ウエストサイドストーリーを2回目観てきた(ネタバレあり)

スピルバーグ版のウエストサイドストーリーを2回目観てきた。直前に1961年のウエストサイド物語の方を観ていたからかそのすごさがより伝わって最後の方で死んでしまったトニーをジェッツとシャークスの両方のメンバーがお互いの対立を超えて協力して運ぶシーンでちょっと泣いてしまった。

スピルバーグの思想はリベラルだがその思想は世界に理不尽な暴力があることを前提に強固に形成されておりその辺にいるリベラルとは迫力が違う。1961年版では喧嘩のシーンなどそれでも暴力的な内容ではあるもののミュージカル映画としての体裁をまだ持っており安心してみれるものだが、スピルバーグ版はリアルなショッキングシーンの連続だ。耳に釘を刺された時の出血の仕方、ベルナルドがナイフで刺された時の死ぬ側と殺した側の怯えた表情、そしてチノがトニーを殺す時のトドメを確実に刺すために二発撃ちこまれた銃弾など枚挙にいとまがない。果たしてここまでやる必要があるのかと思うのはスピルバーグの映画を観ると毎度思うことだ。本当にすごいと思う。

リメイクしたことの意味を語る上で重要なシーン。61年版では女性のアニタがジェッツの面々を揉みくちゃにされるシーンでそれが暴力であることには違いないのだが店の店主からはただ迷惑だからやめろと言ったニュアンスだったのに対してスピルバーグ版ではハッキリとおまえたちはレイピストだと避難している。ここの改変は価値観の変容が読み取れて現代でリメイクした上での重要な意味になっていると思う。非難するのが61年版でアニタを演じたリタ・モレノであることも当時の作品を批評する意味が込められている。

対立によって暴力が生まれ、報復が連鎖することの空虚さを描いたのが61年版ウエストサイド物語だったとすればスピルバーグ版は暴力を起こす人間がそもそも持っている空虚さが強調されている。土地開発であらゆる建物が壊され何もない場所で「ここは俺たちの街 好きな街だ」と言わせたり、親友の命と婚約者の心をトニーに奪われたチノの「俺には何もない」というようなセリフ(うろ覚えだが)に昨今の「無敵の人」言説を彷彿とさせた。作品の舞台はおそらく1950年代のアメリカだがこの辺りの描写が現代のリメイクであることを意識させる。スピルバーグがこうしたことをミュージカル映画のリメイクに組み込むとはまったく想像していなかった。しかし現代のアメリカを批評する上でこうしたことは避けて通れない。

アメリカのネガティヴな側面ばかりを語ってしまったがポジティブな面もある。アニタ率いる女性陣が『アメリカ』を歌って踊るシーンの躍動感やデパートでマリア達が働きながら歌って踊るシーンには自由や希望を感じさせる。全体が暴力的だからこそこうしたシーンの安心感が対比されてより美しく感じられる。しかしながらその当時それらの希望はまだ空想に過ぎずマンハッタンの街は壁に描かれた絵や看板のイラストでしかなかった。これらの描写はニューヨークの街を空撮で撮ったオープニングから始まる61年版と対照的で印象に残った。はたしてこれからのアメリカは同じような希望を持ち続けることができるだろうか?(やっぱりネガティヴになってしまった)

アメリカの自由と希望の両面性を華やかなダンスとショッキングな暴力で描くスピルバーグ版ウエストサイドストーリー面白いので是非観に行って欲しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?