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Withコロナ時代のアジアビジネス入門㊵「モンゴルのヒップホップが熱すぎる」@『Mongolian Bling(モンゴリアン・ブリング)』

ヒップホップはモンゴルが発祥?
 頭で描いていたモンゴルのイメージが粉々になるぐらい驚きました。
 <ヒップホップはモンゴルが発祥です。伝統民謡にある語り口調が、米国に伝わりラップになった>
 モンゴルのヒップホップドキュメンタリー(youtube→)『Mongolian Bling(モンゴリアン・ブリング)』(2012年)に登場する民族衣装の中年の男性がこう語りました。ドキュメンタリーは首都・ウランバートルの若者たちに焦点を当て、ラッパーを目指して初めてのアルバム制作に挑む女性や、伝統的な音楽要素を交えた楽曲で自身のアイデンティティを確立しようとするアーティストたちの姿が描かれています。監督はオーストラリア出身のテレビカメラマン、ベンジ・ビンクス。すでに日本でも上映され、モンゴルのヒップホップが隆盛を極めていることは知る人ぞ知る事実です。
時間がとまっていた私の“モンゴル観”
 私のイメージが粉々になった<夢の中のモンゴル>とは、1983年、生まれて初めての海外旅行で新潟空港からソ連の極東、ハバロフスクに降り立ち、そこからシベリア鉄道でモスクワに向かう途中の駅、ウラン・ウデで夢想したモンゴルです。ウラン・ウデからは支線が出ており、モンゴルのウランバートルに向かうのでことさら旅情をそそりました。そのモンゴルとは草原、遊牧民、チンギス・カン、そして司馬遼太郎の世界(『草原の記』『街道をゆく モンゴル紀行』)で、どこか牧歌的なイメージでした。私のイメージはそこに大相撲のモンゴル出身力士が加わっただけで今日まで時間が止まっていました。
民主化で“西側”の音楽が流入
 初渡航国家であるソ連が崩壊した後、ソ連に次いで世界で2番目の社会主義国となったモンゴルにも民主化の波が訪れ、1992年に国名もモンゴル人民共和国から「モンゴル国」と改め、市場経済を導入した民主主義国家として再出発しました。同時に、ロック、ポップス、ヒップホップなどの“西側”の音楽も流入しました。
 もともとヒップホップは1970年代中頃、米ニューヨークのブロンクスに住むアフロ・アメリカンやヒスパニック系の貧困層の若者が生み出したストリートカルチャーです。
シャーマニズムや口承文芸がバックボーン
 「なぜ、モンゴルでヒップホップがはやるのか」は疑問でしたが、島村一平・国立民俗学博物館准教授の著書『ヒップホップ・モンゴリア:韻がつむぐ人類学』(青土社)を読んで納得しました。
 島村氏はドキュメンタリーでヒップホップのモンゴル起源説を唱えた男性の言葉には「そう思わせるような文化的背景がモンゴルにあるのは事実だ」と言及します。この男性は、れっきとした伝統的な口承文芸の担い手、ユルールチ(祝詞の語り部)であるからです。
 島村氏の専門は文化人類学で、シャーマニズム(シャーマン=巫師・祈祷師の能力で成り立っている宗教現象の総称)を中心としたモンゴル文化の研究をしてきました。そうした中でシャーマニズムや口承文芸といった伝統文化に通ずる性格を持つモンゴルのヒップホップに注目してきました。
貧富の格差や環境問題を表現
 島村氏が指摘するモンゴルのヒップホップの背景にはモンゴルの人口(330万人)の半数が集中するウランバートルの貧富の格差や環境問題などがあります。
 <韻を踏みながら、モンゴルのラッパーたちは、貧富の格差や環境問題、政治腐敗といったローカルかつグローバルなイシューにするどく切り込む。愛だの青春だの友情だのといったことしか歌わない、どこかの国のヒップホップ風フォーク歌手たちとはわけが違う>
 <モンゴルのゲットー「ゲル地区」出身で、舌鋒するどく政治批判をするMヒップホップの帝王、Geeとそのライバル、エリート出身のQuiza。Sasha Go Hardを彷彿とさせるような透る声で畳みかけるような高速ライムを刻むスラム出身の女性ラッパー、Geniie。そして彼女を世に送り出した、モンゴル・ヒップホップのオリジネーターの一人で、今は亡きエンフタイワン。「モンゴリアン・ブリング」は、ヒップホップのアーティストたちの姿を通してみた現代モンゴル像である>
『ヒップホップ・モンゴリア』
 現代のモンゴル文化と音楽の独自性と先進性を改めてかみしめています。

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