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法律、AIそして倫理について


 僕は企業経営者の端くれだが、コンプライアンス(法令遵守)という言葉に時々、無味乾燥を感じている。

 法律を軽視するとか、何も法律なんか守るな!と言いたいのではない。何のためのルール(法)なのかを考えずして、単なる遵守に縛られ、「守る事」のみを目的にする最近の企業風潮が行動や活力を奪っているジレンマを目にして耳にする場面が多い事と関係する。


 企業や組織の規模が大きくなると、殊更、全体として「防衛、防御」「権利」「リスク回避」の観点がクローズアップされ、自分たちの手足を縛るような進め方がなされていく。


◇法律やルールがなんのためにできたのか。


まあ、法治国家なのだから、無法者だらけの無法地帯になってしまい社会が混乱して、多くの人が幸せになれないようだと困る。
 社会の秩序を維持していくために法律やルールが定められる。その法律を守るのは、当たり前と言えば当たり前なのだ。しかし今日では、法律の前の段階で忖度や予測に振り回され、元の立法の意味や、なぜその法律が出来たのかの原点にまでに思いを巡らすことは少ない。

大雑把にいうと、法律そのものの権威化が人間や社会を停滞させていいのかという点だ。

◇生きるということの再定義。

法律に無意味さを感じているのではい。法律以上に大切なものだって沢山あるのではないか?或いはルールがないと何も決められない社会にドンドン突入していいのか?そしてルールをつくる人や組織が権威となって、それを縛る事だけが果たして社会を豊かにしていくのだろうか?という素朴な疑問が最近は沸々と込み上げてくる。

 日本の場合、戦後社会は「モノに渇望」していたために、多くの人が「モノを豊か」にすることで幸せが享受出来て、安定した暮らし、安心する社会づくりのために、「個人」を犠牲にして奉仕した社会だった。全体の解(答え)らしきものが漠然としてあったので、みんな一生懸命、その社会づくりのために励んだのだ。
 ある程度は豊かになり、世界の先進国となった日本は「モノが溢れ」後に強烈なスピードで「消費社会」に突入した。その結果、モノを作る生産者やモノを運んだり提供する流通業者よりも、それを買う(消費)するお客様が偉くなった。法律の変遷も生産者保護の観点から消費者保護へ一気に流れは広まった。そこに「人権」も加わる。

良し悪しではなく、時代の要請による。
昨今では、様々な世界で「人手不足」が論じられて、学校の先生のサービス残業問題やら企業も社員の有給休暇取得を義務化するなど、その一例だ。

下記の
物流2024問題も同様。

物流の2024年問題とは2024年(令和6年)4月1日から適用される「働き方改革関連法」によって物流業界に生じる諸問題のことです。働き方改革関連法は、日本社会が直面している正規社員と非正規社員の待遇差や長時間労働の常態化などを改善する目的で、労働基準法をはじめとした関連法を改正したもの。
同法律で規定されている項目のうち、主に「時間外労働の上限規制」による物流・運送業界への影響を指して2024年問題と呼ぶ。具体的には走行距離の短縮やトラックドライバーの収入減少、運送会社や物流業者の売上減少、物流コストの上昇などが起こると予想されている。



いずれの法律も、必要と思われる良き動機によって議論が開始されたことは間違いない。
働き方改革で、成し遂げたかったものは、個人や社会が活き活きと活躍出来るものがあった筈。
しかし、多くの現場では「理想と現実」のギャップが大きすぎて、杓子定規で捉えていいものかという疑問と不安と混乱が横たわっている。働き方改革関連法案全般に言えるが…
 この法改正によって喜びを感じるドライバーは一割にも満たないのではないか、とも言われている。つまり助けるためのものが全く助けにならないという矛盾が現実ではないか。



この春は、生成型のAIのニュースが駆け巡る。人間の次なる可能性の扉を開けたともいえるし、見方によっては知識型社会(知識人)暗黒時代になるのかもしれない。
道具(ツール)の発展には、必ず光と影の両面が生まれる。正と負、良しと悪し、いずれもセットだ。あらゆる階層で今の作られた社会のあり様は生成型AIの普及によって新たな世界に突入するのだと思う。自動車やコンピュータがそうさせたように、印刷技術やインターネットがそうさせたように、社会が大きく変容を遂げる。よって、個人は、「どう生きるのか」の再定義時代に突入したのだと受け取るべきだ。


