見出し画像

「敷居/閾」の話。

松岡正剛「編集力」千夜千冊エディションを読んでいた。

序盤に「敷居」の話が出てきた。
「敷居かあ…」ふとそう思った。

「敷居/閾」とは・・・「門の内と外との仕切りとして敷く横木。
          また、部屋の境に敷く、引き戸・障子・ふすまなどを 
          開けたてするための溝やレールのついた横木。」
「閾」・・・「ある刺激の出現・消失、または二つの同種刺激感の違いが感じ
     られるか感じられないかの境目。また、その境目の刺激の強
     さ。」

だそうだ。

敷居と言うのは大切だ。私たちに「間」「空間」「空気」の境を感じさせ、気持ちの切替だけでなく、違う人間にも仕立てることすら可能な「デザイン」だ。

例えば、家の玄関扉を一歩出れば、社会空間であり、それまでは家空間だ。
玄関扉の内か外かで、私たちの人間性や性格は異なっている。
家では大人しくて、外では気が大きい人。
家ではだらしなく、外ではテキパキしてる人。
そうした意識の変化以上に人間性を変化させ、行動の変化すら可能にするのが「敷居/閾」だ。

敷居は、私たちの考えるよりも、身近にある。
私は、「敷居/閾」ーどちらかと言うと閾の意としてのーの威力は絶大だと思っている。「扉」「お風呂」「玄関」「挨拶」広い意味で、「気持の切替」とか「期待感の獲得」とか、そうした意味での「敷居/閾」である。

しかし、私は今回そうした敷居よりも、言うなれば「資本主義的敷居」について問う。

「資本主義的敷居」とは何か。

最近流行りの「リスキリング」が一例だ。
「リスキリング」・・・職業能力の再開発、再教育のことを意味する。
           近年では、企業のDX戦略において、新たに必要となる
                                     業務・職種に順応できるように、従業員がスキルや知
                                     識を再習得する意味で使われている。
とBingは言っている。

最近は新聞でもよく見かける言葉で、ネットニュースでも盛んに使われている。「日本は欧米よりリスキリングが進んでいない…」だとか。

「学び直し」じゃダメなのか!!!!!!!
「職能/スキルの獲得」じゃダメなのか!!!!!!!

「リスキリング」という言葉や、DXに合わせたスキルを身につけることがよくないと言いたいのではない。
私は、「リスキリング」と言う言葉にまとわりついた「いまのあなたじゃダメですよ」「リスキリングを知らないんですか?」「造語に伴った新たなサービスの購買促進」というような透けた欲望や態度が嫌いだ。

念押しで言っておくが、リスキリングの推進や、リスキリング関連の仕事をしている(どんな仕事かはよくわからないが)人たちのことは嫌いではない。
「リスキリング」という言葉が纏っている欲望や態度が嫌いなのだ。
企業や組織のDX戦略のために役に立つ人材になることは、社会の役にも立つだろうしより時代に合ったソリューションを構築することができる。それはいいことだ。いいじゃないか。そのために必要なサービス、学校なり独学でも。どんな手段でも、社会がより良い方向へ進むのは素晴らしい。

だったら、DXに合わせて、統計学やデータサイエンスや高度IT人材養成講座でも、なんでも訴求すればいいじゃないか。
なぜわざわざ「リスキリング」などど抽象的で、学び直しに投資していない人は遅れていると言いたげな、全く必要のない「敷居」を目の前に広げられなければならないのだろう。

不必要で魅力にも感じられない「敷居」に、若者世代特に20代以下の世代は辟易している。知っていることが必要で、話題にだけ上げて、実践するための施策や訴求力のあるサービスは見当たらない。ただの投資促進ワードだ。最も私が嫌いなのは、「リスキリングは重要だ。必要だ。」と言って、能力主義を突きつけ、高額収入や知名度のある人物にフォーカスして煽るようなその「見せ方」だ。

なぜわざわざ「リスキリング」と言って煽るような、焚きつけるような、そんなやり方が横暴にもまかり通っているのだろう。
DX戦略に必要となる業務、職種に造詣の深い人の日常的な働きぶり、実際にどのようなものかリアルを見て、人間像に迫る。そうした「現場DXの現実」を魅力的に感じるからこそ、堅実に取り組みが進むのであろう。

「高収入で知名度のあるハイパービジネスマンになりたいでしょう?」と下品なオーラを纏わせた記事やメディアはもう、うんざりだ。

世の中にはいらない「敷居」だらけだ。
「敷居」を売り物にしているサービスが多すぎるし、生活が従ってしまっている。人からの見られ方、仕事、年収、職能、趣味、時間の使い方、コスパ、家庭、生活、食事、今や何を取っても不必要な敷居に塗りたくられている。もはや、コンテンツ作り=不必要な敷居作りとなっている。

おかげで、学校は今では、「教育」提供の場というよりは「支援」提供の場になっているそうだ。これは、不必要なまでに細かい敷居を多く跨がせ、あたかも成長したかのように感じさせる、生徒と親を気持ちよくさせるためだけに有効な手法だ。クソだと思う。

「子供に強く指導するとクレームが入るし、褒めて伸ばす事がいいらしい。 
 だから、敷居を作って成功させないといけない。」
「学び直しの効果が見られないとクレームがくるから短期で成果が上がった
 ように見せなければいけない。だから敷居が必要だ。」
これは全く同じ構図だ。その敷居が細かければ細かいほど、払われる金額が高くなるのだからいい商売だ。(学校については全くいい商売とは言い難い)

ここまで「リスキリング」を例に「不必要な敷居」の話をした。
現代では「敷居」を作りすぎだ。もっと適切に、必要なだけ、「敷居」を作ろう。敷居を適切に敷いて、感じることは、揺れ動く外の私とうちの私に適切な期待感や変革を感じさせてくれる。現代の「敷居」はもはや「狂気」だ。そこにこそ、適切な「敷居」を敷かなければならない。私たちが今どの部屋にいるのかを適切に知るために。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?