見出し画像

いつか悲しみになる喜びだと知っている【読書日記】

2月12日(Monday)

夫の誕生日。前日から明日は誕生日だね!!と言いまくっていたのに朝一で祝うのを忘れた。一緒に朝ごはんを食べ終わってから思い出して慌てて全力で祝う。

特に特別なことはしなくていいと言われていたので普通に過ごしたけれど、夕ご飯は夫の好きな手巻き寿司にした。たいした具材ではないのだけど特別感があって好き。

1日ふたりでぐだぐだと過ごし、一緒にゲームもする。夫はハリーポッターを映画も原作も観ている人なので色々と教わりつつホグワーツ内を走り回る。キャラクターはそれぞれ作った。ふたりとも女の子のキャラクターなのでどちらの方が可愛いかと言い合う。あまりに好みの違いが顕著で笑ってしまった。



2月13日(Tuesday)

頼んでいたエアロバイクが届いたので、とりあえず部屋の模様替え。本棚を動かす必要があるので一度中の本をすべて取り出す。部屋の雰囲気がまたがらりと変わった。以前の部屋より少しだけ広くなったぶん持て余していたスペースが埋まっていい感じ。

最近ぽつぽつと読み返していた岩波文庫の『萩原朔太郎詩集』を読み終わる。三好達治編。

けれども蛸は死ななかつた。彼が消えてしまつた後ですらも、尚ほ且つ永遠にそこに生きてゐた。古ぼけた、空つぽの、忘れられた水族館の槽の中で。永遠に──おそらくは幾世紀の間を通じて──或るすごい欠乏と不満を持つた、人の目に見えない動物が生きて居た。

萩原朔太郎『死なない蛸』

朔太郎の詩で好きなものがたくさんあるけれど、一番はじめに好きだと思ったのは「死なない蛸」。人々の記憶から忘れ去られた水槽の中で自分を食べて永遠になった蛸。実体のない永遠。不朽の無限と孤独を目の当たりにした興奮。こんな言葉を紡ぐ人間への興味と親近感が今もずっと私の中の拠り所なってるのですよ、朔太郎。ああ、私も地上に陰鬱な影を置き去りにしたい。




2月14日(Wednesday)

仕事で新しく覚えることが多すぎて爆発しかけている。だけどメモを片手に奔走するのが久しぶりで少し楽しい。

そしてバレンタイン。今年は夫へのチョコを既製品にしてしまっていて、夕食後に渡そうとしていたら帰って早々に「今日は何の日だから知ってる??」と嬉々として訊かれる。チョコを渡すと喜んでもらえた。誕生日はケーキもいらないと言っていたのにチョコは欲しいんだねと笑うと「そりゃ欲しいよ、バレンタインだもん」と当たり前のように言われる。そういうところが好きだなあと思う。

恒川光太郎『無貌の神』を読み始めた。少しだけ久しぶりの恒川作品。とりあえず「無貌の神」と「青天狗の乱」を読了。洗練された畏怖を呼び覚まされる。



2月15日(Thursday)

友人たちとホテルビュッフェに行く。直前で色々とバタバタするも無事に到着。大学時代の友人なので当時のことやお互いの生活についての話が多くなる。もうすぐ出産を控える友人の話をちゃんと笑顔で聞けていたかなと、この日記を書きながら不安になってきた。

前回の妊娠の時はおなかが大きくなってから会うことはなかったので、今回その姿を目の前に見てとても不思議な気持ちになった。大学時代、ただ馬鹿みたいな話ばかりを繰り返していた友人が母であるという事実。当時から話してはいたので私が子を産まないことを決めていることについては何も言われない心地良さはあるけれど、母として体験することの生々しさに引け目を感じずにはいられなかった。

彼女の生き方はとても正しくて、我が子のために愛情も時間も労力も捧ぐことが出来るのは素晴らしいと思う。どうか彼女が幸せに日々を過ごしていけますようにと願いながら、これからもきっと、本の防壁を築こうと囲まれた日陰で生きていく私との距離が離れていくことを感じる。

せっかく駅まで来たので書店に寄って帰ると話すと友人も着いてきてくれるという。夫以外の人と書店に行くのは滅多にないので緊張。エラリー・クイーンの国名シリーズと下鴨アンティークの続きを買おうとしたのにどちらもなかった。

