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青い世界と白銀の景色【読書日記】

1月8日(Monday)

夫の冬休み最終日。もう働き方を忘れたという夫と一緒にユニクロへ出かけ、帰りに少し離れた激安スーパーで買い物をした。もっと近所にあればいいんだけどなぁ。

今読んでいるのは、皆川博子『彗星図書館』市川拓司『こんなにも優しい、世界の終わりかた』。ふと読みたくなった宮沢賢治『チュウリップの幻術』江戸川乱歩『何者』も読んだ。最近またウズウズと乱歩ブームが来ている。

最近読んだ本の中で久しぶりに、私には合わなかったな、と思った本があった。それをきっかけに自分の好き嫌いを分析してみたいと思ったけれど、ぴたりと合う言葉が思い浮かばない。一言でいってしまうのなら美しいものが好きだけど、その美しいが何なのかと言われると言葉に詰まる。綺麗な言葉で綺麗ではない世界を美しいとまとめあげてしまうもの。絶望を絶望のまま芸術に仕立て上げるもの。あとはできるだけ遠くに行けるもの。そんな感じ。



1月9日(Tuesday)

江戸川乱歩『石榴』を読む。そういえばザクロは人の味がするというのは鬼子母神だったけと思いながら、ジュースなどでは別としてちゃんとザクロを食べたことがないことに気がついた。

夜、『こんなにも優しい、世界の終わりかた』を読み終わる。市川拓司作品らしい悲しく寂しく愛しい世界だった。ただ最後の方は私の気持ちが少しだけダレてしまった。こういうときは別の本に読み替えるのがいいのだけど、あと少しと思うとつい読み切ってしまいたくもなるんだよなぁ。

そのまま『彗星図書館』を読み始めたら、ジョージ・フレデリック・ワッツの『希望』の話が出てきた。目を覆われた女性が竪琴を抱えながら地球のような球体の上に座り込む作品。その背景は暗いブルーで「ああ、また青い終わりだな」と、私の中で結ばれた何かが静かに溶け合っていくのを感じた。やっぱり終わりは青がいい。悲惨で恐ろしい黒や赤ではなくて、できるだけ透明な純度の高い霧のような優しい青。そこで静かに眠るような終わり。



1月10日(Wednesday)

今日は江戸川乱歩『心理試験』『赤い部屋』。乱歩の作品を最近読み返しながらすっかり忘れてしまったものばかりだと思っていたけど『赤い部屋』はよく覚えていた。それでも想像する赤い部屋、そして男の語りは気味が悪く分かっていながら騙される興奮を楽しむ。

明日は午前中から大切な用事があるので早く寝ようと思っていたのに、なかなか寝付けず気がつけば日付を超えてしまっていた。



1月11日(Thursday)

朝、応援していた球団の応援していた選手が人的補償で移籍する情報を見て混乱。なんだか最近は野球熱も冷めてきてもっぱら陸上に偏ってはいたのだけど衝撃は衝撃。

午前中に用事を済ませ、帰ってきてから村山早紀『ルリユール』を読んだ。夏休みに祖母の家に出かけた少女が出会う不思議な御屋敷、そのルリユールの工房。そして、そこに住む魔女。本が好きで、ファンタジーが好きな人なら間違いなく好きなお話すぎた。

本という柔らかなものに想いと言葉を託してきた人間の歴史(デジタルと紙のどちらが情報媒体として強いのかは別の話として)の中で、その想いをできるだけ美しく後世に残したいという本読みの希望。そういう願いが優しく救われる気持ちになった。

「あなたはお化けかも知れない。魔女なのかも知れない。でも、わたしの大切なお師匠様、美しい本を作り、その手でひとを幸せにする人です。だから、怖くなんかありません」

村山早紀『ルリユール』

喋る7匹の猫も不思議な屋敷もすべて受け入れる。不思議が不思議のままあることを許してくれるお話が好きです。

夜、朝の騒動が別の選手に変更されたことを知る。正直、好きな選手はみんなどこに行っても寂しい。



1月12日(Friday)

少しずつ読んでいた『彗星図書室』を読み終わる。皆川博子がかつて書いた児童文学が「これは児童文学ではない」という講評を受けたことについて書いてあった。

大人にとって都合のいい、健康的な子供像──元気で腕白で、少々脱線するけれど、友情に篤く、助け合って──を書くのが、先生たちの求める児童文学なのであった。大人だってできないことを子供に押し付けている。
(中略)
〈児童文学〉に窮屈な定義があることを知らず、『にんじん』や『蝿の王』『異端の鳥』、ずっと後に邦訳がでた『悪童日記』、それらが私にとっての〈児童文学〉だった。最初から、私は定義を間違えていたと、今になって知る。子供の時から、子供向けに書かれたお話の教訓臭が嫌いだった。

皆川博子『彗星図書館』

以前に読んだ『〈少女小説〉ワンダーランド』の中でも似たようことが書かれていた。私の求める少年少女の出てくる物語はこちら側で、だけどだからと言ってこれが真実の子供たちでないことは分かっている。単なる好みの問題で、私がフィクションの世界の少年少女に求めるのは、透徹した残酷さと強かさ、そして脆さを持った、健全とは別の形で作り上げられた少年少女たちなのだと思う。



1月13日(Saturday)

江戸川乱歩『人間椅子』『木馬は廻る』、他随筆をいくつか読んだ。今回読んだのは『湊かなえ編 江戸川乱歩傑作選鏡』なのだけど、以前読んだ桜庭一樹編に比べて本格的ミステリを中心に編まれている。私の好みとしては幻想的、耽美なものではあるのだけど今ちょうどミステリ欲が高まっている時期なので楽しかった。

その欲が高じた勢いで読み始めたのは有栖川有栖『ミステリ国の人々』。様々な作品に登場する探偵を紹介されている本だけど、ミステリ作品にあまり触れてこなかった身としては初めましての探偵の多さに驚く。また読みたいものが増える。

夜、久しぶりにモスバーガーが食べたくなって買いに行くと、帰宅時に雪が降り始めた。あっという間に辺りは白くなり雪景色。



1月14日(Sunday)

昨晩の雪がそれなりに積もりカーテンを開けた瞬間から、その光に魅せられる。窓を開けると吹き込む冷たく研ぎ澄まされた空気、そして一面の銀世界に光が反射して輝きを増す。引越し前の家では見えなかった雪の降り積る田畑と木々の様子に深く息をつく。
冬よりは夏が好きだけど、この瞬間だけは冬というものを心から愛したくなる。鮮やかさとは違う色の純度。絶対的な拒絶と孤高。そんなものに敬服しながら朝のお茶を飲む。

そうして雪景色を眺めながら恩田陸『私の家では何も起こらない』を読み終える。丘の上にある古い「幽霊屋敷」と呼ばれる家を舞台にした連続短編。ゾクゾクはする。だけど、怖いのかと言われるとそうではない。あくまでそれは過去の話を聞き手として知ったに過ぎない。その家では確かに、確かに、そんな悲惨で不気味な出来事が繰り返し起きてきたのかもしれない。だけどそれはすべて過去の話。今にして思えば──。

そう、生者の世界は恐ろしい。どんなことでも起きる。どんな悲惨なことでも、どんな狂気も、それは全て生者たちのもの。
それに比べれば、死者たちはなんと優しいことだろう。過去に生き、レースのカーテンの影や、階段の下の暗がりにひっそりと佇んでいるだけ。だから、私の家では決して何も起こらない。

恩田陸『私の家では何も起こらない』

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