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久しぶりに日々を綴る【読書日記】

9月7日(Sat)

夫が高校時代の友達の結婚式に出掛けるので、私も友人に声をかけて遊びに行くことにした。私の目的地が夫の向かう式場と同じ方向なので途中の駅まで送るつもりが、急遽自分の車で行くというのでひとりでのドライブになった。

少し遅れると連絡のあった友人と合流して昼食。前に会ったのは一年前だけど、お互い大きく環境が変わる出来事があったので話は尽きない。途中で買い物をしながら、気になっていたカフェへ。ベイクドチーズケーキとオレンジソーダ。友人の転職先の人間関係の話が怖すぎて、恵まれた自分の環境に感謝したくなる。

書店にも寄らせてもらったのだけど、なんとなくゆっくり見てまわったり買ったりするような空気ではなかった。私にとっては数少ない本の話ができる(語り合うというものではないけど)友人だったのだけど、最近はもうほとんど読まないという。こういう経験は大学を卒業してからもう幾度もあって、そのたびに自分ばかりが文学の世界に齧り付いていることへの虚しさとか愚かさとか寂しさとか罪悪感みたいなものが入り交じった複雑な気持ちが込み上げてくる。

私はいつまでも本を読んでたいと思う。いつまでも、いつまでも、私が私として生き延びている限り。だけど、その一生とはいつまでなのだろうと立ち止まり、やはり怖くなる。私が読んでは積み上げてきた本の山は、他の誰かから見たらあまりに無価値なもので、もっと深く生活に根付くようにと諭されている気になって、反論の仕方も分からず蹲る。

それでもやはり、本を読んで生きていく以外の生き方が分からない。



9月8日(Sun)

秋田みやび『ぼんくら陰陽師の花嫁』6巻を読み終えた。前回のつづき、廃遊園地に閉じ込められた芹。そんな芹のもとに向かう皇臥の余裕のなさがすっごくいい……無事に会えたときの二人もとてもいい……。恋愛に重きを置きすぎるのではなく、だけどちゃんと二人の関係が変わっていっているのを感じるのがね!今回の終わりも少し不穏だったのでつづきが気になるけど、もうすぐ現刊行分まで追いついてしまうのが……。

先月はこうしてぼんくら陰陽師にハマった影響でライト文芸を読むことが多かったから、今月は少し重めの読書がしたいなと思いつつ、やっぱりこうして本を読むのは楽しいなと思う。



9月9日(Mon)

最近、夫は仕事が忙しい時期で帰りが遅い。今日も夜の十時を回ってからの帰宅で、お風呂に入ったらすぐに寝てしまった。今月下旬には落ち着くと言っていたので、こっそりと寝室を覗きながらエールを送った。がんばれー。

そうして今日読み終えたのは石川啄木『あこがれ』。愛蔵版詩集シリーズのものです。少し前に工藤玲音『水中で口笛』を読み、この歌集を啄木の命日までに出したかった、と書かれていたことで読みたくなったのだけど、我が家には啄木の歌集はないので詩集を。

有名な、働けどはたらけど……のような自然主義の啄木より、ロマン主義期の啄木の言葉が好きだ。意味をひとつひとつ映像にするというより、日本語としての美しさがすうと沁みてくる。

さはこの夕和、何の意、ああ海原。
遠波ましら帆入日の光うけて
華やかにもまたしづまなる平和、げに
百合花添へ眠る少女の夢に似るよ。

『夕の海』より抜粋

ついでに開発社『文豪と暮らし~彼らが愛した物・食・場所~』を読む。文学館や記念館を巡るたびに、自分の愛する言葉を生み出した人が実在していたのだということに興奮するのは当然の楽しみ方だろうけど、私も忠実に毎回とても興奮する。特に煙草……煙草が好きです。私はまったく吸わないのだけど煙草を吸う文豪への愛を再確認する。



9月10日(Tue)

仕事関係の人が一人、コロナになってしまったということで予定の変更が少しあった。とはいえ、まあ大きくは変わらず今日の仕事を終える。

読み終えたのは森田たま『石狩少女』。北海道で生まれ育った文学好きの少女。そうした少女の自我は良妻賢母であることを強く求める封建的な社会では異端として見なされる。読みながら頭の中に思い浮かぶのは野溝七生子『山梔』の阿字子である。本を愛することを不可ないことと強いられた阿字子の系譜。
悠紀子には理解ある先生がいて、家族も悠紀ちゃんは文学かぶれの不良少女だといいながらも虐げられはしていない。だから、『山梔』を読んだ時よりは胸の痛みは少ないのだけど、今よりずっと本を読む女は生きづらい時代があったのだと痛感させられる。



