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ヴォネガットと人間主義

 カート・ヴォネガットを語るうえでとても重要なキーワードになるのが人間主義者=ヒューマニストであるということではないかと思う。

 AHA会員への手紙でヴォネガットは「私はヒューマニストであり、それはある意味で死後の賞罰を予想することなく上品にふるまおうとすることでもある」と書いている。 wikipedia

 これを手元にある本で探してみると、こんな一節があった。

 もともと清教徒的であった先祖と同じように、私も神はこれまでのところ不可知であり、したがって奉仕不可能な存在であるから、人間にできる最高の奉仕は、何が必要とされているかが明らかな自己のコミュニティに対する奉仕だ、と信じています。また、有徳の行為が、ありそうもない来世での、それ以上にありそうもない褒賞や処罰の約束という、いわば飴と鞭的なやり方で卑小化されている、とも信じています。
ー『死よりも悪い運命』p371-372

 彼が奉じているのは、「神」というものがなくても善き社会は作ることができる、という思想なのだと思う。私もそうだといいなと思う。神様を信じているから隣人を愛するという考え方は、別の神様を信じる人たちを容易に排除したくなる。
 ヴォネガットの宗教観についてはさらに議論がありそうなので、一旦保留する。

 人間主義ということについて、多くを教えてくれるのが、なだいなだ著『人間、この非人間的なもの』(ちくま文庫)だ。第1章「それでも、私は人間」は超名文。戦時中に「お前は、それでも日本人か」という圧力に対して、「それでも私たちは人間だ」という立場を表明し拠り所にしたこと。
 一方でその「人間」は西洋的キリスト教的人間観に過ぎなかったのではないかという煩悶。一番美味しいところだけ引用しておく。

 人間は、人間的という言葉に呪縛されてはならない。人間の悪を非人間的と呼んで、人間から切り離し、自分を人間的と呼んで、それとは無縁なものと見なしてはならない。私は、そう思ったのです。人間は、人間的という言葉の外縁を、無限に広げつつあるのです。人間は、人間的という言葉の主人であるのです。人間は、そのものが未完です。私が関心を持っている人間は完結していない。それですから、人間的という言葉の意味の境界も、閉じられていません。しかも、人間が完結した時、つまり滅亡した時、それを認識する人間も残っておらないわけですから、人間とは何か、人間的とは何か、という問に、限定的な答えを与えることは不能なのです。私たちに可能なことは、限りなく問い続けるということですし、それに与えることは、新しい問を準備するためのものでしかありません。

 めっちゃ人間ゆうやん。でもこの問題意識は戦争という「非人間的」な行いを、それでも人間の営みであり、人間はそういうものだと認識し警鐘を鳴らし続けたヴォネガットの考え方に共通するものが多いと思う。

 「人間は、人間的という言葉の外縁を、無限に広げつつある」がために、人間という境界を確定できるとするとどうなるか、の思考実験のための装置がトラルファマドール星人なのだ。人間主義者であるためには人間とはこういうものだ、という感覚を持たなければいけない。しかし、それは確定不能なのだ。というところに全ての運動の根源、ビッグバンの素があるのだろうな、と。

 私は人間主義者だ、でも人間って何なの?

 あと、「それでも日本人か」となじられたが、「そういう日本人もいるわな」、と開き直ってバランスを取っていたなだいなだに、ヴォネガットの著書「国のない男」というタイトルも重なって感じられる。

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