友人は映像化されることを機に綾辻行人『十角館の殺人』を読みたいと買っていた。私も一緒に買おうかと思ったけれど今日のところはセーブしておく。一緒に本を眺めながら、卒業してから本を読まなくなったという友人の話に、また少しだけ置いていかれたような身勝手すぎる孤独を感じる。

久しぶりに電車に乗ったので車内での読書。『無貌の神』を読み終わる。系統は違うものの、どの話にも森閑とした冷たさがある。恒川作品を読むといつも今生きている世界を疑いたくなる。神域とはこういうものなのだろうか。ある日突然、神様に隠されるように見知らぬ土地にいる。だけどそこは確かに現実と地続きの場所で、ただ自由に出入りすることはできない。静かに、残酷に、畏れながら、そこにあるという場所。




2月16日(Friday)

川上弘美『どこから行っても遠い町』を読んでいる。その中の「夕つかたの水」の中で「会社でいちばん嫌なのって、なんだと思う」の答えとして「疑いを持たないひとたち」と言っている箇所があった。私がよく考える「フィクションを知らない人たち」と、とても近い存在なんだと思う。自分が生きている場所、選んだ道を妄信的に信じ抜ける人たち。周りにも道があるかもしれないと疑いもせず、ここではない世界を認めようとしない。

それが街中ですれ違うだけの相手ですら怖いと思うのに、同じ家で暮らしてきた家族だったらどうしたらいいのだろう。悪い人たちではないのだ。それなのに私だけがまるで違う星で生まれたみたいに居心地の悪さを感じている。

「言葉がねえ、ちがうのよ」
ずいぶんたってから、ぽつりとお母さんは答えた。
「言葉?」あたしは聞き返した。
そう、言葉。たとえばね、うれしい、っていう言葉。そのあらわす気持ちが、あのひとたちとお母さんとでは、ずいぶん違うの。
「どんなふうに?」
あのね、たとえばあのひとたちは、うれしいときには、こう、電信柱の電線を、電気がものすごい勢いで走っていくみたいな感じに、なるのよね。
「なにそれ」あたしは笑った。お母さんも、少しだけ笑った。
「じゃあ、お母さんはうれしいとき、どんなふうなの」聞いてみる。
またしばらく、お母さんは考えていた。
「水の中に沈んで、それでね」お母さんは静かに説明する。
「ゆっくり水をふくんでいって、しみとおっていて、でも最後にはね」
「最後に?」
「ふくらみすぎちゃって、かなしくなるような、そんなふうな感じ、かしら」

川上弘美「夕つかたの水」『どこから行っても遠い町』

喜びを喜びとしてだけ捉えて、当たり前みたいに生きていける人。そのあとにくる悲しみを知らずに生きていられる人たち。



2月17日(Saturday)

夫のユニクロのダウンを洗濯する。シンクに水を張ってばしゃばしゃと押していく。水が冷たくて時々悲鳴をあげながら洗った。

『どこから行っても遠い町』を読み終えた。どこかの町に住む人たちの生活が淡々と描かれ繋がれる。大きな事件が起きるわけではなく、だけど、たしかにそれぞれの生き方がある。人が生きるということはそのぶんだけ秘密を抱えるということ、そして弱くなるということなのかもしれないなとぼんやりと考える。

一日の終わりになんだかどうしようもなく悲しくなったけれど、たぶん、これもまた生きるということ。



2月18日(Sunday)

映画が観たいなと思いながら何を見たらいいか分からずにいる。とりあえずサブスクやFilmarksを散策。古い映画が観たい。名作といわれるものを興味の範囲でおさえていきたいけど何を見ようかな。

お昼に夫と一緒にすき家に来た。コナンのクリアファイルが貰えることを知って少し悩んだけれど結局いつもの高菜明太マヨ牛丼を選ぶ。

それにしても今日は暖かい。春みたいだ。冬より夏が好きだけど季節外れに暖かすぎるのも嬉しいというよりは不安になる。好きな季節はあってもそれが順番に巡ってくることが好きなわけです。

読書は俵万智『愛する源氏物語』を読み始めました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?