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愛も憎しみも知ってしまった【読書日記】

2月26日(Monday)

高里椎奈『うちの執事に願ったならば5』を読了。「理想」という言葉を考えさせられる。

「お嬢様。理想は人に求めるのではありません。御自身のお心に、一番星の様に灯しておくものです。それがある限り、お嬢様の気高さが失われる事はありません」

高里椎奈「A grin without A cat」『うちの執事に願ったならば5』

ヴァズのセリフなのだけど、その通りだと思うし、その難しさもよく分かる。理想の自分を持つことは大事だけど、それをまわりの環境、人にまで求めるのは違う。だからといって、理想の自分になれば必ずしもまわりがついてくるわけでもない。

同じことを「期待」に対しても思う。スポーツなどの場面でよく耳にする「期待に応えられなくて申し訳ない」という言葉を聞くたびに、誰に対して謝っているのだろう、と思う。生活やお金の関わってくるプロになるほどに、様々な方面への「期待への責任」が重くなるのだろうけど、「期待を抱く」というのはとても個人的なものだと思う。だから、望んだ結果が得られなかったとき悔しいと思うのは自分に対してだけでいいんだといいたくなる。そんな感じで私は基本的に好きな人のことを全肯定したくなるので、好きな選手なんかが色々と勝手な厳しいことを言われていると「うるせーやい!」って思ってます。

とはいっても、やっぱり身近になればるほど自分が置かれている環境が、自分の理想と異なることに対するままならなさというのは感じるので、一番星のように灯しておけば気高さは失われない、というのはこれから胸に刻んでいきたい。気高くありたい。



2月27日(Tuesday)

最近はアラームが鳴るより前に目が覚めることが多いので、油断してアラームを掛け忘れていた。こういう日に限ってギリギリに起きることになるので焦る。遅れなくてよかった。

エミリー・ブロンテ『嵐が丘』(鴻巣友季子訳)を読み終わった。中学生の時に文学少女シリーズに影響を受けて読んだまま、よく分からなかったなという印象を抱え続けていたのだけど、こうして再読してみると激情の奔流に飲み込まれ、なんて面白いのだろうと興奮しまくりだった。

そして、分からないと思いながら読んでいたはずの昔の記憶から掘り起こされる感情がいくつもあり、確実にこの小説も今の私を作り上げる一部なんだなと思わずにはいられない。

ヒースクリフのキャサリンへの激情を見ていると愛憎という言葉はこのためにあるのだろうという気がしてくる。同じ人間に対して愛することと憎むことという相反する想いは同時に抱かれるのだ。

終盤のヒースクリフや、キャシーとヘアトンのふたりを見ていると、何かが違えばヒースクリフとキャサリンにもこんな未来があったんじゃないかと考えてしまいそうになるけど、やっぱりどうしたってそんなことは叶わなかっただろうと思い直す。ふたりは確かにお互いを激しく愛し合い、求め合っていた。だけど、それ以上にお互いすぎた。

どうして愛しているかというと、ハンサムだからじゃなくてね、ネリー、あの子がわたし以上にわたしだからよ。人間の魂がなにで出来ていようと、ヒースクリフとわたしの魂はおなじもの。

エミリー・ブロンテ『嵐が丘』(鴻巣友季子訳)

いつでもそばにいてくれ──どんな姿でもいい──俺をいっそ狂わせてくれ! おまえの姿の見えないこんなどん底にだけは残していかないでくれ! ちくしょう! どう云えばいいんだ! 自分の命なしには生きていけない! 自分の魂なしに生きていけるわけがないんだ!

同上

おなじ魂であるものが引き裂かれれば、それを求め合うことが必然だろう。だけど、それはもう別の器に入ってしまった。完全なひとつとして混ざり合うことは叶わない。そんな欠陥を抱えたまま生きる内側に宿る激しさが苦しくも見つめ続けずにはいられない。



2月28日(Wednesday)

夫が仕事のため朝早くに出ていく。朝ご飯の支度をして送り出してから二度寝をしようかと思ったけど、やっぱり眠れなかった。

仕事もそろそろ慣れ始めてきて通常業務にはわりと対応出来るようになったけれど、イレギュラーはどうしても必要以上にバタバタしてしまう。その都度覚えていきたいと思うんだけど、イレギュラーが起こると忙しくなるわけで、落ち着いたら教えると言われたまま、なあなあに過ぎてしまうジレンマ。仕方ないけどもどかしい。

仕事帰りに創元SF文庫から昨年末に出ていた出た『星、はるか遠く: 宇宙探査SF傑作選』を買う。



2月29日(Thursday)

うるう日。仕事で今日何日だっけと確認するまで今年がうるう年であることすら知らなかった。毎日カレンダーを確認していたはずなのにおかしい。ちなみに今日はポチャッコの誕生日らしい。

今月は新しい仕事を始めて生活に慣れるまでは読書は進まないかなと思っていたのだけど案外読めていた19冊。冊数がすべてではないけれど少し安心する。読みたいという欲ばかりあって読む時間を捻出できないストレスには新卒から勤めていた会社で嫌という程に味わったのでもう勘弁。息をするように本を読む生き物でいたい。

ちなみに今日は斎藤環『戦闘美少女の精神分析』を読み終わった。戦闘美少女……というよりはオタク論の色が強くて、思っていたのとは少し違ったけれど面白かった。
私は自分がゲームやアニメが好きなオタクだと思っているけれど、この本が刊行された2000年以前のオタクの置かれる状況とはまるで違う世界で育ってきた。そこまでのニッチさはなくとも気楽にオタクを名乗ることが出来て、それがファッション的にも受け入れられて、日常としてアニメ・漫画を語ることがありふれている。

