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嘘かどうか

noteを書き終えてタグをつける時、#エッセイ にするか、#日記 とするか、私はあまり迷わない。

その日あったことを記録的に書けば #日記 
気持ちに焦点をあてて書いたなら #エッセイ 
にしている。
どちらもつけたくない時は、つけないというマイルール。

私が#エッセイ とタグづけしているものは、本来のエッセイの定義からは外れているような気がする。

そもそも、エッセイの定義を正確に分かっているのかもわからない。

小説はフィクションであり創作、
エッセイはノンフィクションと思っている。
心の、半分から上のほうで。
表面よりはもう少しのほう。

が、心の奥ではどちらもフィクション。

読む側の自分からしたらどちらでもいい。

私には、全ての読みものがフィクションである。

(言ったね。言っちゃったね……)

歴史物は?史実に基づいて書いてあるではないか。
事件を追ったルポルタージュは?
インタビュー集は?
場所やお店や人の紹介文章は?
そういうのも全部、つくりごとだとでも言うのか?

そうは思っていない。
書いてあることが嘘だとか、否定したいのではなくて。

情報が、文字として、文章として私の中に入ってくる時点で、全部が「読みもの」という大きなくくりに入る。

「読みもの」=誰かによって書かれたもの、つくられたものと認識して、私の中に流れ込んでくる。

それが本当にあった史実だったり、今も実際にある場所のことだったり、存在する人の紹介だったりするのは、後から入ってくる情報だ。私の場合。



ずいぶんと昔に、母と「読みもの」について話したことがある。

少女期の母は、ノンフィクションじゃないと読む気がしなかったと言う。

理由をたずねると、「誰かが考えて、想像して書いたつくりごとに興味が持てないから。嘘だもの」
なるほど、明快だ。

事実をありのまま述べたものであれば、信用できるし、それなら読んでもいいという気持ちだったようで、

「図書館にある本が、物語フィクション、創作と言われるものが多くて嫌になった」

これを初めて聞いたとき、笑ってしまった。
「嫌になった」母には申し訳ないけれど。

「だんだん物語も読むようになったのよ」とのこと。
本棚にならぶ物語本を見て、そうだったのかと思う。

そして母は「感想文」が昔も今も苦手で、

「人がどう思おうと勝手だし、それを文章にして書かせる神経(学校の読書感想文や、何かイベント後に書かせる作文の類)が分からない。何も思わないし、"感想なんて無い"と思いながら感想文を書くこと自体が無意味で馬鹿らしい」

と言っている。

私は感想文を書くことが"好きか嫌いか"なら好きの方で、母からしたら「信じられないこと」であり、「よくそんなに書くことがあるわね……」といつも呆れられた。

私の noteも同じく。(母は時々読んでくれている)

何故そんなに書くことがあるのかと言われるし、私の書くものは「事細ことこまか過ぎて、長い」と。

それは話し方も同様で、「説明が丁寧過ぎて、長い」と言われる。
夫、息子たちも同意するに違いない。
よく分かる。その通りだもの。

はっきり言ってくれることを、ありがたいと思っている。


話をエッセイに戻す。

エッセイには「私」がある。

本当に私なのかな?と思う。
そこに書いてあることが事実なのかな?と思う。

書いているうちに、書き始めにはなかった気持ちが浮上してくることがあるし、気づきもある。


事実の真偽はどうでもいい。

書いた人がいて、ここに書いたものがあるということが大切。

noteでも、書いてあることが真実かどうか、気にならない。

なんでも鵜呑みにするとか、どれも信じないというのではなくて、私には平等に「読みもの」なのだ。

書いてあることがあって、それを読む人がいて、受け取り方がさまざまなように。

エッセイ、小説、フィクション、ノンフィクションというカテゴリーが、時に目印になって誘導してくれる。

私の書いているものは何なのか、考えると分からなくもなるから、考えない。

だから読んで読んで、書いてみようと思う。
いつか心の底から書きたくないと思うときまで。

今日も読みものをありがとうございます。

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