見出し画像

法華経の風景 #12=完「五島慶太ゆかりの地」 宍戸清孝・菅井理恵

ヘッダー画像:渋谷・東急百貨店東横店跡

 写真家・宍戸ししど清孝きよたかとライター・菅井すがい理恵りえが日本各地のきょうにかかわりのある土地を巡る連載。最終回は長野と東京で五島ごとう慶太けいたゆかりの地を訪れた。


 100年に1度の再開発が行われている東京・渋谷。忠犬ハチ公像の前には海外からの観光客が一列に並び、記念撮影の順番を待っていた。駅前のスクランブル交差点を無数の影が交差する。その向こうに見えるのは、「SHIBUYA109」。印象的な名前は、東急とうきゅうの読みを数字の「いちまるきゅう」にあてて付けられた。

 渋谷の発展と深く関わる東急は、2022年に100周年を迎えた。事業の根幹は鉄道事業を基盤とした「まちづくり」。その源流を辿ると、実質的な創業者である五島慶太に辿り着く。

 秋田犬のハチが飼い主の帰りを待ち続けていた1934年11月、渋谷駅と一体になった「東横百貨店(のちの東急百貨店東横店)」が開店した。鉄道会社が直営するスタイルは関東初。郊外に帰る人たちの利便性を考え、朝9時から夜9時まで年中無休で営業した。都心で働き郊外に住む――その後長く続く「東京の暮らし」の始まりでもあった。

長野・青木村殿戸

 山肌にへばりつくように、トタン屋根の家々が建っている。1882年4月、五島慶太は小林家の次男として、長野県青木村殿戸とのど(旧殿戸村)に生まれた。三方を山で囲まれた青木村は、面積の約8割が山林で、階段状の傾斜地が多く平地が少ない。

 慶太の生家は殿戸集落の一番上の高台にあった。その跡地を目指すものの、道はあっという間に細くなり、あみだくじのような分かれ道が続く。愛情深い両親は熱心な法華経の信者でもあった。慶太は、毎日、父が唱える題目を聞いて育つことになる。

 ようやくたどり着いた生家跡は山が近く、下界よりもひと足早く、夕闇が迫る気配を感じた。

長野・青木村殿戸

 青木村を訪れたのは、秋が深まる新そばの季節だった。村内だけで栽培される品種「タチアカネ」を目当てに、多くの観光客が訪れる。標高が高く内陸にある青木村は、昼夜の寒暖差が大きく、夏と冬の気温差は30度以上にもなる。その過酷な気候が、そばの甘みを引き出す。

 慶太は29歳まで学ぶことを諦めなかった。当時は小学校を卒業したら働くことが当たり前。それでも、両親に頼み込んで上田中学校(現在の上田高校)に進学すると、片道3里(約12キロ)の道のりを毎日2時間かけて歩き、3年間1日も休むことがなかった。

 その後も働きながら勉強を続け、20歳で東京高等師範学校(現在の筑波大学)に入学する。学生生活で最も影響を受けたのは、「講道館」を創設した嘉納かのう治五郎じごろう校長の教えだった。

「すべて物事を大きく考えたならば必ずおじけを生じてふるえてしまって成功しない。どんなことでも物事を小さく考えて、『なあに』という精神だけ養え。こういう講義を實に一年間聞いた」(五島慶太著『七十年の人生』)

五島慶太胸像(殿戸公民館)

 故郷の殿戸公民館には慶太の胸像がある。胸像は人間の頭ほどの大きさだが、その台座は不均衡なほど大きい。終生、故郷を思い続けた慶太を偲ぶように、台座の背面には慶太の功績がびっしりと刻まれていた。

 東京高等師範学校を卒業した慶太は教職に就くものの、「もっと学んで、世の中と勝負してみたい」という思いを捨てられず、25歳の時、東京帝国大学(現在の東京大学)に入学する。29歳で卒業後、農商務省を経て鉄道院に進んだ。

 慶太は上京してからも、よく両親に手紙を出した。「五島慶太未来創造館」(長野・青木村)には、父の命日に「観音経かんのんきょう(法華経観世音かんぜおん菩薩ぼさつ普門品ふもんぼん)を読誦した」ことを伝える母宛ての手紙が残されている。信心深い両親は、慶太が里帰りした時も、「よく無事でここまで過ごさせていただいてありがたい、どうかこの子供が健康でえらくなるように」と拝み、「南無妙法蓮華経」と祈ってから、初めて話をしたという。

書状 小林寿ゑ宛(五島慶太未来創造館)