そして戦闘美少女たちも好きだ。『おジャ魔女どれみ』を見て育ち、その後数々の作品で戦う少女たちに思いを馳せてきた。それは憧れであり、単純に、可愛くって強くって素敵!という感情だった。

だけどふと、それを「虚構」と言われると、彼女たちはなぜ戦っていたのだろうと立ち止まる。当然、作品の中では、仲間のためや悪を倒すためという理由がある。だけど、その理由さえ虚構なのだ。作り上げられた世界の中で、ただ戦う運命を作り上げられ、存在するために戦場に生きる少年少女。彼女たちが俯瞰的にその世界を見たとき、ただ守られるだけのヒロインではいられなかったことを嘆くだろうか、それとも力を得て自分の足で立てたことを誇りとするだろうか。

漫画・アニメという虚構空間において、自律的な欲望の対象を成立させること。まさにそれこそが、おたくの究極の夢ではなかったか。「現実」の性的対象の代替物にすぎない「虚構」などではなく、「現実」という担保を必要としない虚構を作り出すこと。どんなに緻密に虚構世界を構築してみせても、それだけではまったく不足なのだ。虚構が自律的なリアリティを獲得するためには、虚構それ自体が欲望される必要がある。もしそのような虚構が可能になるなら、その時はじめて「現実」は「虚構」に跪くだろう。

斎藤環『戦闘美少女の精神分析』



3月1日(Friday)

今日は夫が遅くなる日。簡単に焼きそばを作って夕食を済ませる。

ペギー・オドネル・ヘフィントン『それでも母親になるべきですか』を読み始めた。自分の在り方だけを考えていればよかった今までから、その選択が家族やまわりの人たちとの関わり方を変えていくこと、その利己的さのようなものを考えるようになってきた。だから覚悟を持って読み始めたのだけど、思っていたよりは打ちのめされることもなかった。

漠然とした不安や悩みはあるものの、私は同じ考えの夫と出会えて今の生活を送ることができ、比較的に満足のいく生き方ができている。だからそこまでのジェンダー的な葛藤はないのかもしれない。年齢的に本格的に隔たりのようものを感じるのはこれからなのかもしれないけれど、それでも、この本の中で語られたような過酷な時代よりは母にはならないという選択は受け入れられやすくなっている。そんな道筋はこうして自分を貫き続けた女性たちが開いてきたのだということはちゃんと知っていたい。

寝る前に『ハリーポッターと秘密の部屋』を観た。賢者の石と記憶が混ざっているところがあって、「あ、これは秘密の部屋だったか」と勝手に納得する。



3月2日(Saturday)

気になっている企画展があったので夫と出かける。せっかく出かけたので大きな書店にも行けた。購入したのは野溝七生子『山梔』、新井素子『グリーン・レクイエム』、『矢川澄子ベストエッセイ 妹たちへ』、エラリー・クイーン『フランス白粉の秘密』。地元の書店になくて買えていなかった本たちが手に入って嬉しい。

帰宅後、読みかけの『それでも母親になるべきですか』を読了。母であるかないかの間に横たわる大きな溝。子どもを産む、そこにある責任を受け入れるという経験の有無の違いによって変わってしまことの多く。それでも出来ることならそれによって二極化せずに、そしてされずに生きていけたらいいのになと思うわけです。
 


3月3日(Sunday)

ひなまつり。だけど我が家にとってはまず東京マラソンの日。選手たちの豪華さにワクワクしながら応援を始めて、前半のスピードの速さに盛り上がる。だけど、私のイチオシ山下くんは10キロ手前で集団から遅れてしまう。悔しいだろうな、と思いながら、それでもマラソンって走っている選手みんなを応援したくなるから感情が騒がしい。

これでパリオリンピックの代表が決まった。半年後かあ、ときっとあっという間にやってきてしまうだろう祭典が待ち遠しくなった。

午後は夫はさっそく走りに行き、私は読書。桜庭一樹『私の男』を読み始めた。

私の男は、ぬすんだ傘をゆっくり広げながら、こちらに歩いてきた。日暮れよりすこしはやく夜が降りてきた、午後六時過ぎの銀座、並木通り。彼のふるびた革靴が、アスファルトを輝かせる水たまりを踏み荒らし、ためらいなく濡れながら近づいてくる。店先のウインドゥにくっついて雨宿りしていたわたしに、ぬすんだ傘を差しだした。その流れるような動きは、傘盗人なのに、落ちぶれ貴族のようにどこか優雅だった。これは、いっそううつくしい、と言い切ってもよい姿のようにわたしは思った。
「けっこん、おめでとう。花」

桜庭一樹『私の男』

この冒頭がとても好きだ。ためらいもなく傘を盗みながら、それを女に差し出して自分は濡れることを当然だと思う男。退廃的な終わりの匂い。それがどうしようもなく始まりから漂い尽くしている。

帰ってきた夫が私を見て「昨日と違う本を読んでいるのに同じだね」と言う。なんの話しだろうと思ったら表紙のことだった。全然雰囲気もタッチも違うのだけど、どちらも人の目から花が咲いている。それを意識して選んだわけではなかったし、言われるまで気づかなかったのに、このタイミングで読んだことが偶然とも言いきれないような気持ちになった。

夜はおでんパーティをすることにする。


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