WSDのサグラダファミリアめざす。

①12月2日(金)スタート
今回は成長し続けるNote目指すことになりました。

やばいからこうすればよくなる。
(この発想やきりかえ、
ワークショップには欠かせないような)


ワークショップのこと、書きます。
昨年5月に学びを始めさせていただいたWSD。
そして昨年8月から現在も学んでいるグラフィックファシリテーションについて書くと宣言しながら・・・・・・
やばい、アドベントカレンダーの日、勘違いしてました。
でも当日である今日に気づいたので、とりあえず一年ぶりにNOTE書き始めました。

ちがうちがう最初からその予定だったんだ。(空想)
そうだ、これは私の内容もアドベントカレンダーのように日々増えていく形にすればいいと、自分にいいように置き換えることにしました。

いつも投稿する時はとりあえずあげておいて、修正するタイプなので。
(誰も気づいていませんが)

今日はワールドカップスペイン戦のために朝4時から起きており、
明日も早朝から仕事なので、早々に今日は撤退します。

これから続く方はちゃんとカレンダー通りにしてくれるはずです。

よーし、単なるごまかしじゃなくて、
何とかファミリアみたいに永遠にはできないけど、
アドベントカレンダー中は、成長し続けるNote目指してやる。



②12月3日(土)
多様性、この今巷であふれている言葉。
ワークショップでも大切な多様性。

多様性の反対は画一性。
多様性ってどこまですべきなのか?

この間某SNSでおっちゃんが
ゲイの方がよく皆さんが通われている銭湯で
愛情が高まるのはよくわかるが、それを見たくないのに
見せられてしまうのは、どうなんだ。
多様性ってことでなんでも許されるべきじゃない。
特に今まで一部の世の中ではなかなか認めてもらいにくかった立場の方が
多様性という言葉や考えにより、認知されやすくなったことは非常に大切ですし、私達の価値観や視野を広げてくださっています。

そのSNSのおっちゃんは、いくら多様性って言っても
誰かが不愉快になるのは多様性って言えないのではと締めくくってられました。

本当にその通り。
多様性って多様な立場の人だけでなく、それに触れる人見ている人も含まれるから様々な立場の人を見るそれぞれの立場の人の感覚もふくめるとまさに無数とまではいかないが想像できにくいくらい多様性があるといえる。

自分好みの思考や雰囲気とは違うところのお湯に浸かってみる。
(おっちゃんの話が銭湯だったのであやかって)
これも多様性を身に付ける一つかもですね。

そんな多様性を受け止めるってどうすればできるのか?
自分の経験だけでは、到底たどり着かないだろうなあ。

じゃあ何を頼るかといえば、やはり想像力でしょうか?

単に想像すればいいではなく、想像できない自分の受け入れる力もいるかもですね。
つまり想像できると自分で自分を信じてしまうと、
想像できないことは受け入れられないってことになってしまうのが気を付けたいところ。

しかし自分には想像できない多様性があるのだと
わかっていれば、想像できない人に出会っても
ちょっとまてまて、自分には想像できないからって決めつけたり、
早急に判断していいのか?っていう風になり、決めつけず多様性の扉が開いたままになっている状態になるように思います。

「多様性って自分の想像越える多様なものがあることだと感じ取ることが大切」「多様性は多様なものはなんでもOKじゃやなく、互いに多様性と認め合えるように相手を想像する想像も大切」
おっちゃんの投稿からインスパイアされた自分の考え。


本来の自分ではつかみきれない多様性多様性。多様性と主張するすべてを多様性とするかどうかは議論が必要ですが。

③12月4日(日)
世界が注目したスペイン戦の1ミリ?のライン上からのゴールから
ワークショップを考えてみると

先日のワールドカップ。
スペイン戦で三苫選手がラインぎりぎりのボールをけり、そのボールを田中選手がゴールを決めた。その時の三苫選手が蹴ったボールがラインにかかっていたかどうか、1ミリ?数ミリ?かかっていたという写真や記事でにぎわっていますね。

この話題とワークショップを紐づけたいんです。

私もこのシーン、テレビで生でみておりました。
そして「これライン割っているなあ」って思っていました。


リピート画像では
ボールが地面についている部分はラインの外であることは確か。
でもサッカーってライン上、ボールが直接地面に接していなくても真上から見た時に
ボールの一部がラインの上にあれば、オンライン(試合中)であることって
どのくらいの人が知っていたのだろうか?

テレビのサッカー選手の中にも「知らなかった」と言っていた人がいました。(それはそれで大丈夫ともおもいますが)

えーそうなの?
世の中で、当たり前と思っていたことやあまり細部の細部にわたり気にしていなかったり
理解していないけど、そうなんじゃないの?って感じたり理解したりしていることって
このサッカーのように世の中には埋もれていそうだ。

世の中は知っているようで知らないこと、新たな発見の連続ということか?
ワークショップを通して、「ああそういうことなんだ」「知らなかった」「意識していなかったなあ」「新たな発見だ」がたくさんある。

私達はあまりにも真実や本当のことをしらない。
だからワークショップを通して対話をし、自分の気持ちや思いについて語り、
また相手の気持ちや思いを受け止めようとする。

サッカーのように劇的ではないですが、
そんな体験を日々の中でも行いたいと思っているという
気持ちが奥底にあるからワークショップを行ったり、いろいろなことを知ろうとするのか、

それはでも探し求めるというより、いろいろな体験や生活の中で
偶然に行われたり見つけたりするからこそ、楽しかったり感動をうんだり
するんだろうなあと。

人は普段ならどちらかといえば、知っていることをどう活用するかに
忙殺されているかもしれない。
また知らないことを簡単にスマホなど使って検索してしまうことも
今の世の中の常だ。

そんな知っていることが当たり前だから
求めているのではなく、
偶然出会う自分が知っているようで知らなかったことに驚きや発見をするのかな?

以外と真実は闇の中にあったり、本当のことが語られていなかったりすることかも
これを書きだすと延々になりそうなので、また触れることができればまた。

サッカーのライン上の感動シーンで
もう一つは多くの人が感じたであろう最後まであきらめないってことでしょうか?

ワークショップにおいても
例えば、
「おおむねこういう話だからこういう感じかな?」とか
「この人の言いたいことはこういうことだよね」など
最後の最後まで確かめず、そういうもんだろうなって思うところ多分にあります。

またワークショップの限りある時間で
大勢はこういうことなんじゃない、もうおわりだなって
まだワークショップが終わっていないのに結論付けたり。

ワークショップの最後の最後に本当の真実が語られることが
あるかもしれないのに、もうこのワークショップのボールはラインの外に出たので終了とか次のプレイに移りますみたいな。

対象は一人一人であっても参加者全員であっても
最後まであきらめず、どんな対話がされているか?
意図は何か?思いは?真実は?って追い続けることって大切だなって
感じましたが皆さんはいかがですか?

サッカーの感動シーンをこじつけているだけなのかも?


日本国旗日本国旗と今回のプレイなぞられていますね。

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