 制服を着た子どもたちが行き交う東急電鉄・田園調布駅の夕方。2000年に復元された駅舎は、欧州中世期の民家がモデルらしい。

 1918年、実業家の渋沢しぶさわ栄一えいいちは、自然と都市が調和した理想的な住宅地を実現しようと、田園都市株式会社を設立した。暮らしそのものに焦点を当てた宅地開発の目玉のひとつは、鉄道の整備だった

 同じ頃、鉄道の建設や経営に詳しい慶太は、官職を辞して武蔵電気鉄道の常務に就任していた。1922年、田園都市株式会社は鉄道部門である目黒蒲田電鉄を独立させ、慶太はその経営も担うようになる。

 新しい住宅地で子どもが生まれれば、学校が必要になる。鉄道会社としては珍しく、慶太は積極的に学校を誘致し、沿線には多くの学校が誕生した。「学ぶこと」で人生を開いた慶太らしい発想だった。

東京・田園調布駅旧駅舎(復元)

 1923年11月、目黒蒲田電鉄は目蒲めかま線の全線開通に至る。その2ヵ月ほど前、関東大震災で住宅が密集した都心部が壊滅的な被害を受けると、郊外へ移り住む人が増加し「田園都市」はさらに注目を集めることになる。

 慶太には「人々の利便性を考えれば、鉄道事業はまとまりが必要だ」という強い信念があった。1939年に目蒲電鉄は東横電鉄を合併して東京横浜電鉄と改名し、1942年には京浜電気鉄道と小田急電鉄を合併。さらに京王電気軌道も合併して誕生した巨大な鉄道会社は「大東急」と呼ばれた。

 太平洋戦争中に運輸通信大臣を務めた慶太は、69歳で公職追放から復帰する。70歳の時、渋谷駅前の再開発に着手し、1959年8月に77歳で亡くなった。宿願の「五島美術館」(東京・世田谷区)が開館したのは、その翌年だった。

東京・五島美術館 庭園

 美術館の敷地は約6000坪。多摩川に向かって傾斜する庭園は、どこか青木村の殿戸を思い起こさせる。そこは、もともと自宅敷地の一部で、慶太は広大な庭園を毎日歩いて、健康を維持していたという。

「健康でない人間は頭も鈍ければ、意思も弱く、朗らかでもなく、決して積極的な考えなどは出て参りません。健康を維持するために、第一に戸外運動をして日光にさらされることが最も大切であります。第二には、運動と修養とを兼ねた『行』を毎日行うことであります」(同)

 かつて慶太が歩いていたであろう無骨な石段を上っていく。

「私は全然無神論者ではない。宗教心というものはだれの心にでもひそんでいる。そして中學時代から東京の學校での修業時代、即ち人間の心の白紙の時代にそういう感化を受けたために、私は、どんな困難があっても、どんな苦しみを受けても、或いは病気になっても、南無妙法蓮華經というお題目を唱えることによって、悉くこれに打ちかつことができるという確信を心の底に持って、今日まで何ごとによらず七十年間やってきた。また今日もなおそういう確信を持っているが、父母が私に輿えた感化というものは實に偉大なものだと、今日私は父母に對してこれを非常に感謝している」(同)

五島美術館・富士見亭

〈完〉


【参考文献】
五島慶太『七十年の人生』(要書房)
唐沢俊樹編『五島慶太の追憶』
『東急100年史』(WEB版)

宍戸清孝(ししど・きよたか)
1954年、宮城県仙台市生まれ。1980年に渡米、ドキュメンタリーフォトを学ぶ。1986年、宍戸清孝写真事務所を開設。1993年よりカンボジアや日系二世のドキュメンタリーを中心に写真展を開催。2004年、日系二世を取材した「21世紀への帰還IV」で伊奈信男賞受賞。2005年、宮城県芸術選奨受賞。2020年、宮城県教育文化功労賞受賞。著書に『Japと呼ばれて』(論創社)など。仙台市在住。

菅井理恵(すがい・りえ)
1979年、福島県喜多方市生まれ。筑波大学第二学群人間学類で心理学を専攻。2003年、日本放送協会に記者として入局し、帯広支局に赴任。2007年に退局し、写真家・宍戸清孝に師事する。2014年、菅井事務所を設立。宍戸とともに、国内外の戦跡や東日本大震災の被災地などを取材し、写真集・写真展の構成、原稿執筆などに関わる。情報誌や経済誌などで、主に人物ノンフィクション、エッセーなどを執筆。現在、仙台の情報誌『りらく』で、東北の戦争をテーマにした「蒼空の月」を連載中。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?