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自由になるためにさらけ出す【読書日記】

3月25日(Monday)

暗い面をさらけ出すのは、
私が自由になる一つの方法だ。
これも、また私だということ。
私の大切な人々にはどうかわかってほしいと思う。

ペク・セヒ『死にたいけどトッポギは食べたい』(訳:山口ミル)

ペク・セヒ『死にたいけどトッポギは食べたい』(訳:山口ミル)を読み終える。気分変調性障害の女性の医師とのカウンセリングの様子を文字に起こしたもの。話題になっていたころにタイトルに惹かれはしたものの読んでいなかった。

読みながら彼女の生きにくさをひしひしと感じ、それが医師との会話によって少しずつ言語化、そして自己分析されていく姿にさらけ出すことの許しみたいなものを感じた。

私自身はここまで生きることを容易いとは思っていないけど、膝を付いて動けなくなるほどツライとはならずに生きてこれた。一方で、自分の脆さも自覚していて、きっかけ次第では簡単にうずくまってしまうのだろうなとも思っている。

著者のような自己肯定感の低さや依存傾向の高さは感じていないけど、根本的な厭世観と人間不信は少なからず持っている。お人好しな八方美人であり、他人との間に境界を引きたがる。死にたいとは思わないけど、損なわれたくない。長く続いていくものはどうしてもすり減って、いつかはなくなってしまうことが怖い。

内面をさらけだすとこんな感じで、それを表面的に隠して生きていく。この日記も私のそんな内側で、面と向かって誰かに伝えることは出来ないことばかりだ。誰かに向けて発信しているつもりはなく、だけど、心のどこかで誰かが読んでくれたらいいなと思っている。そんな言葉たちです。




3月26日(Tuesday)

本は読みたいのだけど色々と考えたくはなくて、ライトな本を選ぶことにする。高里椎奈『うちの執事に願ったならば6』と、あと電子書籍でライトノベルを2冊ほど読んだ。

最近やっと少しずつ電子書籍を読むことに目も頭も慣れてきて、シリーズの多い作品は電子で集めることが出来るといいなと思っている。

紙の本が好きなのは相変わずなので、ほどよい塩梅で使い分けていきたいな。



3月27日(Wednesday)

昨夜から降り続く雨の音で夜に何度か目が覚めた。おかげで朝からずっと眠い。でも雪にならない雨は春が来る前触れのようで嬉しい。暖かいところは桜も咲き始めているようだし、今年はお花見に行きたい。

初野晴『退出ゲーム』を読み終わる



3月28日(Thursday)

なんとなく読書に身が入らなくて、SFマガジン穂村弘『にょにょっ記』西加奈子『うつくしい人』をパラパラと併読。読まなくてもいいのだけど、読まずにもいられない。



3月29日(Friday)

電車に乗る。
女性が連れの男性に向かってしみじみと云った。
「モグラって本当はサングラスもシャベルももってないんだよね」

穂村弘『にょにょっ記』

今の気分に『にょにょっ記』のゆるさがハマって癒された。今週はなんだかひどく疲れていて、それなのに上手く眠れない日が続いていた。この土日はしっかり休みたいところだけど、明日は実家に帰る。

それにしても今日は暖かった。 



3月30日(Saturday)

実家に帰る。お土産にドーナツ。
お正月にも帰らなかったので今年初めての帰省になる。別に帰る必要があったわけではないのだけど、祖父の調子が心配だったから顔が見たくなった。少し前までは痛みでご飯もまともに食べられなかったそうなのだけど、痛み止めを変えて良くなってきたという。

もう延命治療から緩和ケアの段階に入って、いつ何があってもおかしくない。そんな祖父が私の顔を見るだけで嬉しそうなのが泣きたいような気持ちになってしまう。

その一方で実家の気楽さと息苦しさ。両親から弟たちの夫婦の話を聞きながら、反応に困る私がいる。ニコニコしていい子である私は、それなのにこの家に染まりきることが出来ない。最近は喘息がキツイという話をしてしまって、父から「うちの家系にそんなに身体の弱いヤツいないのに……」とお決まりのセリフが返ってくる。私が身体を壊すたびに、本を読むほどに、物語に耽溺するから、私は少しずつこの家から弾かれいるのだと思う。

今、併読している本達がどれも持ち歩きには不向きなので稲垣足穂『一千一秒物語』を持って行った。

昨夜、メトロポリタンの前で電車からとび下りたはずみに、自分を落としてまった
ムーヴィのビラのまえでタバコに火をつけたのも──かどを曲がってきた電車にとび乗ったのも──窓からキラキラした灯と群衆とを見たのも──むかい側に腰かけていたレディの香水の匂いも みんなハッキリ頭に残っいるのだが 電車を飛び下りて気がつくと 自分がいなくなっていた

稲垣足穂『一千一秒物語』



3月31日(Sunday)

三月最終日。今日も暖かい日で、三月の終わりにとても軽やかにふさわしいなぁ、と外を眺めながら思う。

西加奈子『うつくしい人』を読み終わった。最初は他人の評価ばかりを気にして、なんて生きにくそうな、と息苦しい気持ちにすらなったけど、島のリゾートホテルへの旅行を経て、彼女の気持ちの根底に触れるほどに同化し、浄化されていった。

生まれてからずっと愛され、愛し続けてきた彼女は、自分を客観視し、まわりにどう思われているか斟酌しなければいけない状況になかった。悪いことは一切しなかったし、皆を愛する、それだけで足りる素晴らしい世界にいたのに、周りが変わってしまったのだ。
彼女は愚かにも、それに気づかなかった。

西加奈子『うつくしい人』

私が見てほしい、自己顕示したいのは、姉なのではないか。
自分は「成功」している、あなたが脱落した「社会」の荒波の中、私はいっとう豪華な客船に乗って、優雅にすすんでいる。素敵な男性と性交するし、友達もいるし、望まれた結婚をする。あなたがどっぷりはまっているメルヘンの世界など、こちらにはない。あなたは敗者だ。私を見て。もっと、私を見て。見て見て見て見て。

同上

姉の呪縛。それに囚われて雁字搦めになっていた心が、限界を迎え、そして逃げてきた先で、バラバラで、でもどこか似ている不格好な坂崎とマティアスの二人に出会う。本当の自分をさらけ出しながら、笑って泣いて、そして、ずっと憎むように嫌ってきた姉への気持ちも思い出す。

海辺のリゾートホテルに似合う、定住はできない、いずれ過ぎ去る場所としての鮮やかな読後感に大満足だった。

姉のように、ただ「自分」であり続け、その「自分」の欲望に従って生きること、それが美しさなのだろうか。ならば、私はその美しさを持つことは、永遠に出来ない。
私はきっと、姉になりたかったのだ。
いつだって、姉を見てきた。ずっと見てきた。
姉を蔑み、堀井早百合を傷つけることで、私はやっと「自分」を保つことが出来たのだ。姉たちの持つ「美しさ」に憧れ、決して手に入らないものだと分かっていたからこそ、私は彼女たちを傷つけたかった。誰かに決められた「自分」であっても、それが私にとっての、すべてだった。姉のいる世界にいるための、すべてだった。

同上

振り返ると最近はずっと自分の内面の重荷と孤独のようなものがグルグルと渦を巻いていて、それを「さらけ出す」ということを考えていた気がする。重いからと捨ててしまうのではなく、私が私のままであるために自由になる試練として。

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