腐敗した人間が考える、「人間関係が楽になる方法」

※この文章はエンタメです。楽しんで頂けたら幸いです。

※平均80点のEQテストで、40点をたたき出した、正真正銘の精神音痴で す。

※ヒッピーです
※2020年執筆


「この世の地獄は人間関k」失礼しました。

「この世の問題はすべて人間関係によって引き起こされている」と「嫌われる勇気」には書かれている。

「人間失格」の主人公が、社会や人に、どう思われるのかを延々と悩んだあげく、「社会というのは君じゃないか」という結論に一先ずは辿り着いたように、悩みとは、自意識によって作り出され、自意識とは、人間関係上に存在する自分であるという解釈もあるから、つまり、人間関係が良好なら、自分が作り出す悩みの幻影さんも、少しは影が薄くなるという事で‥。

…本題。

マウント

人間関係を全てマウントと捉えている有名人がいた。至極まっとうな意見だ。「人に対して優越感を感じる事を目的としたコミュニケーション」がマウントなら、「自分を表現する」って、「自分を肯定する(社会の中で)」って事で、そこにはある種、「自分の正しさを証明する」という意味もあるから…、つまり、コミュニケーションはマウントだ。

マウントをする側(話して)と、マウントをされる側(利き手)の、良識ある態度と相互理解によって、コミュニケーションは完成する。

人間関係上の悩みをマウントと云う一面によってのみ捉えるなら、基本的にはマウントをされた経験と、それによって生じたかつての不安や恐怖によって形づくられるそれこそが悩みであると云えるだろう。
…つまり当然聴き手、受け身気味の人間の方が良く悩む。

そういう観点から見て取ると教育はマウントだ。「社会から正しいと正式に認められている」正しい知識をどや顔で披露する(私はどっちの翼でもありません)。「正しい知識」を通じて自分の正当性を主張する場こそがある種、教育と云えるだろう。

その矯正的要素の強弱が、受け身の人間を形作る。


そもそも何故人はマウントをされると不快なのかというと、「出来るは良い」「出来ないは悪い」と云う至極明快で単純な家庭内外の教育の影響。生理的、肉体的な不快感は「自分の生命を危ぶむ可能性を在るモノ」であるから体がそう感じるよう出来ているわけで、社会の中で「悪いモノ」として扱われるという事は、社会の中で生きる事に骨の髄までどっぷりつかっている私達にとっては、生命活動に直結する本能的な問題なのであって、つまり、マウントを撮られるという事は、私達が社会の中で生きる上で、生存に関わるレベルの問題として深刻化しうる分けなのである。

そんな、多くのマウントをされる側たる「受け手」…、あるいは一般的には「消費者」としてくくられるであろう「聞き手」。そんな、私の様な、社会の最下層に及ぶほどの立ち位置に括りつけられえる存在が、どうやって社会の中で生きていくか、私は考えてみた。

自己開示

※自己啓示ではい、自己開示だ。

一般的にコミュニケーションは思った事は素直に表現する、マインドフルネス的な方法こそが良いとされているが、実際にアウトプットをする段階においては相手の立場を思いやり、マウント的成分を脱色した、アサーション的コミュニケーションが理想とされている。

節度という意味合いではなく、「あなたにも尊厳がありますよ」的精神を開せよ、という意味だ。

話し手にとって、マウントをする側にとって、聞き手とは、「何も知らない考えない、無垢な子羊」である事が理想的で、彼らが「会話」に求めるのは発展性ではなく、「征服感」「自己肯定感」である事が多い。だから、反論ないし意見すると露骨に不快感を表し、暴論を吐く。これは私の経験則だ。

その間私たちの内面に起きる事と云えば、「マウントをとられている自分」という被害者精神と、「確かに何もできない子羊の自分」という、自己嫌悪だ。

本題はここで、私の経験上、マウントをとられたと認識した、私の様な哀れな人間、悩める人間のとる事が出来る行動はただ一つ

「黙る」

生物的に危険な状態、「マウントをとられた自分」をひた隠すため、視線を下に下げ、黙る。たいていの人間は目を見れば感情を自分の都合の良い様に読み込むと、本能的に悟っているから、黙り、俯く。そもそもダメなのだ。そういった人間、マウントをとろうとする人間は他人の目から何が何でもそういった色合いを他人の目からのぞき込もうとするがばかりに、様々な微小な紛らわしい色を卑屈なそれとして誤認し、より上機嫌になるとわかっている以上、俯くしかないわけなのだ。

対して健康的な人間ならマウントを取られたら、取り返す。

「何だお前、俺を馬鹿にしてんのか?やんぞこら、俺っちの強さ知らねぇだろ?」
的な精神性を備えた健康的な人間なら、「知識」や、「マナー」と云った要素、社会的武器を片手に、次いでに良識をもってしてその精神を態度によって、時に露骨に、露わにする。しかしながら悩む人間は、黙る。その極端な在り方が、引きこもりだ。

そんな、コミュニケーション上で発生しうる最低限のマウントをする権利を取り返す勇気が、社会の中で「マウンティングゲーム」をする勇気が根本的に叩き潰された、哀れ中の哀れな人達の為に、処方箋を用意した。
※私は使えない。

劣等感を表現する(慰めを期待しない)

民間心理療法の最終目的地は、ありのままでいる事だ。

だがそれは無理だ。マウントをとる事が社会の目的である以上(ありとあらゆる文化的発展の正当性)、私達がありのままでいれば、相対的に価値は脅かされ、必然的に誹謗中傷の危機にさらされる事となる。もちろん、様々な尺度という意味で誹謗中傷と言っているのであって、不特定多数という意味合いはない。


しかしながら、マウントをとられても、全てを円満に終わらせる方法が一つだけある。

自分が感じた事を素直に表現する事だ。

「あぁー私ってほんとう無能なんですぅ―、こんな簡単な事も理解できないですぅー」

自分が感じた劣等感を、そのまま言ってみる。これが最高の解決法なのではないだろうか?

相手の満足を促せるから、それなりにマウントをとる相手との関係も良好になる。相手はにっこり、多分マウントを摂らなくなるでしょう。立場の優位性を確固たるものに出来たから。

反論の意見が湧き上がったら

「うわあぁ、すごいですねぇ、全然思い浮かばなかったぁー。そんな考えもあるなんて知らなかったぁー。私が知っていたのってぇ‥」

という感じで行こう。とにかく、「あなたの意見、御見それしました」精神を出そう。

唯一注意するべき事は、私達がどれだけ正しい事を述べたとしても、相手の目的が会話では無く、マウントであった場合は、あなたが何を言っても会話が発展する事はなく、唯否定されるだけだ。


クールである事を許されるのは、社会的に上手くいっている人だけだ。私たちに、人権はない。

マウントを摂る人は、自分に媚びへつらう事を他者に期待している。

下働き以外の大多数は、こういう人だ。人を虐げる方法を知っている存在。


マウントを取られたら、マウントをとられたんです。というココロの傷口を、態度で、全力で表現しよう。

いつか悩まなくなることを信じて。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?