◇豊かなAIとは

テクノロジーとしてのAIは今後も進化し続ける。その進化過程においてAIを人間の良き相棒にするために必要なのは、良き人間としての振る舞いと言動がカギを握る。「良き人間」というと道徳的で抽象的な表現だが、正に大事なのはその「道徳的」観念ではないだろうか。「倫理」や「良識」といってもいい。

生成型AIが、いずれ「判断としての知能」や「感情」らしきものを持つかはわからないが
先輩や上司、親方の背中を見て後輩や弟子や部下が同様に振る舞うように、親の言動をみて子供がなんらかの影響を受けるように、生成型AIは、人間をみて育つのだ。今の所、統合された巨大なサーバにあるビッグデータには人間の営みとこれまでの膨大な知識が蓄積されて高度な計算を弾き出すようにつくられている。


人間が醜ければ、当然AIもそうなる。人間が愚かならばAIもそうなっていく。個人の意思よりも組織の意思が重要だと思い込ませればAIもその通り計算していく。エゴ丸出しの自我だらけの人間が多ければ多い程に、同様に生成されていく。

個人が埋没していくように振る舞い、国家や大組織の都合に合わせたAIが生成されていくことだってあるだろう。国家やGAFAMのような巨大機構がAIを権力化することだって可能な理屈だ。例えば法律を守っているかどうかをAIが監視するし、もしくは合法的か違法性があるかの疑問をAIに確認するのも容易なことだろう。

結果、多くの人がAIに縛られていく世界になる。AIに仕事を奪われるなんてことはなく、実は人間そのものが個人として「生き方を問われる」のが本質的な話だと思われる。

果たして、僕ら一人ひとりの「個人」は、何かに埋没し無表情な社会を構成するメカ(ロボット)のようになるのを望んでいるだろうか。

◇新しい個人

秩序を維持するために、個人を殺し切っていないだろうか?波風立てないためだけに、仮面を被って過ごすのが当たり前になっていないだろうか?
法律を守るためだけに、多くを犠牲にしていないだろうか。

ある時点においては、法律は守って当たり前なのだ。なんのために出来た法律やルールなのか?の根本を時々見直すことが人間の役割なのではないか。

信号のない交差点は、事故の確率が高い。車の量が増えれば当たり前だ。しかし、車の走ってない地域でやたらと信号があるのを、「おかしい」と思わない方が本来はおかしいのだ。究極、信号がなくても、事故が起こらないことをつくっていくのが健全な思考だ。
そのために、自動運転や安全制御の技術テクノロジーが発展していくことが望ましい。そして常に「気をつける」心の持ち様こそが本来だ。
単純に信号機を設置する、その信号機のルールを守る、その在り方が限界に感じる。

 

同様に、法律やルールがなくても、健全な社会をどうやってつくっていくのか、を自問自答していくのが、未来を豊かにするために人間が出来る可能性の範囲なのだと思う。


新しい時代の個人は、そこを自覚する事で
誕生していくのだと思う。
新しい個人がふえていくことで、社会は必然的にブラッシュアップする。

道徳や倫理を自分の中にどれだけ持てるか、
それは人から押し付けられるのではなく内側から込み上げる「想像力」が試される。

…と、しかしである。

法を犯す事を許されるはずもない。一方で何が犯罪で何が法律を破ることなのかは、個人として、より根本的に向き合う時代でもある。違法と合法を真面目に捉えて、ヒトとしての生きる行為、信を自らに問うという意味だ。

そして、その前に、各々の「倫理観」「良識」をちゃんと確かめ合うのも必要ではないか。僕個人であっても、今までの人生を振り返った時に、完璧に品行方正に生きてきたわけじゃない。何かに迷い、誰かを傷つけ、自分でもフラつき、その都度自問自答を繰り返してきた。その時々で多くの示唆を与えてくれたのは、友人であり、先達や師匠であり、仲間であり、同僚であり、書物やメディアであり、そして家族であり、経験と体験の中であった。僕の中の道徳は、決して一人でつくられたものではない。

事と場合によるが、法律よりも大切なのは個人のそうした「道徳」であり、それを他者と共有(シェア)しあい、付き合うお互いの中に、それぞれにある「価値観」や「嗜好」や「常識」を確かめ合うという意味である。きっとそれは社会における「安全装置」にもなるし、自らの中にある「負の感情」や「影」を大きくしない方法でもある。

まずは、個人が出来ることは、一人ひとりの、緩やかでかつ温かい関係構築からスタートだ。

法律やルールよりも、大切な「倫理観」を個々が関係性の中で育む。その必要性がましてくる時代だと改めて思う。

そして、その新しい倫理観がどのようなものかを対話しながら、考えていきたい。


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