頭、「大きくなったら、何を覚えていて、何を忘れてしまうと思う?」という質問がインタビューで繰り出されていて、終盤でもジェシーに「(一緒に過ごした)このことを、きっと思い出せなくなるよ」と伝えていて、ジェシーは嫌がっていたけれど、わたしも子どものころ「きっとこれを大事だと思っている感情や、そのこと自体をいつか忘れてしまう」と自覚していたから、抗おうとしていたな…と思いだした。

小さくて弱くて、大事にしたい存在で、同時に本人には先に進む力を日々、成長させている「子ども」だったころ、大人と正面から向き合ってもらうことはすごく大切なことだったし、子どもは実は冷静にそうやって対峙してくれる大人を見ているのだった。

この3つに直接関係ないけれど、映画を見終わったら土砂降りだった雨がぴたっと止んでいて、家へ帰る途中に気づいたことがあったので、メモ。
なぜ、シェアハウスに住んでいるの、と聞かれたら、表向きには「楽しいから」と答えるけれど、なぜ楽しいのか、と聞かれたら、それはわたしが「沈殿しないから」だ。一人で過ごしているときの自分のイメージは「沈殿」で、深く海に落ちて、海底でリバウンドして、そのまま砂をかぶっていくイメージだ。それは、わたしにとって「どこにも行けない」という感覚を呼び起こさせるもので、ものすごく苦痛である。立ち止まることも、前に進めないことも。
シェアハウスに入る前は実家に住んでいたので、別に人と暮らしていなかったわけではないのだけど、両親はわたしにとって、わたしをどこかに連れて行ってくれる人ではなかったのだ。

これは持論だけれども、人は自分と向き合うだけでは自分の全貌を把握することはできない。ありとあらゆる関係性の中で、初めて、自分の知らない自分の側面を知ることが出来るのだと思っている。大学生のころ、インドを旅したら「自分探し?」と言われまくってその定型的なイメージに憤った(そして「自分は探してもいない、作っていくものです!」とゼミの先生には言い返した)し、実際にインドで人生も変わらなかったけれど、シェアハウスはかなり自分探しに近いと思う。人生もがらりと大きく変わっていないけれど、少しずつ自分が変質しているのを感じている。その流動性が自分にとっては心地いいことで、だから、わたしはシェアハウスに住んでいるのだ。

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