9月11日(Wed)

SFマガジン2024年10月号を読み終える。ファッション&美容SF特集。読切の暴力と破滅の運び手『あなたの部分の物語』が読みたくて買ったのだけど面白かった。でもやっぱり『あなたの部分の物語』が一番面白かったかな。他のお話よりは「ファッション」という感じではなかったけど、男らしさの象徴としてのファルスではなく、弱き部分として外性器を取り払う。その一方でオーガニックで生きること、女の立場とか、他人の部分が付いちゃうってどんな設定だよって思ってたけど意外と社会的……と思っていたら、後半の展開に声を上げて笑ってしまった。他人のもので何をしてるんだよ。それなのに、気がつけば最後は泣きそうで、なんだかとてもいいものを読んだとしみじみしてしまった。

そのあと、Amazonプライムでクラウディオ・ロッシ・マッシミ監督『丘の上の本屋さん』を観た。イタリア映画。もともとはウェス・アンダーソン監督『アステロイド・シティ』を観ようとしていたのだけど、オススメ欄に出てきてなんとなく観始めたら引き込まれていた。リデロ爺さんの小さな本屋。そこを訪れる街の人。そして、一人の少年との交流。

リデロ爺さんが貸してくれた本は移民の少年に新たな景色を見せる。美しい街並みと優しく悪意のない時間の流れは安心してそのすべてを受け入れさせてくれる。やや教訓めいたというか慈善的というかな部分が見えなくもないけど、こんな優しい世界だからこれでいいのだと素直に思える。本は、自分で読まなくてはわからない。



9月12日(Thu)

一日中、なんかちょっとずつ駄目な日だった。
『乱歩謎解きクロニクル』を20ページしか読めなかった。



9月13日(Fri)

母が遊びに来た。行きたかったパン屋に行き、その後お菓子を見る。ビスコッティを買った。
あとは服を見て、本屋に行って新しい手帳を探す。

順調に楽しく過ごしている中で、母がまた亡くなった愛犬の話をする。もう一年半が経とうとするのに、母はいつまで私に愛犬の喪失への悲しみを共有させようとするのだろう。「可愛かったね」「いい子だったね」と私の前で泣く母に、私も同じように泣いてあげれば満足するのだろう。だけど、私はそんなことはしたくないから、曖昧に目を伏せることしか出来ない。

母はいつになったら私のこの気持ちに気づいてくれるのだろう。あの子を思う私の気持ちは私のものです。同じ愛として、悲しみとして、処理などさせません。だけど、そう言葉にしたって母にはきっと伝わらないから、さめざめと涙を流す母の前で私はいつまでもいつまでも冷たい娘になるしかない。

実家の居室には、今もまだ真っ白な布に包まれた愛犬の骨壷がある。家族を見守ってくれているのだと母は言う。もしも母より先に私が死んだとして、母は同じように私を地上に縛り付けるのだろうかと考えてぞっとした。そんなことを考えてしまった自分に、そして有り得てもおかしくない「もしも」の未来に。

ちなみに書店では最近無性に読みたくなった川端康成『眠れる美女』を買いました。堀辰雄『ルウベンスの偽画』は探すのを忘れた。

夜、相変わらず仕事に疲れて寝ている夫の隣で中相作『乱歩謎解きクロニクル』を読み終える。「謎」ではなく「秘密」を映し出すための手段としての探偵小説から、本格探偵小説とトリックに向き合い、そして江戸川乱歩としての限界。私は結局、探偵云々よりも乱歩の描く美と怪奇を愛してしまう読者なのだけど、そこに見たいのはやはり世界の二重性なのだろう。

「うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと」

夫を起こさないように小声で唱える。現実の世に退屈しながら、それでも乱歩はうつし世を歩ききった。私の夢は、どこまで続くのだろう。寝返りを打つ夫を見ながら、せめて道があるうちはしっかり歩かねばとは思う。

人間が死んで長く地に埋もれてしまうと考える事は我慢なりがたく、死ねば大空高く身も心もかるがると飛翔して、白雲の中へとけいると思いたかった。

森田たま『石狩少女』


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