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【一分小説】もっと触ってよ

「ねえ、もっと、」

騒がしい商店街の奥は妙に静か。
慣れないラブホテルに私と彼の二人。何故だか涙が溢れた。

「もっと触ってよ」

やっぱり恥ずかしくなって、黙った。

ああ。このまま今夜、これからもきっと、何もないんだ。
強気も弱気も、恋も悪寒も、このカビ臭い部屋へ勢いよく流れ込んでくる。

涙を誤魔化したくて、とりあえず右横を見る。

この大きな窓からは、街と山が重なった変な景色が見えるのだろう。今は何も無いけれど。
街頭も、月もない。
商店街はこの真裏。
月の裏側に来てしまったみたい。

彼は俯いたまま。唇だけが少しずつ動くけれど、少しも声は聞こえない。

「仕方ないよ。まだ大人になったばっかりだもん、私たち」

ため息と共にベッドに横たわる彼。
震えるその息で、胸がぎゅっと締め付けられる。

本当は泣くのも、我慢するのも、駄目なのに。
溢れて止まらない醜い涙は、他の何にもならない。

彼が小さく小さく呟く。

「もう大人なのに」

返事をするかどうか迷った、けれど、ひとつも無視ができない。

「んん、まだ幼いよ」

また間違えたかも。

クボタカイの歌の中なら『青い果実』と表されるのかな。

まだ熟れないままで、居たかったのかもしれない。
我慢できなくて齧っちゃった。まだこんなに酸っぱいのに。

「やっぱりいいや。もうすぐ始発だし。」

ブラウスのボタンを留め、ピアスを付ける。
鏡に映った彼の背中は丸くなっていた。

私はテーブルに五千円を置いて、扉に手をかけ、

「ごめんね」

彼がそう言ったのを聞いてから部屋を出た。


息が詰まる。

外はもう薄明るくて、建物を出てから流れるように駅の方へ歩いた。

自宅方向へ向かう電車はいつもよりも色褪せている気がした。
ガラガラの車内。向かいの窓から見える景色はゆっくりと変わって往く。

まだ残る雪の中に、あれは、桜だ。

「なんで」

言いたい事も言えず、傷つけたくなくて自分が傷つき、そんな惨めな自分が嫌になる。
変な景色。変な彼。変な私。ああ、

「なんで。全部おかしくなっちゃったんだ」

幼いことが今こんなにも嫌で恥ずかしい。
二十歳って、もっと大人だと思ってた。

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