β-311 3.11

10年前の金曜日、14時46分。

九州某所のあるグラウンドにあした・の・β<ベータ>はいた。

知ったのは、もう夕刻。

とにかく大変な事態になっている。

東京のキー局だから、まず知ったのは帰宅困難者が公共交通機関の麻痺によって、溢れんばかりになっていることが先行していた気がする。

しかし、震源は東京直下ではないようだ。

三陸沖、震度7は東北の宮城県栗原市。

ただ、それで留まることない非常事態になっているそうだが、この時点では分からず。

マグニチュードは8.4→8.8→9.0と上乗せで修正されるほどの大規模。

当時の私の住んでいるところでも震度1か2を記録していた。

三陸沖の震源で九州まで揺れる。

さて、これはとんでもないことが起きたな…とは予測できたが惨状は予想を遥かに超えてしまった。

だんだん東北の系列局だったり地元紙だったりから送られてくる映像や画像を見ると、こんなことが起きてるのか…というものばかりを見てしまった。。

あまりにもひどく、絶句やむなし、そして場合によってはトラウマにもなりかねない。

東日本大震災は地震の規模そのものよりもそれに伴う10m超の津波がリアス海岸の街を中心に飲み込んでしまった部分や福島の浜通りにあった原子力発電所が機能不全になって、放射能物質が充満し、界隈の住民が疎開せざるを得なくなった、という「津波」と「原発」という被害がクローズアップされているし、実際のインパクトに関しても、そちらのほうが真っ先にという方も多いことだろう。

いまもなお4万人以上の方が避難生活を余儀なくされている現状は、如何にこの震災の被害が甚大だったかを物語る。

10年という節目を機に、再びメディアや人々の意識は東北を中心とした被災された場に向けて、または防災意識を高めたりエネルギー政策の問題点だったりというところをいま一度報道していると思う、ミスリードを恐れていて、なかなか調べにくいけど、リテラシーを意識して、内容を見ることはよくある。

それにしても、災害に関してはいつ何時起こるかはわからない。

大体予測できるかもしれないものもあれば、地震のように突然来てしまう例もあるのでね。

期せずしてやってくる災害に対する備えは節目の年や日付に再びというわけではなく、とくに大きなことが全く起こらなかった日に起こることが多い。

3.11も2010年まで、いや、2011年の昼下がりくらいまではこれから春に向かって、新生活の準備を始めたり、桜の開花いつになるのかなということを考えたりする日の一日に過ぎなかった。

もちろん、この日が誕生日だったり結婚記念日だったりというめでたい日を迎えている方々もいるし、震災とはべつの理由で大切なひとや恩師を亡くしてしまった日を迎えている方々もいるので、なにかしらの大切な記念日、忘れ得られぬ日になっている方も少なからずいらっしゃるだろう。

しかし、14時46分を境に大多数の方がこの日を防災意識を高めたり不幸にして生涯を終えてしまった方々を追悼したり、とにかくなにかしらの非常事態に備えていろんなことを再確認したりする日という位置づけになってしまった、それはそれで必要なことではあるんだけれど、もどかしいところも拭えない私がいる。

なんでなんだろう、それは先述の通り今後の災害はまったく関係のなかった日に起こる可能性が高いと感じてるからなのかもしれない。

生まれてこの方、震度5弱以上を経験していない。

九州で大きな地震が起きた際は関東に住んでいたし、その関東でも震度4くらいまでしか経験しなかった。

そう考えると震度5弱の規模がどんなのか、まだ経験していないので、実感もないし、なんの代弁もできない。

経験しようとはこれからも思わないけれど、今後遭遇してしまう可能性が高いから、備蓄しているものはなにか、脱出方法はどうするか、避難場所はどこなのか、当意即妙な判断が非常時にできるか、未練なく跡にして、生き延びることができるのか、生き延びられなかった場合、今後を誰に托すか、などはきょうに限らず思いついたときに、確認するなどはしているけれどね、最近はできていないかもしれない、気をつけるものが増えてしまったから…でも、やめてはいけない、未然で生涯を終えたとしても危機管理は余念なく。

私は2015年から2017年にかけて東北に何度も訪れた、関東にいたからね、やっぱり九州からだと行きにくい場、本格的に訪れたのはその頃だった。

震災から4年半の時点でも、三陸沿岸は工事が至るところで、新しい防潮堤はできていたけれど、まだ沿岸部の復興は程遠い状況で、未だに手付かずの場が多かった。

惨憺たることがあの日、または翌日押し寄せてしまったんだろうなという、言葉にもならない風景がそこに広がっていた。

写真は撮っていない、撮るにはちょっとつらいものがあった。

けれど、目にしっかりと焼き付けて、しっかりと記憶していった記憶が残っている。

いまの状況が明けたら、またみちのくへ向かえるといいのだけれど…。

浜通りも常磐線の代行バスがまだ走っていた頃に訪れた。

バスにはいまの放射線量が随時ディスプレイにアップされ、また国道6号沿いの風景も住民が放射能汚染による疎開によってさながらゴーストタウンと化していた。

閉まっているハローマックやしまむらがあったような、一瞬だったからそこまで記憶にない。

あれから常磐線も全線復旧したけれど、あのときよりは回復しているのだろうか、そして福島産の農産物や海産物は躊躇なくいろんな方々に食べられているのだろうか。

作られた農産物や海産物にどれくらい汚染されているのか検査しないと世に出ない方式になっているのは、安心や安全さの証明でもあるから、しないといけないのかもしれないけれどね、でも拒みがちっていうひとも少なからずいるんだよね、私も日によってはそんなときがあったし、でも日によっては買ってた、そんな日もあった。

だからって、身体に影響があるかってと否かな、でもいまは出回りにくい地域に住んでるから、口にはなかなか…。

この先も10年前のきょうに起きた災害は風化することはない、少なくとも私は。

復興するには時間が想定以上にかかるし、仮に復興したとしても当時の面影はどこへやらっていう事態になるし、人口減少と少子高齢化に晒されている世相では、以前のような活況を求めることも難しくなっていくのかもしれない。

それでも、風化して忘れ去ってしまうのを防ぐため、後世に継承していかないといけない、証言を聞き、触れ、理解し、共有し、子や孫にあたる世代に伝えて、世代を越えて拡散していかないといけない、デマゴギーには気をつけて、史実に基づきつつ、対処法なども侃々諤々考えて。

この10年でわずかだけど、貴重な経験をしたこともあって、まだあるんだけど、ひとまずここで概略をまとめておきました。

ちゃんと14時46分に黙祷しました、平日だったけれど、なんとかここ数年はしっかりと黙祷できているような気がする、ちゃんと弔って、偲んで。

むろん、14時46分にこだわらず、みちのくの沿岸部のことを思う度に、いろんなことを思っているんだけれどね。

大規模なことをできる身ではないけれど、細々とでもできることをしっかりと行っていきたい、満足にできるかはできないけれど。

無理せず、でも無駄なく。

関係ないようで、関係していると認識して。

これからを過ごしていけたらいいかなと思うβ<ベータ>でした。

ここまで読んでいただいてありがとうございます(人''▽`) 間髪入れずに言ってみますか・・・ よろしければ!でもまさかね・・・