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産まれた時から波乱万丈じゃね?

こんにちは、ぼっさたろうです。写真の子とっても可愛いですね、3.4歳くらいのぼっさたろうです。純粋無垢〜!

今回は生まれた時から小学生に上がるまでの話を書きたいと思います。

小さい頃の記憶って鮮明に覚えてるものなんだなぁ…ここからもう閲覧少し注意です。


1993年3月26日PM4時6分爆誕

3294g、50cmの女の子が埼玉県で産まれました。赤ん坊の頃からミルクをよく飲んで寝て泣くどこにでもいる赤ん坊でした。[貴重な赤子アルバム参照]
もう産まれた時から波乱万丈というか、やばかったというか。
当時母親は20代前半、父親は30〜40代前半だったかな。
社内恋愛?出来ちゃった婚で結婚式は挙げず籍だけ入れてアパートに住んでたらしい。父親側親族はどう思ってたか知らないが母親側はそりゃあもうブチ切れ。特に母親の母親[祖母]がずっと怒っててヒステリックだったらしい。母親の父親[祖父]は楽観的というか興味ないというか干渉をあまりしなかった。自分の母親と父親が母親の両親に挨拶をしに行ったのは弟がお腹の中にいて、自分がまんままんまと話せるようになった1歳ぐらいだった。
それまで会っていなかったらしく、いきなり小さい子供を連れてきてお腹の大きい娘がきたらそりゃあ驚くよね。
でももうこうなったら仕方ないと思ったのか子供に罪はないと思ったのか祖父母は自分に優しく接してくれた。父親側の祖父母、親族との記憶はない。あまり会ってなかったと思う。とまぁ、物心ついた時には既にお姉ちゃんだった自分にいきなり事件が起こるなんて思いもしないだろう。

脳の病気で父が

弟がまだ産まれて何ヶ月かたった頃。自分がアンパンマンをあーまんまんといいながらはしゃいでた頃。脳梗塞か脳出血で父親が急死した。40代だった、若かった。その時父は頭が痛いと言っていた。でも母は特に取り合わなかった。父は痛すぎると自分で救急車を呼んだ。そこから覚えているのは大きな広い場所で黒い服を着たたくさんの大人たちが泣いていたり話したりしていて大きな扉に箱に入った父が連れていかれる光景だ。言った覚えはないが「パパ〜」と自分が大きい声で言ったらしく、大人たちはそれを聞いて泣き声をさらに上げたらしい。
そこから更に父親側親族に母が関わることはめっきり無くなった。
小さい子供を2人残された20代だった母はどんなに辛かっただろう。そんな辛い境遇にさらに辛いを与えたのは自分だった。

わがまま空想女児に成長

母は実家に帰り祖父母と5人で暮らした。祖父と祖母は喧嘩も多かった。祖父は手に気というものを溜めてその手を翳すと悪い所を治すと自分と弟の頭や怪我した所によく手を翳していた。これが不思議で手からホントに魔法出てんのか?ってぐらいあったかいんだからぁ…!ホントにおじいちゃんは魔法使いなんだって思ってた。祖母はそんなのは悪い宗教で孫たちに悪影響だとずっと祖父に怒っていた。
弟は祖母に懐いて自分は祖父に懐いた。小さかった弟は祖母に抱っこされたりして祖母は母親代わりだった。祖父は甘えればいつも着てる腹巻から万札取り出しておもちゃを買ってくれた。ポポちゃんとかシルバニアファミリーとかプラレールとか。
あと自分はアニメを見るのが大好き。この頃よく見ていたのはピングーとニャッキ!と三丁目のタマと赤毛のアンだった。
三丁目のタマと赤毛のアンはキャラクターが喋るがピングーとニャッキ!はその世界線の言語で話す。ナレーションがついてるわけでも無いので想像でこのキャラは今こんな気持ちでこんな事を言っている、と考えなきゃ分からない。いや、正解なんてない。想像、空想でそのキャラクターたちを思い描く。
よくピングーとニャッキの真似声をしていたし、こう言ってるんだよ!と弟や祖父母に話していた。赤毛のアンは祖母が好きでアンみたいな女の子になって欲しいという気持ちで見せていたんだと思う。言ってることとかは分からなかったけど、主人公のアンが男の子に揶揄われてブチ切れて、黒板を男の子の頭に打ち付けるという荒業を見せられた時は、「あ、嫌な事されたらこうやって怒っていいんだ!」って、インプットされてしまった。その先にある事を学んで欲しかっただろうけど。
三丁目のタマの劇場版の挿入歌を階段の窓の所で歌って将来は歌手かな〜女優さんかな〜なんて祖父母にチヤホヤされた。可愛い、可愛いとチヤホヤされお姫様のドレスを着て七五三も豪華な着物着て自分はわがまま歌歌うの大好き空想ガールに育ってしまった。この時にはもう話しかけてくれるお友達のお兄さんが自分の中にいて、独り言をよく喋る子だった。父のお金で母がマイホームを建て始めた時だ。

母のストレス

祖父母が別居し始め祖母と母と弟と自分で新築に引っ越した。新築に引っ越しても困ったことがあった。それはオムツが外れなかったことだ。シングルマザーで仕事で忙しかった母に構って貰えず、今考えるとこの時からおねしょする=怒られる=構ってもらえるという心理だったのかもしれない。お菓子を買ってもらいたい=お店で寝転がって泣き喚く=怒られる=構ってもらえる。弟より見て欲しかった、のだろう。それが母にとってストレスでしかなかった。自分は小学生になる頃には厳しい躾を受けることになっていた。
壁の四隅に追い詰められて角材を巻いた新聞紙で殴られる、スリッパで叩かれる、「お前は拾ってきた子だ!」「捨て子だ!元いた所に捨ててくるぞ!」と言われる。毎日のように繰り返されて祖母が止めるまで続いた。叩かれて痛くて泣いてまたうるさいと叩かれる。弟は母の後ろで笑っていた。自分はその光景を今でもしっかり思い出す。優しい母親の姿を思い出せと言われると思い出せない。
自分はずっと一緒にいてくれる年上のお兄さんに泣きついた。捨て子なの?お兄さん助けて、と。お兄さんはずっと一緒にいてくれて母に対して怒っていた。


暗い話が続きます、次は小学校時代の話を書きたいと思います。ここまでのご閲覧ありがとうございます。



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